大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

種種御振舞御書 その2

種種御振舞御書 その2

 

このようなことを知って、日蓮はむしろ喜んで言うのである。これはもとより知っていたことである。雪山童子(せっせんどうじ・釈迦の前世のうちの一人。帝釈天が姿を変えた鬼の説く「諸行無常/是生滅法」という偈を聞いて、その後半の「生滅滅已/寂滅為楽」を聞くために鬼に身を投げたという)は、半偈のために身を投げ、常啼菩薩(じょうたいぼさつ・人々が苦しむ姿を見て、常に泣いていたということからこの名がある。ある時、教えを請いに法涌菩薩のところに行こうとして、その供物を買うために、帝釈天が姿を変えた婆羅門に、自らの骨肉や血を売ろうとした)は身を売り、善財童子(ぜんざいどうじ・『華厳経』に記されている熱心に求道の旅をした童子。ある時、方便命婆羅門から、火に入れば悟りを得られると聞いて火に飛び込んだ)は火に入り、楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ・釈迦の前世のうちの一人。ある婆羅門から、皮を紙とし血を墨とすれば、そこに教えを書いてやろうと言われ、その通りにした)は皮を剥ぎ、薬王菩薩(やくおうぼさつ・『法華経』に記されている菩薩。仏を供養するために自分の腕=臂を焼いて光を灯した)は臂を焼き、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ・=不軽菩薩。『法華経』に記されている菩薩。すべての人は仏になると説いて人々を礼拝し、さまざまな迫害を受けた)は杖や木で殴られ、師子尊者(ししそんじゃ・釈迦の教えを受け継いだ一人。迫害されて殺された)は頭をはねられ、提婆菩薩(だいばぼさつ・釈迦の教えを受け継いだ一人。迫害されて殺された)は外道(げどう・他の宗教者)に殺された。

これらの求道の修行は、どのような時に行なわれるべきかと考えれば、天台大師は「時に適って行なうべき」と書かれ、章安大師(しょうあんだいし・天台大師の弟子の章安灌頂のこと)は、「その取捨は適宜にすべきであり、偏ってはならない」と記されている。『法華経』は唯一の教えであるが、それを行なう者の能力に従って、また時に適って、その修行は千差万別である。仏は次のように記している。すなわち、「私の滅度の後、正法と像法の二千年が過ぎて、末法(まっぽう・仏が死んで正法の時代、像法の時代、末法の時代と経過して、次第に世は悪くなるという。末法思想)の始めにこの『法華経』の肝心である題目の五字だけを広める者が現われるであろう。その時、悪王や悪比丘たちは、大地の微塵の数より多く、大乗や小乗の教えをもって対抗するが、この題目の行者に責められるであろう。責められた者たちは、その恨みに在家の檀那たちを煽動して、悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上げ、あるいは流罪、あるいは首を斬るなどと言って脅迫するであろう。しかし、退くことなく教えを広めれば、国主は同士討ちをはじめ、その民は餓鬼のようにその身を食い合い、後には他国から攻められるであろう。これはひとえに、梵天帝釈天や日月天や四天王たちが、『法華経』の敵となった国を他国によって責められることである」と説かれている(注:この出典は不明。間違いなく、この通りの経典の文は存在しない。日蓮上人の長い求道の結果、このような思想を抱くに至ったので、それを仏が語ったものとして記していると思われる)。

このことを信じ、日蓮の弟子ならば、一人も恐れてはならない。親や妻子を思い、所領を顧みることをしてはならない。気の遠くなるほどの昔から今まで、親や子のために命を捨てた者は、大地の塵の数よりも多いではないか。しかし、『法華経』のためには、誰も命を捨てたことはない。『法華経』をそれなりに行なっておきながら、このようなことが起こると、とたんに退いてしまった。たとえば、せっかく湯が沸いたのに、火を切る直前に水を入れるようなものである。今こそ、心を決めるべきである。自分の身と『法華経』を取り換えてしまうことは、金を石に換え、米を糞に換えるようなものである。

仏滅後の二千二百余年の間、仏の弟子の摩訶迦葉や阿難など、また馬鳴(めみょう)や竜樹(りゅうじゅ)などの経典解釈家、また、南岳(なんがく・慧思。天台大師の師)や天台大師や妙楽大師(みょうらくだいし・湛然。荊渓湛然(けいけいたんねん)ともいう。唐の時代の天台宗中興の祖)や伝教大師などの教えを広めた者でさえも、広めることをしなかった『法華経』の肝心であり、諸仏の眼目である「妙法蓮華経」の五文字を、末法の始めにこの世に広めるという瑞相(ずいそう・めでたいこと)として、今、日蓮が魁(さきがけ)をしたのである。

弟子たちは、二陣三陣として続き、摩訶迦葉や阿難より勝れ、天台大師や伝教大師を越えるべきである。日本のような小島の国主の脅しを恐れて地獄に堕ちてしまっては、閻魔大王の責めはどうするのか。仏の御使いと名乗りながら恐れていては、最低の者と言わざるを得ない。

このように日蓮は、弟子たちに説いたのである。

(注:ここまでは、日蓮上人の言葉であるとして問題はない。しかし、この次の行から、突然文体と内容が変わる。そして、ここまでの流れとも合わない文となるのである)。