大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  92

『法華玄義』現代語訳  92

 

(注:ここからは天道の有についての記述となる。この天にもさまざまな次元がある)。

9.不動三昧(ふどうざんまい)

二十五有の⑨四天王(してんのう・四方を守護する四天王とそれらの天が住む世界。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の毘沙門天多聞天のこと)の有は、不動三昧によって破る。この天は国土を守護し、世界を遊行するので、果報の動揺、見思惑・塵沙惑・無明惑などの動揺がある。菩薩はあらゆる行を修して、それらの動揺を除き、三昧を成就する。四弘誓願をもって機縁あれば、菩薩はその慈悲をもって果報・見思惑・塵沙惑・無明惑の四つの動揺を除き、俗諦三昧・真諦三昧・中道三昧の三つの動揺が除かれた三昧を成就する。このためにこれらを不動三昧と名付ける。詳しくは、上に説いた通りである。

10.難伏三昧(なんぷくざんまい)

二十五有の⑩三十三天(さんじゅうさんてん・帝釈天が住む忉利天(とうりてん)のこと。帝釈天に仕える三十三の天がいるため、三十三天ともいう)の有は、難伏三昧によって破る。この天は、この世の中心にある最も高い須弥山(しゅみせん)の頂上にあるので、果報を抑え難く、見思惑・塵沙惑・無明惑などを抑え難い。菩薩はあらゆる行を修して、その上に出て、それらの抑え難い惑を除き、自ら三昧を成就する。四弘誓願をもって機縁あれば、菩薩はその慈悲をもって悟りを得させる。このために難伏三昧という。他のことは上に説いた通りである。

11.悦意三昧(えついざんまい)

二十五有の⑪焔摩天(えんまてん・いつも光があり夜がなく、歓喜にあふれる天とされる。夜摩天ともいう)の有は、悦意三昧によって破る。この天は空中にあって、戦争などの争いもない。これによって悦という。これは、前世までの果報による悦であって、まだ動揺のない絶対的な悦ではない。また、無漏・道種智・中道の智慧などの悦はない。菩薩は、あらゆる不悦を破るために、あらゆる行を修し、自ら三諦の悦意三昧を成就する。四弘誓願はすべての世界に及び、機縁あれば、菩薩はその慈悲をもって真実の悦を与える。そのために、この三昧を名付けて悦意三昧とする。その他のことは上に説いた通りである。

12.青色三昧(しょうしきざんまい)

二十五有の⑫兜率陀天(とそつだてん・一般的には兜率天という名で知られる。将来仏となる弥勒菩薩がいる。他の天に比べて、動揺もなく、また喜びに浮かれ過ぎることもない天とされる)の有は、青色三昧によって破る。真諦三蔵(しんだいさんぞう・499~569。西インドから中国に来た訳経僧。鳩摩羅什玄奘、不空と共に四大訳経家のひとり)は「この天の果報は青を願う。宮殿、服などの身の回りの物はみな青である」と言っている。菩薩はあらゆる青に対する執着を破るために、第一義悉曇を修して、青、黄、赤、白でないままに青、黄、赤、白の色を表わす。第一義悉曇は戒・定・慧ではないままに、戒・定・慧である。戒をもって果報の青を破り、生滅四諦・無生四諦智慧をもって見思惑の青を破る。真実でない空をもって空を表わし、仮でないままに仮を表わし、中でないままに中を表わすことはすべてこれに同じである。この三つの青を破り、自ら三諦の三つの青の三昧を成就し、さらに求めに応じて他の三昧も成就する。他のことは上に説いた通りである。

13.黄色三昧(おうしきざんまい)

二十五有の⑬化楽天(けらくてん・この天は、自らの身をもってその娯楽とするほどに、娯楽に満ちた世界とされる)の有は、黄色三昧によって破る。

14.赤色三昧(しゃくしきざんまい)

二十五有の⑭他化自在天(たけじざいてん・生まれ変わりのある世界を、欲界、色界、無色界の三界というが、この天は欲界の最高位である。この天では、他の者の快楽や娯楽も自らの快楽とするとされる)の有は、赤色三昧によって破る。

(注:二十五有の分類は、四悪趣の四種、四洲の四種、六欲天の六種、四禅天の四種、梵天の一種、無想天の一種、阿那含天の一種、四空処天の四種の合計二十五種である。ここまでで、四悪趣、四洲、六欲天の合計十四種が終わり、欲界が終わったことになる。これ以降は、色世と無色界の諸天が続く)。

15.白色三昧(びゃくしきざんまい)

二十五有の⑮初禅天(しょぜんてん・欲界を離れた色界の最初の天。初禅を修した者が生まれ変わるとされる)の有は、白色三昧によって破る。この白はすべて初禅を修した果報の白である。青色三昧によって詳細は知るべきである。白色三昧の白とは、初禅によって目、耳、鼻、舌、身の五根(ごこん)から生じる五欲(ごよく・色、声、香、味、触覚の欲)から離れたために得た白である。まだ、感覚と心の細かな動き(=観)があるので、黒と変わりない。それは、見思惑・塵沙惑・無明惑の黒である。このあらゆる黒を破り、あらゆる白を修し、自ら三昧を成就し、また他の者にも三昧を成就させることは、上に説いた通りである。

16.種種三昧(しゅしゅざんまい)

二十五有の⑯梵王(ぼんのう・梵天に住む王そのものを梵天という場合がほとんどであるが、ここでは梵王という。すべての世界の主とされる)の有は、種種三昧によって破る。梵王はすべての世界を主として治める。その種類も多いので、すなわち果報は種種さまざまである。まだ種種の空・仮・中を見ない。この種種を破り、種種の行を修し、自ら種種三昧を成就し、他の者にも種種三昧を成就させることは、上に説いた通りである。

17.双三昧(そうざんまい)

二十五有の⑰二禅の有は、双三昧を用いる。二禅天は内浄・喜の二つの徳がある。この他は他の禅と同じである。これは果報の二つである。しかしまだ、見惑と思惑が共に双空・双仮・双中であることを見ない。これ以上のことは上に説いた通りである。

18.雷音三昧(らいおんざんまい)

二十五有の⑱三禅の有は、雷音三昧を用いる。この三禅天の楽は最も深い。氷の下にいる魚のように、土の中にいる虫のように、その果報の楽に執着して動かず、それ以上の悟りを求めない。また空楽・仮楽・中楽に執着する。そのようなあらゆる楽を驚かせ除くために、あらゆる雷音三昧の行を修す。それ以上は上に説いた通りである。

19.注雨三昧(ちゅううざんまい)

二十五有の⑲四禅の有は、注雨三昧を用いる。この四禅天は大地のように、あらゆる種子を持っている。しかし雨が降らなければ芽は生じない。すべての修行の善根は、この四禅の中にある。それらは業の種、三諦の種である。菩薩はあらゆる修行の雨を修して、自ら三昧を生じ、慈悲をもって機縁に応じ、他の三昧を生じさせる。

20.如虚空三昧(にょこくうざんまい)

二十五有の⑳無想天(むそうてん・無想の禅定を修めて感得されるところ)の有は、如虚空三昧を用いる。仏教以外の宗教では、空ではないものを、やたらに涅槃だと称し、真実の果報は空ではなく、三諦はみな虚無ではないという。菩薩はあらゆる空浄の行を修して、自ら如虚空三昧を成就し、他の者にも成就させる。

21.照鏡三昧(しょうきょうざんまい)

二十五有の㉑阿那含天(あなごんてん・この果報を得た者は、五浄居天(ごじょうごてん)に生まれるので、五浄居天ともいう。欲界・色界・無色界の三界の色界の最高点で、ここまで来ると、もう欲界には戻ることはないとする)の有は、照鏡三昧を用いる。ここは聖なる無漏の天である。しかし、もう欲界に戻ることはないという清らかな色界としても、これはまだ果報であって、まだ色界の空を究め尽くしたのではない。それは、鏡にまだ汚れがあるようなものである。また、色界の仮を知ったのではなく、それは、鏡がまだ完全に対象物を映していないようなものである。また、色界の中を知ったのではなく、それは、鏡がまだ完全に丸くなっていないようなものでえある。これ以上は、上に説いた通りである。

22.無礙三昧(むげざんまい)

二十五有の㉒空処(くうしょ・三界の第三である無色界は、全く認識の対象がない世界である。この世界に四空処があり、その第一がこの天である。無量空処ともいい、空の無量無限を悟った次元とする)の有は、無礙三昧を用いる。この禅定の果報は色界の縛りを解かれ、何ものにも動じない無礙の境地であるが、まだ空・仮・中の無礙ではない。これ以上は、上に説いた通りである。

23.常三昧(じょうざんまい)

二十五有の㉓識処(しきしょ・識無辺処ともいう。空処からさらに進み、認識の対象がないことを超越し、認識の中にあっても心動じない次元とする)の有は、常三昧を用いる。この禅定の果報は、認識が継続しているために常とする。常といっても、三無為(さんむい・この世における三つの常に変わらないものとされる三つ。虚空、悟り、縁がないために生じないものの三つを指す)の常ではなく、化用(けゆう・常に変わらない仏の教化の働きのこと)の常ではなく、常楽(じょうらく・以前にも説かれた大乗仏教の特徴である常・楽・我・浄のこと)の常ではない。これ以上は上に説いた通りである。

24.楽三昧(らくざんまい)

二十五有の㉔不用処(ふゆうしょ・無所有処ともいう。文字通り何ものもないとする次元)の有は、楽三昧をもって破る。この次元は何も思考活動がないため癡(ち・鈍い、混乱などの意味の言葉)のようである。癡であるために、これは苦であり、無明の苦がある。これ以上は上に説いた通りである。

25.我三昧(がざんまい)

二十五有の㉕非想非非想(ひそうひひそう・無色界の最高点であり有頂天ともいう。ほとんど想念の動きさえない境地)の有は、我三昧をもって破る。有頂天は涅槃の果報だといっても、なお微細な煩悩、そして無明があって自在ではない。修行してこれを破り、真実の我、随俗の我、常楽の我を得ることは、上に説いた通りである。

〇まとめ

以上述べて来た二十五種をすべて「三昧」と称するのは、その禅定が「調直定(じょうじきじょう・整っていてまっすぐである禅定)」であるからである。真諦は空である無漏をもって調直定とし、出仮は機縁に応じることをもって調直定とし、中道は空と仮の二辺から離れることを調直定とする。このために、すべて三諦を備えているので、共通して三昧と称するのである。また、「王」と名付けることについては、空・仮の調直定はまだ王とすることはできないのである。したがって、声聞と縁覚の二乗の入空と菩薩の出仮は、最も優れた教えという意味の「法王」とは名づけない。中道は調直定であるために、王と称することができる。ひとつひとつの三昧にみな中道があるので、すべて王と称する。『涅槃経』に「この二十五三昧を、あらゆる三昧の王と名付ける」とある。すなわち、この三昧の位が高いということである。もしこの三昧に入るならば、すべての三昧はすべてその中に含まれる。これは、その体(=本体)が広いということである。二十五有の機縁に応じることは、その用(=働き)が長いということである。最初の無所畏地(=初歓喜地)の中に、すべての二十五三昧のさまざまな力用を得て、須弥山を芥子粒の中に入れても、その樹木一つも傷つけない。毛の穴に海を入れても、亀や魚を乱さない。地獄に行くとしても、心身に苦しみなく、神通力で変化するとしても、身を動かさずにしかも遠くに赴く。すなわち、その意義は「妙」である。これは聖なる行の智慧が成就してこそ、この力があるのである。

問う:二十五三昧が二十五有を破ることは、『涅槃経』に記されていることである。今、『法華経』を解釈するにあたって、なぜこれを用いるのか。

答える:『法華経』の第三章にあたる「薬草喩品第三」に「有を破る法王である仏は、世に出現し、衆生の願いに従って説法をする」とある。ここに四悉檀が明らかな文として備わっている。また『法華経』の次に説かれた『涅槃経』に、菩薩が有を破ることを明らかにすることによって、『法華経』に法王である仏が有を破ることが記されていることを明確にしているのである。

以上、聖行について説くことを終わる。