大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その11

私がこのことを考えるに、『華厳経』・『観無量寿経』・『大日経』などを読み修行する人を、その経典に説かれている仏・菩薩・天などが守護するのであろう。このことは疑うことはできない。ただし、『大日経』・『観無量寿経』などを読む行者たちが、『法華経』の行者に敵対すれば、その行者を捨てて、『法華経』の行者を守護するはずである。たとえば、親孝行の子であっても、その父親が王の敵となれば、父を捨てて王に参上することが、親孝行の至りである。仏法もまたその通りである。『法華経』の諸仏・菩薩・十羅刹たちが、日蓮を守護されるばかりではなく、浄土宗の六方の諸仏、二十五の菩薩、真言宗の千二百の菩薩など、七宗の諸尊、守護の善神、日蓮を守護されるであろう。たとえば、七宗の守護神、伝教大師を守られたようにである。

日蓮は次のように考える。『法華経』の二処三会(にしょさんえ・『法華経』が説かれた座は、最初は霊鷲山であり、その後、虚空に上り、また霊鷲山に戻っている)の座におられた日月天などの諸天は、『法華経』の行者が現われれば、磁石が鉄を吸い付けるように、月が水に映るように、瞬時に来て行者の代わりに難を受け、仏前の誓いを果たされるはずだと思うが、今まで日蓮を助けてくださらないのは、日蓮が『法華経』の行者でないためなのか。もしそうならば、再度、経文を我が身に当てて、自分の誤ったところを知らねばならない。

疑って言う:今の世の念仏宗禅宗などは、どのような智慧の眼をもって、『法華経』の敵人、一切衆生の悪知識と知られるのか。

答える:私の言葉を出すべきではなく、経典解釈の明らかな鏡を出して謗法の醜い面を表わし、その誤りを見せよう。しかし、生まれながらの盲人のような者は、それを受け入れないであろう。

法華経』第四巻の「見宝塔品」には、「その時に多宝仏は、宝塔の中において半座を分かち、釈迦牟尼仏に与えられた。その時に大衆は、この二如来の七宝の塔中の師子の座の上にあって、結跏趺坐されているのを見た。そして大音声をもって、普く四衆に次のように告げられた。誰がよくこの娑婆国土において、広く妙法蓮華経を説くだろうか。今まさしくこの時である。如来は間もなくまさに涅槃に入るであろう。仏はこの妙法蓮華経をゆだねて、この国土に流布されることを願う」とある。これは第一の勅命である。また、「その時に世尊は、重ねてこの義を述べようと、偈を説いて言われた。聖主世尊は間もなく滅度されるといっても、宝塔の中にあって、なお法のために来るであろう。人々はどうして法のために勤めないことがあろうか。また私の分身である大河の砂の数ほどの無量の諸仏は、法を聴こうとして来た。それぞれの妙なる国土および弟子たち・天人・竜神、諸の供養のことを捨てて、法を長く流布させるために、ここに来たのだ。たとえば、大風が小樹の枝を吹くようなものである。この方便をもって、教えを長く流布させるのである。大衆に告げる。私の滅度の後に、誰がよくこの経を護持し読誦するだろうか。今、仏前において自ら誓願を説け」とある。これは第二の偉大な勅命である。また、「多宝如来および私の身と集まった分身仏によって、まさにこの意味を知るべきである。多くの良き男子たちよ。それぞれ明らかに思惟せよ。これは難しいことである。大いなる願を発すべきである。他の多くの経典の数は、大河の砂の数ほど多い。しかしこれらをすべて説くことは難しいこととは言えない。もし須弥山を取って他方の無数の仏国土に投げ飛ばすとしても、難しいこととは言えない。もし仏の滅度の後の悪世の中において、この経を説くならば、これを本当の難しいことと言うのだ。乾いた草を背中に担いで、その中に入って焼けなかったとしても、難しいこととは言えない。私の滅度の後に、この経をもって一人のために説いたとしたら、これを本当の難しいことと言うのだ。私の滅度の後において、この経を聴受してその意味を質問することこそ、これを本当の難しいことと言うのだ。多くの良き男子たちよ。私の滅度の後において、誰がこの経を受け保ち読誦するだろうか。今仏の前において自ら誓って言葉を述べよ」とある。これは第三の勅命である。第四と第五の二つの勅命は「提婆達多品」にある。この経文の心は明らかである。青天に太陽が昇っているように、白い顔にほくろがあるように明らかである。しかし、生まれつき盲目の者と眼の悪い者と片眼の者と、自ら師であるとする者、誤った教えに執着する者は見ることができない。万難を排して道心ある者に証を見せよう。

西王母の園にある三千年に一度実が成る桃や、転輪聖王が世に出る時に咲く優曇華を見るよりも長い期間、沛公(劉邦)が項羽と八年間、中国において戦い、源頼朝平宗盛が七年間、日本で戦い、阿修羅と帝釈天と、金翅鳥(こんじちょう)と竜王が阿耨達池(あのくだっち)で戦ったことも、これには比べることができないと知るべきである。日本にこの法が現われたことは、今回が二度めである。それは伝教大師日蓮であると知るべきである。眼のない者は疑うがよい。その力が及ぶものではない。この経文は日本・中国・月氏国・竜宮・天上・十方世界の一切経の勝劣を、釈迦仏・多宝仏・十方の仏たちが集まり来て、定められたものである。

問う:『華厳経』・「方等経」・『般若経』・『深密経』・『楞伽経』・『大日経』・『涅槃経』などは、九易の内なのか、六難の内なのか(注:九易六難は、上に引用された経文にある、「難しいこととは言えない(易)」「本当の難しいことと言う(難)」の一連の箇所を指す。しかし、上にはすべての文は引用されていない)。

答える:華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観などの三蔵大師は、彼らの説を見ると「『華厳経』と『法華経』は六難の内である。名は二経異なっているが、所説と理法は同じである。観法において四門(有門・空門・亦有亦空門・非有非空門)が別々であっても、真諦(しんたい・真理のこと)を見ることは同じようなものである」ということになる。法相宗玄奘三蔵・慈恩大師などの説を見ると、「『深密経』と『法華経』とは同じく唯識の法門であって第三時の教であり、六難の内である」ということになる。三論宗の吉蔵の説を見ると、「『般若経』と『法華経』とは、名称は異なっているが、本体は同じであり、二経であって教えは一つである」ということになる。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵などの説を見ると、「『大日経』と『法華経』とは理法が同じであり、同様に六難の内の経典である」ということになる。日本の弘法大師の説を見ると、「『大日経』は六難九易の内にはない。『大日経』は釈迦所説の一切経の外に位置し、法身仏の大日如来の所説である」ということになる。またある人の説を見ると、「『華厳経』は報身仏の所説であり、六難九易の内にはない」ということになる。この四宗の元祖たちの説はこのようなので、その流れをくむ数千の学徒たちも、またこの見解から出ていない。日蓮は嘆いて言う。上の諸人の義は左も右もわからない誤りであると言えば、世のあらゆる人々は顔も向けない。非に非を重ねて、挙句の果てには、国王に訴えられて命の危険に及ぶであろう。ただし、渡地たちの慈父である釈迦は、沙羅双樹の最後の御遺言に、「法に依って人に依るな」とおっしゃった。「法に依って人に依るな」とは初依であり、「教えの意味に依って表面的な言葉に依るな」ということが第二依であり、「仏の智慧に依って人間の情に依るな」ということが第三依であり、「了義経(りょうぎきょう・真実に義を解き明かしている経典)に依って不了義経に依るな」ということが第四依である。したがって、たとい普賢菩薩文殊菩薩などの等覚の位にある菩薩が、法門を説かれようとも、その手に経典が握られていなければ、用いるべきではない。「了義経に依って不了義経に依るな」ということを心に定めて、経典の中においても、了義経と不了義経を追及して信受すべきである。

竜樹菩薩の『十住毘婆沙論』には、「修多羅に依らないのは黒論である。修多羅に依るのは白論である」とある。天台大師は、「修多羅と合うものは記してこれを用い、文もなく義もないものは信受するべきではない」と述べている。伝教大師は、「仏説に依り頼んで口伝を信じることがないように」と述べている。智証大師円珍は、「文に依って伝えるべきである」と述べている。上にあげたところの諸師の解釈は、みな一分一分、経論に依って勝劣を述べているようであるが、みな自宗を堅く信受し、先師の誤った解釈を正さないために、私情の混じった曲がった解釈による勝劣であり、自分の義ばかりを荘厳する法門である。仏滅後の犢子部(とくしぶ・小乗仏教の一分派。輪廻する不変主体を説く)と方広道人(ほうこうどうにん・空を無と解釈している者)をはじめ、後漢以後の外典は、もともと仏法以外の外道の偏執よりも、三皇五帝の儒書よりも、邪見が強く旺盛であり邪法が巧みである。華厳宗法相宗真言宗などの人師は、天台宗の正義を嫉むために、真実の経典の文を権義にあてがうことが強く旺盛である。しかし、道心のある人は、偏った教派を捨てて、自宗だの他宗だのを争わず、人を侮ることはないようにしなければならない。

法華経』には、「昔説き、今説き、これから説くであろう」とある。妙楽大師は、「たとい諸経の王という経典があっても、昔説き、今説き、これから説くために第一だとはいわない」と述べている。また、「昔説き、今説き、これから説くところの妙に対して固く迷うことによって、その謗法の罪は長く苦しい結果をもたらす」と述べている。この経典解釈に驚いて、一切経ならびに人師の疏釈を見れば、疑いやためらいの氷は解けるのである。今の真言の愚者たちは、印と真言があるのを頼みに、真言宗は『法華経』より勝れていると思い、慈覚大師なども真言が勝れていると言っているのだから、どうしようもないことである。

(つづく)