大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その15

『摩訶止観』第一巻の冒頭には、「散乱する心を鎮め、明らかな智慧で照らす止観は、今までなかった法門である」とある。『止観輔行伝弘決』第一巻には、「漢の明帝が、仏教が伝わるという夢を見てから陳朝の天台大師に及ぶまで、禅門に預かって衣鉢を伝授される者は多い」とあり、『法華三大部補注』には、「衣鉢を伝授されるとは達磨を指す」とある。『摩訶止観』第五巻には、「また一種の禅人、そして盲従する師や弟子たちは、共に堕落する」とあり、『摩訶止観』第七巻には、「十乗観法の第一の観心を除いた九つの意義は、世間の文字ばかりの法師と同じではない。また、事相の禅師と同じではない。ある禅師はただ観心の一つの意義だけしかない。それは浅く、あるいは偽りである。他の九つは全くない。これは虚言ではない。後の世の正しい眼がある者はまさに知るべきである」とある。『止観輔行伝弘決』第七巻には、「文字ばかりの法師とは、内に観心による理解なく、ただ教えの相ばかりを構築する。事相の禅師とは、観心の境と智慧を習わないで、鼻や腹にばかり心を集中させている。これでは、根本有漏定(こんぽんうろじょう・初心者の禅定)に過ぎない。ある禅師はただ観心の一つの意義だけしかないとは、これでも観心ということを大目に見て言っているのであって、鋭く指摘するならば、観心もなく教えの理解もない。世間の禅人はみな、真理に対する観心ばかりを尊んで、教えを軽んじている。観心をもって経を消し、ただの肉体的構造に過ぎないものを数えて丈六の仏とし、五陰三毒を合わせて手にあるツボとし、六入を用いて六神通とし、四大をもって四諦としている。このように経の文を解釈することは、偽りの中の偽りである。全くの論外である」とある。『摩訶止観』第七巻には、「昔、鄴(ぎょう)や洛(らく)のある禅師は、名は全地に轟き、住むところには、弟子たちが四方から雲のように集まって仰ぎ、去る時は、阡陌(せんぱく・交通の要所)に弟子たちが群れをなして見送り、このように派手に振舞って何の利益を残しただろうか。結局、臨終の時にみな後悔するのである」とある。『止観輔行伝弘決』第七巻には、「鄴や洛の禅師とは、鄴は相州にある。すなわち斉や魏が都とした場所である。そこでは大いに仏法が盛んであった。彼は禅宗の祖師の一人である。その地の王を教化した。その時代の人は、その禅師の意志をくんで、その名を出していない。洛はすなわち洛陽である」とある(注:このように、達磨大師以来の禅よりも、止観が勝れていることが述べているが、日蓮上人自身は、止観を勧める言葉は一言も述べておらず、自身も止観を修していたとは考えられない。天台大師の教えは、教学と修行がそろっていて意味をなすものである。もちろん日蓮上人もそのことはじゅうぶん承知なはずである。この実践修行の部分を、結局、題目に置き換えているのであるが、しかしそのようなことについても、一言も述べられていない。ただ、一念三千という止観の実践修行上の用語を、題目と結び付けているところが、この実践修行を題目に置き換えている証拠とも言える。これが日蓮上人独特の教義であるならば、それはそれで良いことであり、全く問題はない。ただ一つの問題は、日蓮上人がその実践修行のことを、はっきり説明を加えて述べていないということである)。

『般泥洹経』第六巻には、「究竟の所を見ないとは、その一闡提の輩のなす悪業が、究竟の所が見えないほど深いということである」とある。妙楽大師は、「第三の怨敵が最も甚だしい。悔いて改めることがないからである」と述べている。無眼、一眼、邪見の者は、末法の始めの三種類の怨敵が見えない。一分の仏眼を得る者こそ、これを知ることができる。「国王、大臣、婆羅門、居士に向かう」ということについては、『東春』に、「公の権力に向かって法を毀り人を謗る」とある。昔、像法の末には護命・修円などが、奏状を捧げて伝教大師を訴えた。今、末法の始めには良観・念阿などが偽書を注釈して将軍家に捧げている。これがどうして第三の怨敵でないことがあろうか。

現在の念仏者たちは、天台法華宗の支持者の国王・大臣・婆羅門・居士などに向かって、「『法華経』は理法が深く、私たちにとっては理解が困難である。教えは至って深く、末法の人々の能力は浅いためにふさわしくない」などと言っていることは、聖境は余りにも高く、自分の智慧の分ではないと思っている者ではないか。禅宗の者は、「『法華経』は月を示す指であり、禅宗は月そのものである。月を得てどうして指し示す必要があるだろうか。禅は仏の心であり、『法華経』は仏の言葉である。仏は『法華経』などの切経を説かれた後で、最後に一ふさの華をもって摩訶迦葉一人に与えた(注:釈迦が一輪の花を黙って差し出した行為に対して、摩訶迦葉だけが微笑んだということによって、究極的な教えが摩訶迦葉に言葉を用いず受け継がれた、という伝承による)。そのしるしに仏の御袈裟を摩訶迦葉に委ね、そしてそれは教えを委ねられた二十八番目の六祖まで伝わったのだ」と言っている。

(注:禅宗が経文に依らないということの理由は、唐の末に起った会昌の法難によって、経典などがほぼ破棄されたからである。これによって、経典による宗派はすべて衰退したが、経典に依らない禅宗は、宋の時代に栄え、それが日本に伝わって来たのである。祖師とされる達磨大師は、伝説上の人物である)。

これらの大妄語は、国中を狂わせ酔わせて長い時が経っている。

また、天台・真言の高僧たちは、名はその宗派に属しているが、自らの宗派の教えを知らない。貪欲は深く、公家・武家を恐れて、『法華経』を謗る教えに伏して、かえってそれらを讃嘆している。昔の多宝仏・分身の諸仏は、『法華経』の教えが永遠に存在していることを証明した。今、天台宗の碩徳は、理法が深く理解が困難だということを認めてしまっている。

このようなことで、日本にはただ『法華経』の名のみあって、悟りを得た人など一人もいない。誰を『法華経』の行者とするのだろうか。寺塔を焼失してしまって流罪になる僧侶は数知らず、公家や武家にへつらって憎まれる高僧も多い。このような者たちを『法華経』の行者と言うべきであろうか。仏の言葉が虚しいものでなければ、三種の怨敵はすでに国中に充満しているのである。仏の金言が破れてしまったかのように、『法華経』の行者はいない。どうしたらよいのか、どうしたらよいのか。

そもそも、誰が世の多くの人々から悪口罵詈を受けているのか。どの僧が刀杖を加えられているのか。どの僧が『法華経』のために公家や武家に訴えられているのか。どの僧が、たびたび追放され、何度も流罪になっているのか。日蓮より外に、そのような人を日本の国内に見られないではないか。しかし、日蓮は『法華経』の行者ではない。天がこれを捨てられたからである。ならば、誰を現在の世における『法華経』の行者として仏の言葉を実証するのだろうか。仏と提婆達多とは、本体とその影のようであり、常に離れない。聖徳太子物部守屋とは、蓮華の花と実が同時についているようなものである。『法華経』の行者がいれば、必ず三種の怨敵がいるはずである。三種の怨敵はすでにいる。では、『法華経』の行者は誰であろうか。いるならば、探し求めて師事したい。片目の亀が大海に漂って、偶然、特定の浮木に会うように、それはあり得ないほどの尊いことだ。

ある人は言う:現在、この世に三種類の怨敵はほぼいると考えられる。ただし、『法華経』の行者はいない。あなたを『法華経』の行者だとすれば、大きな相違がある。この経典には、「天の諸の童子は、給仕して仕えるだろう。刀杖も加えられず、毒を飲んでも害を受けない」とある。また、「もしその人を悪罵すれば、その口はたちまち塞がってしまう」とある。また、「現世では安穏であり、後世では善処に生まれるであろう」とある。また「(その人を迫害する者は)頭が阿梨樹(ありじゅ・どのような植物か不明)の枝のように、七つに割れる」とある。また、「また現世において、福の報いを得るであろう」とある。また、「もしまた、この経典を受持する者を見て、事実であっても事実でなくても、その人の過ちや悪を言いふらすならば、そのような者はこの世で白癩の病となるであろう」とある。

答える:あなたの疑いは大変よろしい。ではその不審を晴らそう。「常不軽菩薩品」には、「悪口罵詈」とあり、また「あるいは杖木瓦石をもってこの人を打つ」とある。『涅槃経』には、「あるいは殺しあるいは害する」とある。『法華経』には、「この経には如来の現在ですらなお怨みや妬みが多い」とある。仏は小指を提婆達多に傷つけられ、九つの大難にあわれた。これこそ『法華経』の行者ではないか。常不軽菩薩は一乗の行者と言われなかったであろうか。目連は竹杖に殺された。それも『法華経』における授記を受けた後である。釈迦から教えを受け継いだ第十四代の提婆菩薩、第二十五代の師子尊者の二人は人に殺された。彼らは『法華経』の行者ではなかったか。竺道生は蘇山に流罪となった。法道は、顔に焼き印を押されて江南に追放された。彼らは一乗の教えを保つ者ではなかったか。北野の天神である菅原道真や、白居易は遠くに流されたが、彼らは賢人ではなかったか。

これらのことを通して、次のようなことが考えられる。

まず、前生に『法華経』を誹謗するような罪がなく、今生に『法華経』を行じる人についてである。この人に対して、世間の法によって裁き、あるいは罪がないにもかかわらず害を与えれば、たちまち現罰があるのだろう。阿修羅が帝釈天に向かって矢を射て、かえって自分に当たったり、金翅鳥(こんじちょう)が阿耨池(あのくち)にいる竜を食べようとして、かえって食べられたりしてしまったようなことである。天台大師は、「今、私が受けている苦しみは過去世からの業によるものだ。今生の修福の報いは未来世にある」と述べている。『心地観経』には、「過去の因を知ろうとすれば、現在の果を見よ。未来の果を知ろうとすれば、現在の因を見よ」とある。「常不軽菩薩品」には、「その罪は終わった」とある。常不軽菩薩は、過去に『法華経』を謗った罪がその身にあったために、瓦石を受けたと考えられる。

また、転生を繰り返して、必ず地獄に堕ちるべき者は、重罪を造っても現罰はない。それは一闡提の人のことである。『涅槃経』には、「迦葉菩薩は仏に申し上げた。世尊よ。仏の所説の通りに、大涅槃の光が一切衆生の毛孔に入りました」とある。また、「迦葉菩薩は仏に申し上げた。世尊よ。なぜまだ菩提心を起こしていない者が、菩提の因を得るのでしょうか」とある。仏はこの問いに答えて、「仏は迦葉菩薩に告げられた。もしこの『大涅槃経』を聞いて、私は菩提心を起こすことはできない、と言って正法を誹謗するとする。この人は即時に夜、夢の中において、羅刹の像を見て心中が恐怖におののく。その羅刹は次のように言う。哀れなことだ、よき男子よ。あなたが今、もし菩提心を起こさなければ、まさに私があなたの命を断つ。この人は恐れおののいて目を覚まし、即座に菩提心を起こすのだ。まさに知るべきである。この人は大菩薩である」とある。甚だしい大悪人ではない者ならば、正法を誹謗すれば即時に夢を見て、その心を翻すのである。また、「枯木石山」とある。また、「炒られた種は、たとい甘露の雨を受けても」とある。また、「泥の中にある明珠が」とある。また、「手にでき物がある人が毒薬を握るようなもの」とある。また、「大雨は空に留まらない」とある。これらの多くの喩えがある。つまり、甚だしい一闡提に人がなってしまえば、転生を繰り返しても、必ず無間地獄に堕ちるために現罰はないのである。たとえば、悪王で知られる夏の桀や殷の紂の世には天変地異はなかった。大きな罪があって、必ず世が滅ぶためか。

また、守護神がこの国を捨てたために、現罰がないということか。謗法の世を守護神が捨て去り、諸天が守って下さらない。そのために、正法を行じる者にしるしがない。かえって大難にあう。『金光明経』には、「善業を修する者は、日々に衰減する」とある。悪国悪時がこれである。具体的には、『立正安国論』において考察した通りである。つまり、天にも捨てられ、諸難にあっても、身命を惜しまないということである。舎利弗が六十劫の菩薩行を退いてしまったのは、眼を取ろうとした婆羅門の責めに、耐えられなかったからである。久遠の昔に大通智勝如来から『法華経』の種を受けていたにもかかわらず、三千塵点劫そして五百塵点劫の間に退いてしまうことは、悪知識に会ったためである。善においても悪においても、『法華経』を捨てることは地獄の業である。

大願を立てる。日本国の位を譲ってやろう、『法華経』を捨てて『観無量寿経』に従って後生に極楽浄土に行け、父母の首をはねるぞ、念仏を唱えなければ、さまざまな大難が起こるぞと言われても、本当の智者に私の義が破られなければ関係がない。その他の大難など、風の前の塵と同じである。私が日本の柱となろう。私が日本の眼目となろう。私が日本の大船となろうという誓願は、決して破られることはない。

(つづく)