大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その17 (完)

『法華文句』には、「問う。『涅槃経』では、国王に従って弓矢を持ち、悪人をくじけと明らかにされている。一方、『法華経』では、権勢から離れ、謙遜に慈善を行なえとあり、この剛と柔が互いに真逆となっている。これがどうして異なっていないことがあろうか。答える。『涅槃経』はひとえに折伏について論じているが、仏は同じく子を思う人々と共に住んでいる。どうして摂受がないことがあろうか。『法華経』はひとえに摂受について明らかにしているが、この経を誹謗する者の頭は七分に割れるともある。折伏がないわけではない。それぞれ一端を挙げて時に応じて記しているのみである」とある。『涅槃経疏』には、「出家も在家も、法を護ろうとするためには、その心が重要であり、目に見える事象的なことを捨てて、理法を保ち、正しく『涅槃経』を広める。このために、正法を護持するということは、言葉尻にとらわれない。そのために、威儀を修することはない、というのである。昔の時代は平穏であって、仏法は広まった。まさに戒律を保って、杖を持つべきではない。今の時代は乱れていて、仏法が滞っている。まさに杖を持つべきであり、戒律に縛られるべきではない。今も昔も共に世が乱れていれば、まさに共に杖を持つべきである。今も昔も共に平穏ならば、まさに共に戒律を保つべきである。取捨を適宜に行なって、偏ることがないようにすべきである」とある。

あなたの不審は、世間の学者たちも多分に道理と思うことだろう。いくら教え諭しても、日蓮の弟子たちもこのような思いを捨てない。一闡提の人のようにならないためにも、まず天台大師・妙楽大師などの解釈を出して、彼らが邪見に陥る難を防ごう。

摂受・折伏という法門は、水と火のようなものである。火は水を厭い、水は火を憎む。摂受の者は折伏を笑い、折伏の者は摂受を悲しむ。無智・悪人たちが国土に充満する時は摂受を先とする。「安楽行品」のようにである。邪智・謗法の者が多い時は折伏を先とする。「常不軽菩薩品」のようにである。たとえば、暑い時に寒水を用い、寒い時に火を好むようなものである。草木は太陽の眷属、寒月を嫌う。諸水は月に従い、熱い時に本性を失う。末法に摂受と折伏が共にあるべきである。悪国と破法の両国があるためである。日本の現在は悪国か、あるいは破法の国かと知るべきである。

問う:摂受の時に折伏をすることと、折伏の時に摂受をすることと、どちらも利益があるのであろうか。

答える:『涅槃経』には、「迦葉菩薩が仏に次のように申し上げた。如来法身は金剛であり不壊です。しかし、まだその因を知ることができません。それはどのようなものでしょうか。仏が語られた。迦葉菩薩よ。よく正法を護持する因縁をもって、この金剛身を成就したのである。迦葉菩薩よ。私は正法護持の因縁によって、今、この金剛の身であり、常住不壊の法身を成就することができたのだ。良き男子よ。正法を護持する者は、五戒を受けずとも威儀を修せずとも、まさに刀剣、弓矢を持つべきである。悪世にあっては、今までのようにあらゆる教えを説いても、師子吼(ししく・獅子が吠えるように力強く教えを説くこと)をもって教えを説くことはできない。また、非法の悪人を降伏することもできない。このような比丘は、自らを利益し、および衆生を利益することはできない。まさに知るべきである。このような輩は怠惰であり怠慢である。よく戒律を保ち、清らかな修行を守り行なっているといっても、まさに知るべきである、この人は何をもなすことができないのである。そして、またある時に、破戒の者があり、折伏の説法をする法師の言葉を聞いて、みなと共に怒ってこの法師を殺したとする。しかしこの説法の者は、たとい命が終わったとしても、持戒および自利利他を行じた法師と名付けられるのであると」とある。

章安大師は、「取捨は適宜に行なうべきであり、一方に偏るべきではない」と述べている。天台大師は、「時に適うのみ」と述べている。たとえば、秋の終わりに種子を蒔いて田畑を耕しても、稲米を得ることができないようなものである。

建仁年中に、法然念仏宗を、大日が禅宗を興した。法然は、「末法に入っては、『法華経』では一人も悟る者はない。千人いても一人もいない」と述べている。大日は、「教外別伝」と述べている。この二つの教えは、国中に充満した。天台・真言の学者たちも、念仏・禅の信徒たちにへつらい、それはまるで、犬が主人に尾を振り、鼠が猫を恐れるようなものである。国王、将軍に宮仕いし、仏法を破る因縁、国を破る因縁をよく説きよく語っている。天台・真言の学者たちは、今生では餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻地獄に堕ちるであろう。たとい山林において、一念三千の観法を修行しても、閑静な場所で三密の油をこぼさなくても、今の時と人々について知らない。摂受と折伏の二門を語らなければ、どうやって生死を離れることができるだろうか。

問う:念仏者・禅宗などを責めれば、彼らに恨まれるだけである。どのような利益があるのか。

答える:『涅槃経』には、「もし良き比丘が仏法を破る者を見て、それを見逃し、呵責し、追放し、指摘しなければ、まさに知るべきである。この人は仏法の中の怨敵である。もしよく追放し、呵責し、指摘すれば、この人は私の弟子であり、真の声聞である」とある。『涅槃経疏』には、「仏法を壊し乱す者は、仏法の中の怨敵である。慈悲の心なく、そのような者に偽り親しむならば、それはその者にとっての怨敵である。よく責めて改めさせる者は、護法の声聞であり、真の弟子である。その者の悪を除くことは、すなわちその者の親である。よく呵責する者は、私の弟子である。追放しない者は、仏法の中の怨敵である」とある。

法華経』の「見宝塔品」を見れば、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏が集まったのは、「仏法が永遠に行なわれるためにここに来た」とある通りである。三仏が未来に『法華経』を広めて、未来のすべての仏の弟子に与えようと思われる、その御心の中を考えるに、それは、父母が一子の大いに苦しむのを見るよりも、さらに強い思いである。法然はそのような仏の心をいたわしいとも思わず、末法であるからと、『法華経』の門を堅く閉じて、人を入まいとして、狂った子をだまして宝を捨てさせるように、『法華経』を投げ打たせていることこそ、無慚なことである。自分の父母を人が殺そうとしていることを、父母に知らせないことがあろうか。悪なる子が酔狂して父母を殺そうとすることを止めないことがあろうか。悪人が寺塔に放火しようとしていることを、制止しないことがあろうか。一子の重病に対して、熱がるからと、灸をしないことがあろうか。日本の禅と念仏者とを見て、批判しないことはこのようである。「慈悲の心なく、そのような者に偽り親しむならば、それはその者にとっての怨敵である」とある通りである。

日蓮は日本国の人々にあって、主人であり師であり父母である。すべての天台宗の人は、人々の大怨敵である。「その者の悪を除くことは、すなわちその者の親である」とある通りである。道を求める心ない者は、生死を離れることはできない。教主釈尊は、すべての外道から大悪人と罵詈雑言を浴びせられ、天台大師は、南北の学者たち、ならびに得一に、「三寸の舌をもって五尺の身を断つ」と言われ、伝教大師は、南都のあらゆる人々に、「最澄はまだ唐の都も見ていない」と言われたことは、みな『法華経』のためであり、恥ではない。愚人に褒められることは第一の恥である。日蓮が国主の御勘気を被れば、天台・真言の法師たちは嬉しく思うであろう。それこそ無慚なことであり、奇怪なことである。

釈尊は裟婆に入り、鳩摩羅什は秦に入り、伝教大師は中国に入り、提婆菩薩や師子尊者は身を捨てた。薬王菩薩は臂を焼いた。聖徳太子は経文を書写するために手の皮を剥いだ。釈迦の過去世の菩薩は肉を売り、同じく釈迦の過去世の楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)は、教えを書き留めるために骨を筆とした。天台大師は「時に適うのみ」と述べている。仏法は時によるべきである。

日蓮流罪は今生における小さな苦しみであるので、嘆かわしいことではない。後生には大いなる楽を得るであるから、大いに喜ばしいことである。

(完)