大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その6

天台大師は、「釈迦の在世中も怨み嫉みが多いならば、ましてや未来は言うまでもない。人々を教化することが難しくなる」と述べている。妙楽大師は、「妨害する思いが未だ除かれていない者を怨とし、聞くことを喜ばない者を嫉と名付ける」と述べている。このように、南三北七の十師をはじめ、中国において無量の学者たちは天台大師を怨敵とした。得一(とくいつ・平安初期の法相宗の僧)は、「拙いことだ、天台智者大師。あなたは誰の弟子か。三寸に足らない舌をもって、仏がその顔を覆うほどの広長舌で問が教えを謗るとは」と言っている。東春(とうしゅん・妙楽大師の弟子の智度法師の著作)には、「問う。仏が在世の時、怨み嫉みが多かったとある。仏の滅度の後、この経を説く時、どうしてまた困難が多いのか。答える。俗に良薬口に苦しと言うように、この経は五乗(人・天・声聞・縁覚・菩薩)の異なり執着することを廃して、究極的にはみな一つであるという玄妙な宗旨を立てるために、凡夫を退け聖人を責め、大乗を排除して小乗を破り、天魔を毒虫だとし、外道を悪鬼と説き、小乗に注釈する者を貧賎と侮り、菩薩を挫いて新学という。このために、天魔は聞くことを嫌い、外道は耳に逆らい、二乗は驚き怪しみ、菩薩はおびえる。このような者たちは、すべて難題を持ち出して来る怨み嫉みが多いという言葉はどうして空しくなるだろうか」とある。

『顕戒論』には、「僧統(そうとう・寺院や僧侶たちを統率するために、国から監督を任せられた高位の僧侶)が天皇に奏上して次のように述べた。中国の西夏の時代に鬼弁婆羅門がいて人々を欺いたように、この日本にも巧妙に言葉を操る禿頭沙門(ぐとくしゃもん・伝教大師を悪く言った言葉)がいて、この者は、同類の者たちを集めて世間を迷わせている。これに対して論じて言う。天台大師の昔には、斉朝の光統(こうず)が大師に反対し、今は日本の奈良六宗の僧統がそれである。『法華経』に怨み嫉みが多いとは、実にこのことである」とある。また、『法華秀句』には、「『法華経』が広まる時代について語れば、すなわち像法の終わりの末法の始めであり、その場所を尋ぬれば、すなわち唐の東・羯(けつ・中国北部に存在した小部族)の西であり、人については、すなわち五濁悪世の衆生であり、闘諍の盛んな時である。『法華経』には、仏の滅度の後、なお怨み嫉みが多いとある。この言葉は本当である」とある。

子に灸治をするならば、必ず子は父母を憎む。重病の者に良薬を与えれば、必ず口に苦いと文句を言う。仏の在世でもそうであった。ましてや、像法の末のの地の果てのような場所ではなおさらである。山に山を重ね、波に波をたたみ、難に難を加へ、非に非が増すであろう。

像法の時代には天台大師一人だけが『法華経』と一切経を読んだ人物である。南北の人々はこれを批判したが、陳と隋二代の聖主は、彼らの眼前に是非を明らかにしたので、敵はついに消えた。そして、像法の末では、伝教大師一人だけが、『法華経』と一切経を仏の説いた通りに読まれた。南都七大寺が蜂起したが、桓武天皇嵯峨天皇の賢主は、ご自身で確かめられたので、また事なきを得た。今は末法となってから二百年余りが過ぎた時である。仏の滅度の後のしるしとして、闘諍が盛んに始まる時となっているので、非理が前に出ており、濁世のしるしとして、正しいことを主張しても用いられず、かえって、流罪や命の危機にさらされるのである。

そうであるならば、日蓮の『法華経』に対する智慧による理解は、天台大師や伝教大師の千万が一分にも及ばないものであるが、難を忍び慈悲の勝れていることにおいては、恐れさえ感じられることであろう。そのような日蓮に対して、必ず天の計らいがあるはずだと思ったが、一分のしるしもない。それどころか、ますます重罪人の扱いを受けている。このことを考えれば、自分は『法華経』の行者ではないのだろうか。また諸天善神たちは、もはやこの国を捨て去ってしまったのだろうか。そのように疑う心も起きる。

しかし、『法華経』第五巻、「勧持品」の二十行の偈については、もし日蓮がこの国に生まれなければ、ほぼ世尊は大妄語の人となり、八十万億那由佗の菩薩は提婆達多のような虚誑罪に堕ちるところだったのである。その経文には、「無智の人が悪口を言い罵る」「刀杖瓦石を加える」などとある。今の世を見ると、日蓮以外の諸僧のうち、誰が『法華経』に従っているために人々から悪口を言われ罵られ、刀杖などを加えられている者があろうか。したがって、日蓮がいなければ、この一偈の予言は妄語となるのである。さらに、「悪世の中の比丘たちは、その知恵は邪見であり、心は曲がっている」とある。また、「邪見の比丘たちが、白衣を着て説法して、世間では六神通を持った阿羅漢のように敬われている」とある。これらの経文は、今の世の念仏者・禅宗律宗等の法師でなければ、やはり世尊は大妄語の人となってしまう。また、「常に大衆の中にあって、さらに国王や大臣や婆羅門や居士に向かって訴える」とある。これは、今の世の僧たちが、日蓮を訴えて流罪にしたことでなければ、この経文は空しくなるのである。また、「度々追放される」などとあるが、日蓮が『法華経』のために度々流罪とならなければ、この度々という二字はどうなるのであろうか。この二字は、天台大師や伝教大師も、未だ自らのこととして読まれていないものである。ましてや他の人はなおさらである。末法の始めのしるしとして、「恐怖悪世中」という金言があり、ただ日蓮一人がこれを自らのこととして読んでいるのである。たとえば世尊は、『付法蔵経』に記して、「私の滅度の後一百年に、阿育大王という王が世に出る」とある。『摩耶経』には、「私の滅度の後六百年に、竜樹菩薩という人が南インドに出るだろう」とある。『大悲経』には、「私の滅度の後六十年に、末田地(までんじ・阿難の弟子)という者が地を竜宮に築くであろう」とある。これらはみな、仏が記した通りになった。そうでなければ、誰が仏教を信受するだろうか(注:仏典はすべて釈迦の言葉ではなく後の人の創作なので、釈迦がこのような予言をしたわけがない)。しかし、仏は、恐怖悪世・然後未来世・末世法滅時・後五百歳などなど、『正法華経』と『妙法蓮華経』の二本に正しく時を定めておられる。今の世にも、『法華経』の三種の強敵がなければ、誰が仏説を信受するだろうか。日蓮がいなければ、誰を『法華経』の行者として仏語を証明するだろうか。南三北七・七大寺など、なお像法の『法華経』の敵の中から、どうして今の世の禅・律・念仏者たちが逃れられるだろうか。経文は我が身に普合している。国主からの御勘気を被るならば、ますます喜びを増すべきである。たとえば、まだ煩悩を断じ尽くしていない小乗の菩薩が、「願兼於業」といって、作りたくない罪ではあるが、父母などが地獄に堕ちて大いなる苦しみを受けているのを見て、同じようにその業を作って、願って地獄に堕ちて苦しむことに同じである。苦に代えて喜びとするようなものである。これもそれと同じである。現在の責めは耐えがたいものであるが、未来世の悪道を脱するためだと思えば喜びである。ただし、世間の疑いといい、自心の疑いといい、どうして天は助けてくださらないのであろうか。諸天などの守護神には、『法華経』の行者を守るという仏前の誓いの言葉がある。たとい『法華経』の行者が猿になったとしても、『法華経』の行者と称する限り、早々に仏前の誓いの言葉を遂げなければならないはずであるが、それがないということは、この私は『法華経』の行者ではないのだろうか。この疑いはこの書の肝心、一期の大事であるので、所々にこれを書いて、強い疑いもあげて、答えを設けよう。

季札(きさつ・中国の政治家)という者は、心の約束を果たそうと、王の重宝である剣を徐の君主の墓に掛けた。王寿という人は川の水を飲み、その代金として、金の銭を水に入れ、公胤(こういん)という人は腹を裂いて主君の肝を入れた。これらは恩に報いた賢人である。ましてや舎利弗摩訶迦葉などの大聖は、二百五十戒・三千の威儀を一つも欠けずに実践し、見思惑を断じ三界を離れた聖人である。梵天帝釈天をはじめ諸天の導師であり、一切衆生の模範である。しかし彼らは、『法華経』が説かれる前の約四十年間、永遠に仏にはなれないと嫌い捨てられていたが、『法華経』の不死の良薬を飲んで、焼かれた種が芽を出し、一度割れた石が合わさり、枯木に花や実がなるように、仏になることができると授記されたが、まだ仏の八相成道(はっそうじょうどう・釈迦の一生の出来事にことよせて、仏が受胎してから悟りを開くまでの過程を八場面にパターン化したもの)は成就していない。どうしてこの経の重恩に報いないことがあろうか。もし報いなければ、これらの賢人も恩知らずの畜生と同じとなる。毛宝に助けられた亀はその恩を忘れなかった。昆明池の大魚は、命の恩に報いようと、明珠を夜中に捧げた。畜生すらなお恩に報いるのである。ましてや大聖は報いないわけがないであろう。

阿難尊者は斛飯王(こくぼんのう・釈迦の叔父)の次男であり、羅喉羅尊者は浄飯王の孫である。人の世にあっても、家柄は高い上、『法華経』以前の経典では、声聞の悟りを開いて、成仏はできないと抑えられていたが、八年間説かれた霊鷲山の『法華経』の席において、山海慧・蹈七宝華という如来の称号を未来世の授記として授けられた。もし『法華経』が説かれなかったら、どんなに家柄が高く大聖となっても、誰が敬うであろうか。夏の桀(けつ)・殷の紂(ちゅう)という人は、万乗の主であり土民が帰依する王である。しかし、悪政によって国を滅ぼしてしまったので、今でも、悪い者の手本として、桀紂桀紂と言われている。下賎の者や癩病の者であても、桀紂のようだと言われれば、馬鹿にされたと腹を立てる。千二百人の無量の声聞は、『法華経』が説かれなかったら、誰がその名を聞いたであろうか。その音を習ったであろうか。一千の声聞たちが、一切経を結集したと知る人もいなかったであろう。ましてや、それらの人々を絵像木像に現わして本尊と仰ぐ人がいるはずがない。

これらはひとえに、『法華経』の御力によって、一切の阿羅漢も帰依されるようになったのである。諸の声聞が『法華経』を離れてしまえば、魚が水から離れ、猿が木から離れ、小児が乳から離れ、民が王から離れるようになってしまう。ならばどうして、『法華経』の行者が捨てられることがあろうか。諸の声聞は、『法華経』以前の諸経典においては、肉眼の上に天眼・慧眼を得ている。そして『法華経』において、法眼・仏眼が備わった。十方世界すらなお照らし見ることができる。ならばどうして、この娑婆世界の中の『法華経』の行者を知見できないことがあろうか。たとい、日蓮が悪人であり、一言二言、一年二年、一劫二劫、そして百千万億劫の間、これらの声聞に対して悪口を言い、罵り、刀杖を加えて来たとしても、『法華経』を信仰する行者ならば捨てることはできないはずである。たとえば、幼い子供が父母に悪口を言ったからといって、父母がその子を捨てるだろうか。梟鳥が母鳥を食べても、母鳥はそれを捨てない。破鏡(はきょう・父を殺すといわれる動物)が父を殺しても、父はそれに従う。畜生ですらこのようである。大聖が『法華経』の行者を捨てるだろうか。そうであるならば、四大声聞が『法華経』の教えを理解して告白した文に、「私たちは今、真実の声聞となったのだ。仏の教えの声を聞いて、そして他の人々にも同じく仏の声を聞かせるのだ。私たちは今、真実の阿羅漢である。この世の多くの天や人や魔や神の中において、供養を受けるにふさわしい。世尊に対する恩はお返しできないほどである。実に不思議な方法をもって、私たちを憐れみ教化して、私たちを導かれた。手足をささげて頭を地につけ礼拝し、すべてをささげてもこの恩に報いることはできない。仏を頭の上にかかげ両肩に乗せ、気の遠くなるほど長い時間、心を尽くして供養し、高価な食べ物や数多くの宝の衣、および寝具や湯薬をささげ、極めて貴重な香木や多くの珍しい宝をもって塔廟を建て、宝の衣を地に敷くということを、気の遠くなるほどの長い年月続けたとしても、その恩に報いることはできない」とある。

(つづく)