大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  11

『天台四教儀』現代語訳  11

 

第三項「修行」

(注:先に、三蔵教の教理として四諦があげられたが、次に三蔵教の修行について述べられる。これを「行位(ぎょうい)」ともいう。

なお、特に蔵教の教理と修行については、非常に項目が多い。なぜなら、蔵教はこの世の事象的な次元ですべてを考えるので、大変具体的に説かれるからである。これが、次第に教えが理法的な次元になっていくと、空(くう)とか中道(ちゅうどう)などという抽象的な教えが中心となり、多くの項目が説かれるのではなく、定型化された修行の段階が中心となって説かれるようになる。しかしそれは、この世の日常を超えた次元のことと言わざるを得ず、かえって具体的でないために、理解が難しくなっていくということも確かである。それに比べて蔵教の段階では、項目が多くて煩瑣に見えるが、一つ一つを丁寧に見て行けば、比較的理解しやすい内容だと言える)。

 

概略的に蔵教の修行と、その修行をする人(注:声聞と縁覚と菩薩)について、およびその段階(=位)について述べる。

 

①「声聞」

最初に声聞の修行の位について述べるにあたって、二つに分ける。最初は凡夫(ぼんふ・まだ悟っていない一般人の段階という意味)であり、そこにもまた二つある。それは、外凡(げぼん・あくまでも外界の事柄をもって修行を進める者)と内凡(ないぼん・自分の内にある心理的な事柄をもって修行を進める者)である。

〇外凡

解釈すると、外凡の中には三つの修行がある。

一つめは五停心(ごじょうしん・禅定に入る前の心を落ち着かせる五段階の観法のこと)である。五停心の第一は、貪欲の多い衆生のために、欲望の対象の実体は汚れたものだと観じる不浄観(ふじょうかん)。第二は、怒りの多い衆生のために、怒りの対象に対して慈悲の心を起こして怒りを消す慈悲観、第三は、心が散ることの多い衆生のために、呼吸を数えることによって心を集中させる数息観(すそくかん)、第四は、愚痴の衆生のために、自分を中心とした誤った思考を、因縁の法則を観じることによって正す因縁観、第五は、禅定にあたって、意識が朦朧としたり、眠気や体の痛みなどのさまざまな妨げの多い衆生のために、仏を念じて仏の力によってそれらの妨げを除く念仏観である(注:このような観法は、この順番で行なわれるのではなく、その時々の自らの状態に応じて選んで行なわれる)。

二つめは、別相念処(べっそうねんじょ)であるが、前にあげた四念処を一つ一つ別々に観じることである。

三つめは、総相念処(そうそうねんじょ・四念処を総合的に観じること)であり、たとえば、第一の不浄を観じる身念処を行なう時、同時に、他の三つの受・心・法もみな不浄と観じることである。そして、最後の無我を観じる法念処においても、身・受・心もまた無我であると観じることである。その中間はわかるであろう。以上の三つは外凡でありまた資糧(しりょう・修行の長い道のりを歩むにあたって、旅にはまず食料を用意することが必要であるように、修行にふさわしい状態にするという意味)の位ともいう。

〇内凡

次に内凡には四つある。それは、煗法(なんぽう・煗は暖かいという意味。火が出る前に熱を感じられるように、凡夫である一般人とは異なる性質が見られ始めた段階)・頂法(ちょうぼう・まるで山の頂上から周りを見渡すように智慧がついて来た段階)・忍法(にんほう・修行を忍び悟りの楽を求める段階)・世第一法(せだいいちほう・迷いの満ちたこの世の次元では最高の教えを悟ったという段階)である。この四つの位を内凡といい、また加行(けぎょう・修行をさらに進めたという意味)の位、また四善根(しぜんこん・四種の良い能力という意味であり、上の四つを指す)の位という。

以上の内凡の四つと外凡の三つを合わせた七つを凡位(ぼんい・凡夫の位という意味)と名付け、また七方便(しちほうべん・本格的な修行に入る前の仮の修行という意味)と名付ける。

〇聖位

次に聖位(しょうい・凡夫ではなくなった聖人の位という意味)を述べるにあたって、また三つある。一つめは見道(けんどう・四諦の真理を見るという意味)であり、これを初果(しょか・最初の悟りの結果という意味の位)という。二つめは修道(しゅどう・四諦の真理を見るだけでなく、それに基づいて修行するという意味)であり、これに 二果と三果がある。三つめは無学道(むがくどう・もはや学ぶことはなくなった段階)であり、四果である。

初果は須陀洹(しゅだおん)という。翻訳すれば預流(よる・流れに預かるという意味)となる。この位に三界の八十八種の見惑を断じて、真諦(しんたい・真理という意味であるが、ここでは四諦が述べられているので、四諦の真理を意味し、それは空のことである)を見るために、見道と名付け、また聖位となづける。

二果は斯陀含(しだごん)という。翻訳すれば一来(いちらい・一度、天界に生まれて、再び人界に戻って来て声聞の悟りを開くという意味)という。この位は欲界の九種の思惑を断ずる中、前の六種を断じ尽くして、後の三種はなお残っている。このために、もう一度欲界に戻って来なければならないのである。

三果は阿那含(あなごん)という。これは不来(ふらい・不還(ふげん)ともいう。もう欲界に戻らないためである)という。この位は欲界の殘りの思惑を断じ尽くして、進んで色界と無色界の合わせて八つの次元の思惑を断じる。

四果は阿羅漢(あらかん)という。これは無学という。また無生(むしょう・三界に生まれないという意味)という。また殺賊(せつぞく・賊である煩悩を殺した、という意味)という。また応供(おうぐ・供養を受けるにふさわしい聖者という意味)という。この位は見惑と思惑を共に断じ尽くす。この世に縛り付ける煩悩をすでに断じたが、まだ肉体が残っていることを有余涅槃(うよねはん)と名づける。もし灰身滅智(けじんめっち・その肉体も滅びること)すれば、無余涅槃(むよねはん)と名づける。また、孤調解脫(こじょうげだつ・ただ一人の解脱、という意味。これはただ一人だけ悟っても意味がなく、他の人々も悟りに導かねばならないのだ、という大乗仏教から見た呼び名である)と名づける。

以上、概略的に声聞の位を説明した。