大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  09

『天台四教儀』現代語訳  09

 

第二項「四諦

(注:この三蔵教の教理として、四諦があげられる。この箇所の記述は大変長い)

 

この三蔵教においては、声聞と縁覚と菩薩の三乗の違いがある。最初の声聞の人は、「生滅四諦(しょうめつのしたい・諦とは真理という意味。天台教学では後の箇所に述べられるが、『涅槃経』の経文に基づいて、これを含めて四種の四諦を説く。生滅四諦はその第一であり、天台教学以外の一般的な教学で言われる四諦とはこれである)」の教えによる。

 

①「苦諦」

 

四諦の第一は、苦諦(くたい・すべては苦しみであるということ)である。これは、二十五有(にじゅうごう)と依正二報(えしょうにほう)のことである。

(注:依正二報の「依」とは、人が生まれ変わる世界のことであり、「正」とは、その人の状態のことである。たとえば、正しく歩んだ人は、その報いとしてより良い状態や姿=「正」となって、より良い世界=「依」に生まれ、悪しき道を歩んだ人はその反対となる、ということである。そのため、「二十五有と依正二報」ということを言い換えれば、人の転生においては、二十五種類の「依」と「正」がある、ということであり、以下、そのことが具体的に述べられる)。

「二十五有」

二十五有とは、衆生(しゅじょう・人間ばかりではなく、生き物すべてを指す言葉)が生まれ変わる転生の世界を二十五種に分類したものであり、次の通りである(注:わかりやすいように原文の順番の一部を入れ替えた)。四悪趣(しあくしゅ・迷いの次元で転生を繰り返す世界を六道というが、そのうちの下から四つの地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界)、四洲(ししゅう・六道の下から五番めは人間の世界であり、その人間の住む世界として、四つの大陸があるとされる。すなわち、南閻浮提 (なんえんぶだい) 、東弗婆提(とうほつぼだい) 、西瞿耶尼(さいくやに)、北欝単越 (ほくうつたんおつ) 。なお、インドをはじめ、私たちが住んでいる大陸は、南閻浮提とされる)、六欲天(ろくよくてん・六道の最も上の世界は天となるが、この天はまた細かく分けられる。天といっても、究極的な世界ではなく、単に人間より上の世界という意味に過ぎず、あくまでも迷って転生を繰り返す世界である。その天において最も人間に近い天に六つあるので、六欲天という。また、この二十五有を欲界・色界・無色界の三界(さんがい)に分けることも基本的に行なわれる。上に見た四悪趣と四州とこの六欲天は、欲望に振り回される世界である欲界に属する)、四禪、梵天、無想天、五那含天(四禪(しぜん・四禅天ともいう。初禅から四禅まであり、さらに細かく分けると十八天となる。三界の二番目の色界であり、欲望はなくなったが、まだ物質的認識がある世界である。しかし、梵天(ぼんてん)、無想天(むそうてん)、五那含天(ごなごんてん)も、この十八天の中に属する。なぜこの三天だけが独立して、二十五有の一つに数えられているかは諸説あって定説はないようである)、四空處天(しくうしょてん・三界の最高の世界である無色界の四つの天。もはや物質的認識もなくなり、精神的活動のみがある世界)である。以上の四洲(人道)と四悪趣(地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道)で八つとなり、(以下、天道)六欲天梵天で十五となり、四禪天と四空處天で二十三となり。無想天と五那含天で二十五となる(注:この順番は原文通りに記した)。すなわち、二十五有は六道の生死転生する世界である。

それでは、これより六道を見ていく。

地獄道

第一に地獄道とは、古代インド語で捺洛迦(ならか・narakaの音写)、または泥黎(ないり・nirayaの音写)という。これは地獄に堕ちた者を苦しめる道具という意味である。地獄は地下にあるとされ、地の牢獄という意味から地獄という。この地獄に八寒八熱などの大獄があり、それぞれに無数の小獄がある。その中で苦しみを受ける者は、その罪によって苦しみの軽重や期間の長短がある。その中で最も重い罪の者が落ちる場所は、一日に八萬四千回の生死を繰り返し、その期間は測り知れないほど長い。その場所に堕ちる者とは、五逆罪(母を殺すこと・父を殺すこと・聖者を殺すこと・仏の体を傷つけること・仏教教団を分裂させること)と十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)のうちでさらに最も重い罪を犯した者である。

畜生道

第二に畜生道(ちくしょうどう)とは、人間のようには立って歩けず、また畜生道以外の五道のどこにでもいる。毛が生えていたり角があったり、鱗や甲羅、羽の毛があり、四つ足のものや足がたくさんあるものもいる。水の中や陸地にいたり、または空を飛んだりして、互いに食い合う。その苦しみは終わりがない。五逆罪と十悪のうちで中間の罪を犯し、愚癡と貪欲の者が堕ちる。

「餓鬼道」

第三に餓鬼道(がきどう)とは、古代インド語で閉黎哆(プレータの音写)という。これも他の世界にも遍く存在する。餓鬼の中で福徳のあるものは、この世の山林の廟にいる神とされるが、福徳のないものは、汚れた場所にいて飲食を得ることはない。あらゆる天にいる存在に鞭打たれ、逃げまどって海や川をふさぐようになるという。その苦しみは無量である。五逆罪と十悪のうちで軽い罪を犯し、へつらったり偽ったりする者が堕ちる。

修羅道

第四に修羅道(しゅらどう・阿修羅道ともいう)とは、無酒(天の存在が酒を飲んでいるのをうらやみ、自分も酒を造ろうとしたが失敗したという逸話からこのように呼ばれる)、無端正(容貌が醜いという意味)、無天(天に生まれる徳がないという意味)などと呼ばれる。海岸や海底に住み、戦いを好み、信頼するものがないために、常に疑う心や妬みをもって恐れに際限がない。仁・義・礼・智・信の五つの世の道徳を行なうこともあるが、それも他のものに勝ろうとする動機からである。十悪は犯さないが、それも最低限であり、そのような者が趣く世界である。

「人道」

第五に人道とは、その住む大陸である四洲によって違いがある。東弗婆提では、寿命は二百五十歲であり、南閻浮提では百歳であり、西瞿耶尼では五百歲である。そして、北欝單越では一千歲であるが、若死にする者はおらず、かえって幸福であるので、聖人も出ない。それこそ八難(八種類の悟りの妨げ。地獄、餓鬼、畜生、長寿、仏から遠い場所、盲聾唖、間違った見解、仏のいない世)の中の長寿である。みな、苦しみと快楽の間を行き来する。仁・義・礼・智・信の五つの世の道徳や、不殺・不盜・不邪淫・不妄語・不飲酒の五つの戒律を守り、十悪を犯さない中間の者が生まれる世界である。

「天道」

第六に天道とは、二十八天あって、どれも異なっている。欲界に六天、色界に十八天、。無色界に四天である。最初の欲界の六天とは、第一に四天王天であり、須弥山(しゅみせん・世界の真ん中にあるとされる非常に高い山)の山腹にある。第二に忉利天(とうりてん・帝釈天の住む天)であり、須弥山の山頂にあって三十三天に分かれている。この第一と第二の天には、十悪を犯さない十善を良く行った者が生まれる。第三に夜摩天(やまてん)であり、第四に兜率天(とそつてん)であり、第五に化楽天(けらくてん)であり、第六に他化自在天(けたじざいてん)である。この四つの天は空中にあり、十善を良く行い、かつ、禅定の最初の段階を試みた者が生まれる。次に色界の十八天は、四禪天の四つに分けられる。初禪は梵衆・梵輔・大梵の三天があり、二禪は少光・無量光・光音の三天があり、三禪は少淨・無量淨・遍淨の三天があり、四禪は九天あるが、最初の三天である無雲・福生・廣果は、まだ悟りを開いていない凡夫の天であり、十善と坐禅を良く行なう者が生まれる。次の無想天は外道(げどう・仏教以外の宗教を意味する。思考が全く働かなくなった無想の状態を悟りと誤るためである)の居場所であり、続く無煩・無熱・善見・善現・色究竟の五天は、五那含天ともいい、第三果(阿那含果(あなごんか)ともいい、前の欲界にはもはや生まれ変わらない段階のこと)を得た者の居場所である。以上の九天は、欲界の塵や動乱からは離れているが、まだ物質的な縛りの中にいるので色界と名付け、正しく禅定を行なうために、禅という名称が付けられているのである。第三の無色界については、空処・識処・無所有処・非非想処の四つの天は、ただ五蘊(ごうん・人の認識が起こる五つの段階のこと)のうちの最初の色蘊(しいうん・自分の周りに色形の存在があるという感覚)がなく、残りの四蘊(受蘊・感受作用、想蘊・感受したものが何であるかを思うこと、行蘊・その思った結果生まれる意志のこと、識蘊・認識が生じること)だけがあるために(つまり、色形のある外界からの影響が全くなく、精神的作用だけがあるということ)、このように名付けられる。

ここまで述べてきた、下は地獄から上は非非想天に至るまでの世界は、その苦楽は同じではないとはいえ、まだ生まれ変わりから逃れられていない。このために生死と名付けられる。これが、蔵教の実有(じつう・客観的な実在があるとする教え)の苦諦である。