大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  10

『天台四教儀』現代語訳  10

 

②「集諦」

 

四諦の第二は、集諦(じったい・苦しみの原因は煩悩であるということ)である。集諦はすなわち、見思惑(けんしわく)のことであり、または見修(けんしゅう)といい、または四住(しじゅう)という。

(注:集諦の段落では、煩悩とは何か、という説明となる。天台教学においては、断ち切るべき最初の煩悩は「見思惑」であるという。以下に記されている名称は、見思惑の別名に過ぎない。見思惑は、「見惑」と「思惑」の二つのことである。見惑とは、この世で生きながら身についてしまった誤った見解、思想、考え方のことである。これが最初に断ち切られるべき煩悩であり、確かに、これはどのように誤っているのか、ということが教えの学びによって明らかになりやすい。そして思惑とは、人間として生まれながらに持っている本能と感情などによって生じる煩悩である。これは先天的に身に付いているものなので、単に頭で学んだだけでは、なかなか断ち切ることは困難である。当然、ここには修行という行為が必要となって来る。次いで、「見修」という別名があげられている。この見修の「見」とは「見道」のことであり、見惑を断ち切る段階の名称である。「修」とは「修道」のことであり、思惑を断ち切る段階の名称である。さらに「四住」という別名があげられているが、これは「四住煩悩(しじゅうぼんのう)」あるいは「四住地惑(しじゅうじわく)」と呼ばれるもので、第一は「見一切処住地」で、三界のすべての見惑のこと。第二は「欲愛住地」で、欲界のすべての思惑のこと。第三は「色愛住地」で、色界のすべての思惑のこと。第四は「無色愛住地」で、無色界のすべての思惑のことである)。

 

また見思惑の両方に共通する名称としては、染汚無知(ぜんまむち・汚れに染まっていることを知らない、という意味)といい、また取相惑(しゅそうわく・物事の表面(=相)だけを見て執着すること)といい、また枝末無明(しまつむみょう・最も根底にある煩悩を無明惑というが、そこから派生した枝葉末端な煩悩であるのでこのようにいう)

といい、また通惑(つうわく・声聞と縁覚と菩薩に共通した煩悩という意味)といい、また界內惑(かいないわく・三界の中の煩悩という意味)という。名称は異なっているが、見思惑を指すことに変わりはない。

 

「見惑」

第一に、見惑について解釈する。これに八十八種類がある。

一つめは身見(しんけん・自分の身が中心だとする考え)、二つめは辺見(へんけん・自分は死ねば無に帰すという考えと、死んでもまた生まれ変わるので死ぬことはない、という二つの考えのどちらかの一辺に偏る考え)、三つめは見取(けんしゅ・身見と辺見を正しい見解だと思うこと)、四つめは戒取(かいしゅ・他の誤った宗教の戒律的なものを正しいと判断すること)、五つめは邪見(じゃけん・仏の教えである因果因縁の教えを信じないこと)、以上は利使(りし・日常常に働いている誤った見解というい意味)である。六つめは貪(とん・貪りのこと)、七つめは瞋(しん・怒りのこと)、八つめは痴(ち・誤った知恵や知識のこと)、九つめは慢(まん・高ぶりのこと)、十は疑(ぎ・正しい教えを疑うこと)、以上は鈍使(どんし・利使ほどではないが、それなりに日常で影響を与える誤った見解という意味)である。

この十種類の見惑は、三界の四諦それぞれに当てはまるものと当てはまらないものがある。そしてその状態は、すべてで八十八種類あることになる。その八十八種となる理由は、まず、欲界の四諦について見ると、苦諦には当然この十種が備わっている。次の集諦にはこの十種から身見・辺見・戒取を除いた七種がある(注:集諦とはそもそも、他の何らかのものと関係して起こる、ということであるので、身見・辺見・戒取は単独で働くものなので除外される)。道諦にはこの十種から身見・辺見を除いた八種がある(注:本文には滅諦がないが、滅諦は集諦を滅ぼすということなので、集諦と同じ七種が対象となる。そして道諦は、正しい教えによる修行の道によって、外部から入って来た誤った認識が取り除かれる、ということなので、もともと自らの認識によって身に付いている身見・辺見は対象とならない)。こうして、欲界の四諦では合計三十二種となる。次に色界と無色界の二界について見ると、ほとんど欲界と同じであるが、各諦における瞋はないので(注:色界と無色界には禅定によって入るので、惑の種はあっても働かないままである。しかし瞋、つまり怒りとは感情を動かすまで働くものなので、禅定の中では起こらないとして除外される)、二界それぞれ二十八、二界合わせて五十六種となり、欲界の三十二種と合わせて八十八種となる。

 

「思惑」

第二に、思惑について見ると、ここには八十一種ある。まず、三界を合わせて九つの世界となる。つまり、欲界はすべて一つの世界とし、色界は四禅、無色界は四天(禅定の結果なので四定と原文にはある)を合わせて八つの世界、こうして三界で九つの世界である。さらに、欲界の思惑は、貪・瞋・癡・慢ということができるが(注:思惑は感情的なものなので、具体的な思想や認識ではない。したがって、この四つが代表的なものとしてあげられる)、これにも程度の差があり、それは、上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下の九種類である。また、色界と無色界の八つの世界においては、貪・瞋・癡・慢から瞋を除かねばならないが、やはり九種類の程度の差がある。したがって、三界では八十一種の思惑があるということになる。このように、見惑と思惑のさまざまな違いは、蔵教においてはすべて実在するものが合わさって起るのだ(=実有集諦)という前提があるからである。

 

③「滅諦」

第三に、滅諦とは、前の苦諦と集諦を滅ぼし、小乗の真理(=偏真理)を顕わすことである。滅ぼすことにより真理とする滅は、真諦(しんたい・真理の教えという意味)ではない。

(注:あくまでも、これは蔵教の説明の中の言葉である。蔵教は究極的な教えではなく、最も能力の低い人のための教絵である。そのため、ここまで見てきたように、蔵教の四諦は生滅四諦と呼ばれ、教えそのものも相対的であり、蔵教の中だけで有効なのである。そして、蔵教が更新されてさらに高度な教えに入れば、これらは廃止される)。

 

④「道諦」

第四に、道諦とは、略せば戒定慧(戒律と禅定と智慧)となり、詳しく見れば三十七道品(さんじゅうしちどうほん・修行の形体を三十七種に整理したもの。次の記事中にある一つ一つの項目に①~㉕の数字を付けることにする)である。この三十七種を七つの部門に分けることができる。

一つめは四念処(しねんじょ)の四つである。第一は、身体を不浄と観じることであり、これを①身念処といい、五蘊(ごうん・色、受、想、行、識の五つ。人の認識が生じる五つの段階)の色蘊(しきうん・自分がここにいて、自分以外のものが周りにあるという感覚。物質とか肉体とかいう解釈があるが、厳密には誤りである。仏教では、物質が独立して存在しているという考え方はしない)に相当する。第二は、感受作用は苦しみであると観じることであり、これを②受念処といい、五蘊の受蘊(じゅうん・感受作用のこと)に相当する。第三は、心は無常であることを観じることであり、これを③心念処といい、五蘊の識蘊(しきうん・認識のこと)に相当する。第四は、すべてに自我はないと観じることであり、これを④法念処といい、五蘊のうちの想蘊(そううん・感受したものが何であるか判断すること)と行蘊(ぎょううん・判断によって生じた意志のこと)に相当する。

二つめは四正勤(ししょうごん・四つの正しい努力という意味)の四つである。第一は、まだ生じていない悪は生じないようにすることであり、これを⑤律儀断(りつぎだん)という。第二は、生じた悪は滅ぼすことであり、これを⑥断断(だんだん)という。第三は、まだ生じていない善は生じるようにすることであり、これを⑦随護断(ずいごだん)という。第四は、すでに生じた善はさらに増し加わるようにすることであり、これを⑧修断(しゅうだん)という(注:修行段階での悪は、あくまでも修行の妨げを意味し、善は修行を進めることを意味する。道徳的なことに限って解釈すると誤ってしまう)。

三つめは、四如意足(しにょいそく)の四つで、⑨欲神足(すぐれた瞑想を得ようと願うこと)、⑩念神足(心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること)、⑪精進神足(すぐれた瞑想を得ようと努力すること)、⑫慧神足(智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること)である。

四つめは、五根(ごこん・修行における根本的な五つの要素)の五つで、⑬信根、⑭精進根、⑮念根、⑯定根、⑰慧根である。

五つめは、五力(ごりき・五根から生じる力のこと)の五つで、⑱信力、⑲精進力、⑳念力、㉑定力、㉒慧力である。

六つめは、七覚支(しちかくし・悟りを七種類に分けたもの)の七つで、㉓念覚支(瞬間の心の現象を自覚すること)、㉔択法覚支(ちゃくほうかくし・教えの中から真実のものを選ぶこと)、㉕精進覚支、㉖喜覚支(悟りの喜びを感じること)、㉗軽安覚支(きょうあんかくし・心身に軽やかさを感じること)、㉘定覚支(心が集中して乱れないこと)、㉙捨覚支(対象に囚われないこと)である。

七つめは、八正道(はっしょうどう・八つの正しい修行)の八つで、㉚正見、㉛正思、㉜正語、㉝正業、㉞正命、㉟正精進、㊱正念、㊲正定であり、以上の七部門の三十七種となる。これはすなわち、蔵教の生滅道諦である。

 

しかし、四諦の数は、通教以下の別教と円教の三教で共通しているが、ただし、その教えの広い、狭い、勝れている、劣っているの違いはある。通教は無生四諦であり、別教は無量四諦であり、円教は無作四諦であって、同じではない。しかし煩瑣を避けるため、これから残りの三教を述べる時は、この四諦のことは記さない。

(注:本当は、記さなければ天台教学について述べたことにはならないのだが、やはり、『法華玄義』の手引書という性格から、後は『法華玄義』を読まなければならない、ということだろう)。

 

四諦の前半では、まず苦諦で、この世の苦しみの果を示し、集諦はその果の因である煩悩を示し、後半では、滅諦でこの世から出て苦しみが解決された果を示し、道諦はその果の因である修行を示しているのである。

問う:ではなぜこの世のことについても、この世から出たことについても、先に果を示し、次に因を示すのか(注:何事も、原因が先で結果が後ではないか、ということ)。

答える:小乗の蔵教の声聞は、能力が劣っているので、先に苦しみを知って、次にその原因を知り、そして修行した結果がどうなるかを知って、その原因である修行を慕うようにさせるためである。