大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その12

法華経』現代語訳と解説 その12

 

舎利弗よ 私は衆生のために この譬喩をもって 一仏乗を説く あなたたちがもしよく この言語を信じ受ければ まさにそのすべての者は 仏道を成就することができるのだ この一仏乗は微妙であり 清浄第一であり 多くの世にあって この上ないものであり 仏の喜ばれるところであり すべての衆生が 称賛し 供養し礼拝すべきところである この車には 無量億千もの 多くの力と解脱 禅定と智慧 および他の仏の法がある このような車に乗せて 子供たちを数えきれないほどの劫数に日夜 常に遊戯することができるようにし 多くの菩薩 および声聞たちを この宝の車に乗せて 真っすぐに悟りの道場に到達させる したがって十方に他の車を求めても それはあり得ない(注1) ただし仏の方便は除く(注2)

舎利弗よ あなたたちはみな私の子である 私はすなわち父である あなたたちは劫を重ねつつ あらゆる苦しみに焼かれていた 私はみな救い出して 三界を脱出させたのだ 私は以前に あなたたちは滅度したと説いたが それはただこの世の生死の転生を断じ尽くしただけで 実は滅度してはいない 今求めるべきは ただ仏の智慧である 仏の道の求道者ならば この大衆の中において よく一心に 諸仏の真実の法を聞くがよい 諸仏世尊は 方便を用いても 教化の対象の衆生は みな求道者なのだ(注3) 智慧が少ない者が 深く愛欲に執着するならば そのために苦諦を説く 衆生は喜んで 未曾有の教えを得る 仏の説く苦諦は 真実であり異なることはない ある衆生が 苦の本を知らず 深く苦を起こす原因に執着して 少しも捨てることができなければ そのために方便をもって道を説く(注4) あらゆる苦の原因は 貪欲が本となっている もし貪欲を滅ぼせば 苦の拠り所はなくなる あらゆる苦を滅ぼし尽くすことを 第三の諦という この滅諦のために 道を修行する あらゆる苦の束縛を離れることを 解脱という この人はどうして解脱を得たのだろうか ただ虚妄を離れることを 解脱と言っている これは実はまだ すべての解脱を得てはいないのだ 仏はこの人は 実はまだ滅度していないと説く この人はまだ 究極の悟りを得ていないために 私の心においても 滅度に至っているとは言わない 

私は法王であって 法において自在である 衆生に安穏を与えるために世に現われる 舎利弗よ 私がここで説いている教えは この世に利益(りやく)を与えようとして説くのだ これをあちこちで みだりに説くことがないようにせよ もし聞きたいという意思を示す者があれば 喜んで受けるであろう まさにこのような人は もう菩薩の位から退かない者である この経の教えを信じ受け入れる者は すでにかつて過去の仏に仕えて供養し この教えを聞いていた人である もし人がよく私の説く教えを信じるならば 私自身を見て またあなたや僧侶たちや菩薩たちを見るのである この法華経は 深い智慧を得ている人のために説くのであり 浅い知識しか持っていない者は 戸惑って理解することはできない すべての声聞や辟支仏は この経典の教えには力が及ばない 

舎利弗よ この経典は信じることをもって 受け入れることができる(注5) それはあなたばかりではなく 他の声聞も同じである 他の声聞も 仏の言葉を信じるがゆえに この経典を喜んで受け入れるのだ 自分の智慧によっては この経典を受け入れることはできない 

また舎利弗よ 思い上がった者 怠けた者 自分の考えを押し通す者には この経典を説いてはならない 悟りを求めない浅はかな者は 深く肉体の欲に執着しているので 聞いても理解できない 彼らのために説くことはするな もし人がこの経典を聞いても信ぜずに この経典を捨てて蔑むようなことをするならば それはすなわち この世における仏になる可能性を捨て去ることなのだ あるいはこの経典を馬鹿にして疑惑を抱くであろう あなたはまさに このような人が どのような罪の報いを受けるのか聞くがよい もし仏がいる時や滅度した後に このように経典を誹謗する者がいるであろう この経典を読み 書き写し 大切に保っている者を見て 馬鹿にして憎み 恨みを抱く者がいるであろう この人の罪の報いを あなたは今聞くがよい

そのような人は 肉体の命が終わったら 地獄の底に落ちるであろう 気の遠くなるほどの長い歳月の後 生まれ変わったとしても 同じく地獄の底にいるであろう このように地獄に生まれ変わることも 数えることもできないほどの長い歳月続くのだ やっと地獄から出たとしても 畜生の世界に堕ちるであろう もし犬や野獣になったとしても その形は醜く 重い病気を持ち 人々から虐待され 嫌われ憎まれるだろう 常に飢え乾いて 骨も肉も枯れるだろう 生きては苦しみを受け 死んでも瓦礫の下敷きになろう 仏になる可能性が断たれているため このような罪の報いを受けるのだ もしはラクダとなり あるいはロバに生まれて 身に常に重い荷物を負わされ 多くの鞭を受け ただ水を飲み草を食べること以外に考えることはない この経典を誹謗したために 受ける罪の報いはこのようである あるいは野獣となって 集落に入れば その体中が病に侵されて片目なので 子供たちに打たれ 多くの苦しみを受け ある時はそのまま死ぬであろう さらに死んでも 大蛇(おろち)と生まれ変わるだろう その姿は非常に大きく 測ることなどできない 耳が聞こえず足がなく うねうねと腹で進み 多くの虫に寄生され 昼夜と休みなく苦しみを受ける この経典を誹謗したために このように罪に定められる もし人間の世界に生まれたとしても 能力は劣っていて あらゆる身体の不具合を持ち たとえ言葉を発しても 人々に相手にされない 口の息は臭く 鬼神につかれてしまう 貧しく卑しく 人に使われ 多くの病を持って痩せていて 助けられることもなく たとえ人に近づいても 相手にはされない もし何かを得たとしても すぐに忘れてしまう もし自ら医学を学び 病を癒すことができたとしても さらに他の病を発し あるいは死んでしまう もし自ら病あれば 治してくれる人もなく たとえ良薬を得たとしても 病は増し加わる

あるいは 他の者たちが行なった反逆に巻きこまれ また窃盗に関わってしまい その罪をかぶる このような罪人は 長く人々の王である仏が説法し教化する場面を見ることもない 常に災いのあるところに生まれ 体は不自由であり心は乱れ 長く仏の教えを聞くことはない 気の遠くなるほどの長い歳月の間 生まれ変わっては身体が不自由であり 庭に遊ぶように地獄に行き 家に住むように餓鬼や畜生の世界にいるようになる あらゆる獣や家畜の世界がその行く場所となる この経典を誹謗したため このような罪に定められる もし人間の世界に生まれても あらゆる身体の不具があり 貧しさがその者の飾りである そして病がその者の衣服である 常に臭い場所に住み とても穢れていて それでも自分の考えに執着し 怒りが増し加わり 欲を満たすに手段を選ばない この経典を誹謗する罪はこのようである 

舎利弗よ この経典を誹謗する者についての罪を説明するならば いくら時間と歳月があっても足らない このために私はあなたに語る 無智の人の中で この経典を説いてはならない もし能力が備わっており 智慧が明らかであり よく聞き知識があり 仏の道を求める者があるならば そのような人に説くべきである。

もし過去世において 憶百千の仏に仕え 多くの善を積み 堅固な信心を持つ人がいるなら そのような人に この経典を説くべきである もしよく精進し 常に慈悲の心を実行し 身も命も惜しまない人がいるなら そのような人に説くべきである もし仏をよく供養して 異なる心なく 多くの愚かな心を離れて 独り山や谷に住む人がいるなら そのような人に説くべきである また舎利弗よ 悪い友達を捨て 良い友達に親しむ人がいるならば そのような人に説くべきである もし仏の弟子で よく戒を保ち 玉(ぎょく)のように清らかであり 大乗の経典を求める人がいるならば そのような人に説くべきである 怒りを持たず 素直で柔和で 常にすべての人を憐れみ 諸仏を供養する人がいるならば そのような人に説くべきである また仏の弟子で 大衆の中において 清らかな心をもって あらゆる因縁や比喩や言葉をもって 自由自在に説法する人がいるならば そのような人に説くべきである もし僧侶であり すべてを知る智慧を得るために 四方に教えを求めて 合掌して頭に押しいただいて ただ大乗経典を手にして保ち 大乗以外の経典を一切受けない人があるならば そのような人に説くべきである 心より仏の舎利を求めるように経典を求め それを得るならば 頭に押しいただいて 他の経典を求めず 仏の道に逆らう教えを念じることさえない人がいるならば そのような人に説くべきである 

舎利弗よ 私がこのように 仏を求める人について語るならば いくら長い歳月と時間があっても尽きることはない このような人は この経典をよく信じて理解するであろう あなたはまさに 妙法蓮華経を説くべきである。

 

注1・一仏乗は絶対的真理そのものであり、相対的な言葉で表現できないことは、ここまで繰り返し述べて来た通りである。それは、過去世現世未来世の三世を通した真理であり、抽象的な法則や公式や教理などで示せるものではない。ただ、実際に一仏乗に生きることを自覚し、魂をもって体験していくのみである。しかし、言葉に表現しなければ、それは誰にも伝わらない。そのため、この『法華経』があるわけであるが、言葉で表現できない一仏乗をどのように表現するのだろうか。それは、物語の方式しかない。一仏乗に生きるなら、このようになるということを、物語として表現する以外にないのである。『法華経』に記されている物語を理解し、それが自分の魂の上にも実現しており、これからも実現されていくのだ、ということを悟る時、真実に『法華経』を読むことができる。

したがって、『法華経』そのものが一仏乗なのである。この箇所で、一仏乗が讃嘆されているが、これ以降、数えきれないほどの箇所で、『法華経』に対しても、同じように讃嘆する言葉が続く。それは一仏乗を讃嘆していることに他ならない。『法華経』の中で、この『法華経』自体を讃嘆するとは、常識的に見れば、おかしなことであり、中身のないことの証拠のように思える。たとえば、「この本」という題名の本があり、開けて見ると、最初から最後まで、「この本は素晴らしい」という言葉だけがびっしりと書いてあるだけの本があるならば、まさにそれは中身のないものと言わざるを得ない。この一仏乗に対する真実の理解がなければ、『法華経』もそのような中身のない書物のように思えるかも知れない。

注2・「ただし仏の方便は除く」 この言葉は、漢訳のみにあり、サンスクリットからの訳にはない。そもそも、一仏乗が方便として表現されるので、究極的に言えば、一仏乗と方便は別物ではない。しかし、このような漢訳の言葉があると、一仏乗と方便が別物のように見える。そしてこの言葉があると、文章の流れに乱れが生じるようにも思える。変に誤解されないようにと配慮した、鳩摩羅什の創作かも知れないが、余計な言葉である。

注3・「教化の対象の衆生は みな求道者なのだ」 この「求道者」という言葉は、漢訳では「菩薩」だが、これでは観世音菩薩や文殊菩薩の「菩薩」と混同されるので、サンスクリットからの訳に従って、「求道者」とした。そしてこの文の意味は、仏は大衆の中から、この求道者だけを選んで教化するということではなく、声聞であろうが縁覚であろうが、みな求道者を教化する心で法を説いている、ということである。したがって仏は、時至れば、まさにここに記されているように、すべての教えこそ、一仏乗そのものなのだということを明らかにするのである。

注4・「そのために方便をもって道を説く」 この箇所は言うまでもなく、四諦について説かれており、この文は集諦のことである。苦諦はその言葉そのものがあげられており、この後、滅諦はあげられており、道諦については、「道を修行する」とある。このように、集諦だけは、言葉そのものがあげられていない。

注5・「この経典は信じることをもって 受け入れることができる」 絶対的次元についての教えをいくら聞いても、その教え自体が方便であって、聞く側も相対的な人間であるため、人間の思考では理解することはない。それはその者が能力がない、ということではなく、次元の問題である。したがって、『法華経』で説くことを受け入れるには、納得して受け入れるのではなく、信仰心をもって受け入れる以外にない。これも、過去世からの業因縁によって信仰心が生じるわけであるので、理屈の上では、誰でも信じさえすれば受け入れられるということになるが、そのような因縁のない者、まだそこまで至っていない者は、実際はそう安々とは受け入れることはない。