大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『摩訶止観』抄訳 はじめに

『摩訶止観』抄訳 はじめに

 

『摩訶止観』を抄訳する理由

先に完訳した『法華玄義』では、『法華経』がすべての経典を総括するということが、一定の理論体系をもって、最初から最後まで一貫して述べられている。そのため、その範囲は広大であって、その論理は、蔵教、通教、別教、円教のいわゆる「化法の四教」を中心として、緻密な、そして膨大な段落によって構成されている。ほぼ、その内容は完璧としか言いようのないものであり、天台大師以降の仏教の祖師たちは、天台教学に限らず、どのような学者であっても、『法華玄義』を避けて通ることができなくなっている。

一方、天台大師自身も、教学と修行実践は、車の両輪のようなもの、鳥の両翼のようなものであり、どちらが欠けても不可であると述べている。そこで、『法華玄義』が教学であるならば、『摩訶止観』が修行実践の書となる。

しかし、この『摩訶止観』に説かれる修行実践は、特に現代においては絶対に不可能なものであり、その準備段階である「二十五方便」でさえ、そのひとつも備えることはできないと言わざるを得ない。準備ができないのであるから、実践など言うまでもない。そしてそれでは、天台大師の言う車の両輪はそろわず、一歩も前に進むことができないことになる。

実際、鎌倉仏教をはじめ、過去の多くの祖師たちも、このことを悩んだのであり、その解決方法として、各人の確信によって、さまざまな実践の道を説き、さまざまな宗派が成立していった。

このように、『摩訶止観』そのものは、現在では実践不可能な修行を説く書であるが、その中には、具体的実践のことばかりではなく、悟りにおける深い洞察からくる宝石のような文が多く記されていることも事実である。理想を言うならば、最初に目次として示されている「十大章」の第八「果報」、第九「起教」、第十「旨帰」を読むことができれば、だいぶ状況も変わって来るであろうが、これは目次としてあげられているだけで、それは説かれていない。ほぼ同じ構成で成り立っている『禅門修証(=次第禅門)』が、やはりこの箇所が欠落しているところから、天台大師が意識的に語らなかったと考えられる。それならば、この箇所は、各人の確信に従って教えを構築していっていいわけであり、むしろそれが、広くは鎌倉仏教のさまざまな教えが展開された原因の一つではないかとも考えられる。

いずれにせよ、『摩訶止観』のすべてを現代語訳する意志は私にはない。しかし、この中に見られる、深い霊的洞察に満ちた言葉は、是非、自分の言葉で現代語に直したい、という願いがある。そのようなわけで、この『摩訶止観』に関しては、抄訳とするのである。

またその箇所の順番も、行き当たりばったりで、興味本位で選ぶ。一応、何巻のどこの段とは記すが、それでも、その段をすべて現代語訳するわけでもない。

 

◎これまでアップした記事を原文の順に置き換えると次の通り

 

〇巻第一の上「序分縁起」より      その8

〇巻第一の上「三種の止観」より     その1

〇巻第一の上「三種の止観」より     その6

〇巻第一の下「六即に約す」より     その7

〇巻第二の下「感大果」「裂大網」より  その5

〇巻第二の下「帰大処」より       その4

〇巻第三の上「止観の名義」より     その2

〇巻第五の上「観不可思議境」より    その3