大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その16

疑って言う:どうしてあなたが受けた流罪や死罪などを、過去の業の因縁だとわかるのか。

答える:銅鏡は色形を映し出すものである。秦王の験偽(けんぎ・嘘を見抜くこと)の鏡は現在の罪を映し出すという。仏法の鏡は過去の業の因縁を映し出す。『般泥洹経』には、「良き男子よ。過去において無量のさまざまな罪、あらゆる悪業を犯したための罪報は、この世では、軽蔑されたり、あるいは、姿形が悪かったり、衣服が不足したり、飲食が粗末だったり、財を求めても利益がなく、貧賎の家、邪見の家に生まれ、あるいは、王難にあい、およびあらゆる人間の苦の報いとして現われるであろう。それでも、こうして現世では軽く受けて済むことは、仏法を守っている功徳の力によるのだ」とある。この経文は、日蓮の身の上にも当てはまる。疑いの氷が解けるのである。千万の難も仕方ないことである。一々の句を私の身にあわよう。「あるいは軽蔑される」とあるが、『法華経』には、「軽蔑され憎まれ妬まれる」とある。約二十年間、軽蔑された。あるいは、「姿形が悪い」と、また「衣服が不足する」とは、まさに私の身そのものである。「飲食が粗末」も私の身である。「財を求めても利益がない」も私の身である。「貧賎の家に生まれる」も私の身である。「王難にあう」など、この経文において疑う人があるだろうか。『法華経』には、「何度も追放される」と。この経文には、「あらゆる苦の報い」などとある。「これは仏法を守る功徳の力による」ということについては、『摩訶止観』第五巻に、「修行に集中せず、その力も微弱であるなら、過去の因縁を動かすことはできない。今、止観を修して健やかであっても病においてであっても欠けたところがなければ、生死の業の輪を動かす」とある。また、「三つの妨げと四つの魔が紛然と争うように起こる」とある。

私は、遥か昔より今まで、悪王として生まれて、『法華経』の行者の衣食田畠などを奪ったことは数知れない。現在の世で、日本のあらゆる人々が、『法華経』を信奉する山寺を破壊しているようなものである。また『法華経』の行者の首をはねたことも数知れない(注:これらの過去の話は、日蓮上人が神通力のようなものを用いて思い出しているのではなく、今までのような大きな災難を受けることからして、これくらいのことはあっただろうと推測しているものである)。これらの重罪の報いを解決したものもあれば、まだ解決していないものもあるだろう。解決したものも、その残りがまだ尽きていない。この身の生死を離れる時は、必ずこれらの重罪を消し尽くして、この世から出離すべきである。功徳は浅く軽い。これらの罪は深く重い。『法華経』以外の権経を行じても、この重罪の報いを消すことはできない。鉄を打つ場合、熱を加えなければ、その中にある傷は見えない。何度も熱を加えて打つならば、その傷は現われる。麻の実を絞る場合、強く絞らなければ油は少ししか出ないようなものである。今、日蓮が、強く盛んにこの国が仏法を謗っていることを責めているので、この大難が来ているのであり、これは私の過去の重罪を、今生で仏法を守っているために浮き出させているものであろう。鉄は火に入れなければ黒いままであり、火と合わされば赤くなる。急流に棹(さお)させば、そこで波が山のように現われる。眠っている師子にさわれば大いに吼える。

『涅槃経』には、「たとえば貧しい女のようなものである。家があるわけでもなく、助けてくれる人がいるわけでもなく、さらにまた、病苦飢渇に迫られて、さ迷い歩いて乞食をする。他人の家に留まって子供を身ごもる。しかし、子を産んで間もなく、その家からも追い出される。子を抱いて他国に行こうとしたが、その途中で暴風雨にあい、寒さに苦しみ、多く蚊や虻や蜂や毒虫に襲われる。大河にぶつかって、子を抱いて渡る。その水は流れが急であったが、子が流されないように話すことはなかった。しかし、ついに母子共に流され沈んだ。この女は、子を思う慈しみの功徳により、死後、梵天に生まれた。文殊師利よ。良き男子がいて、正法を保ち守ろうとするならば、この貧しい女が大河にあって、子を愛し思うために、身命を捨てるようにせよ。良き男子よ。護法の菩薩もまた、まさにこのようにすべきである。むしろ身命を捨てよ。このような人は、解脱を求めなくても、自ら解脱に至ること、それは貧しい女が梵天に生まれることを求めずとも、梵天に自ら至るようなものである」とある。

この経文に対して、章安大師は、三障(煩悩障・業障・報障)をもって解釈されている。それを見るべきである。本当の貧しい人とは、仏法の財産がない者である。女人とは一分の慈心ある者である。他人の家とは、この汚れた世のことである。子とは『法華経』の信心であり了因仏性(りょういんぶっしょう・三因仏性の一つ。仏性を照らし出す智慧のこと)の子である。家から追い出されることは流罪にあたる。子を産んで間もないとは、信じて長い時間が経っていないことを意味する。暴風雨とは流罪の勅命である。蚊虻などは、あらゆる無知な人からの悪口罵詈などである。母子共に沈むとは、終に『法華経』の信心を破らないまま、頭をはねられることである。梵天とは仏界に生まれることである。その業を引くことは、仏界まで変わらない。日本・中国などの万国の人々を殺すとしても、五逆罪や謗法がなければ無間地獄には堕ちない。他の悪道に長い間転生するであろう。

欲界の上の色界の天に生まれることは、万戒を保ち、万善を行なっても、集中しない修行による散善では生まれない。また、梵天王となることは、煩悩を持ったまま業を引く上に慈悲を加えてこそ生じるのである。この経文において、この貧しい女が子を思う結果、梵天に生まれるということは、常の教えの本性と形とは相違している。これについての章安大師の解釈に二つあるが、つまりは子を思う慈心より他にはない。その心の状態を観心の対象とする禅定に似ている。もっぱら子を思うことは、慈悲に似ている。このために、特別なことがなくても、天に生まれるのであろう。

また、仏になる道は、華厳の唯心法界(ゆいしんほうかい・すべてはただ心が作り出すということ)、三論の八不(はっぷ・空にもとらわれない中道について、不生不滅・不定不断・不一不異・不去不来として解釈すること)、法相の唯識(ゆいしき・すべてを意識現象とその展開として解釈する教え)、真言の五輪観(ごりんかん・すべての構成要素である地・水・火・風・空を自らの身体において観じること)などによって成就するとは思えない。ただ天台の一念三千こそ、仏になるべき道と思える。この一念三千についても、私たちには一分の智慧の理解もない。しかし、釈迦一代の経典の中には、この『法華経』だけが、この一念三千の玉を抱いている。他の経典の理法は、玉に似ている黄石である。砂を絞っても油は出ない。石女に子がないようなものである。諸経典は智者であっても仏にはなれない。この『法華経』では、愚人でも仏になる因を与えられる。「解脱を求めていなくても、解脱に自ら至る」とある通りである。

私と私の弟子たちに、さまざまな困難があっても、疑う心がないならば、自然に仏界に至るはずである。天の加護がないということを疑うべきではない。現世において安穏がないことを嘆くべきではない。私は弟子たちに、朝夕と教えていたが、疑いを起こしてみな去って行ってしまった。未熟な者の常として、約束したことを、いざという時に忘れることである。妻子をかわいそうに思うために、この世での別れを嘆くのか。転生する中で何度も妻子として親しんて来て、この世で仕方なしに別れても、仏道のために別れても、同じ別れではないか。この世では『法華経』の信心を捨てずに、まず自分が霊鷲山に行って、そこから妻子を導くとよい。

疑って言う:念仏者と禅宗などを無間地獄に堕ちるなどと言うことは、争う心によることである。それではそれこそ、修羅道に堕ちるのではないか。また、『法華経』の「安楽行品」には、「願って人や経典の過ちを説くことがないようにせよ。また、あらゆる他の法師を軽蔑したり見下げたりすることがないようにせよ」とある。あなたはこの経文に反しているために、天に捨てられたのではないか。

答える:『摩訶止観』には、「仏に二つの説がある。一つは摂(せつ・受け入れること)であり、二つは折(しゃく・くじくこと)である。「安楽行品」に、批判しないということは、摂の意味である。『涅槃経』に、(仏法を守るために)刀杖を持って、首を斬れということは、折の意味である。与えたり奪ったり、その方法は異なるが、共に人に利益(りやく)を生じさせることである」とある。『止観輔行伝弘決』には、「仏に二つの説があり、『涅槃経』に刀杖を持つということは、『涅槃経』第三巻には、正法を護る者は五戒を受けない、威儀を行なわない、ということが記されており、さらに、仙予国王(せんよこくおう・釈迦の前世の姿。仏法を守るために反対者を殺したが地獄には堕ちなかったという)の文、または、王宮に新しく来た医者が、前の医者が間違って処方した乳薬を禁じ、違反した者は首をはねるよう進言したことが記されているが、このような文は、すべて法を破る人を折伏することである。すべての経論はこの二つを出ない」とある。

(つづく)