大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その9

問う:伝教大師は日本国の人である。桓武天皇の御世に現われて、欽明天皇より二百年あまりの間の誤った教えを破り、天台大師の完全な智慧と完全な禅定を広めるばかりではなく、鑑真和尚の広めた日本の小乗の三所(奈良東大寺太宰府観世音寺、下野薬師寺)の戒壇を破り、比叡山に円頓の大乗戒壇を建立された。この大いなる業績は釈迦の死後一千八百年の間のインド、中国、日本および世界の第一の尊い出来事である。悟りの内容は、竜樹や天台大師などにはあるいは劣るか、あるいは同じくらいかも知れないが、仏の教えをひとつの教えに統一したことは、竜樹や天親も超え、南岳慧思や天台大師よりも優れていると思う。総合的に見れば、釈迦の死後一千八百年の間、この天台大師と伝教大師の二人こそ、まさに『法華経』の行者である。このために、『法華秀句(ほっけしゅうく・最澄の著作)に次のようにある。「『法華経』には、『もし須弥山を取って、他の無数の仏国土に投げたとしても、これはまだ容易である。仏の滅度の後の悪世の中において、よくこの経を説くことこそ困難なことだ』とある。この言葉を解釈するならば、浅いことは容易であり、深いことは困難であるということは、『法華経』における釈迦の判断である。これを受けて、浅いことを捨てて、深いことを取ることは、正しいことを実行すべき人間の心である。天台大師は釈迦に信順して『法華経』の教えをもって中国に広め、比叡山の一宗は天台の教えを受け継ぎ、『法華経』の教えを日本に広めるのである」と言っている。

この文の意味は次の通りである。次第にこの世が悪くなっていき、人間の寿命が百歳になった時より釈迦が悟りを開かれて世におられた五十年、そして釈迦の死後一千八百年あまり過ぎた中ごろの時代に、高さも広さも測り知れないほどの大きさの金でできた山(須弥山・しゅみせん)を、五尺の小身の人間が、手をもって、まるで一寸二寸の瓦礫を握って、一丁二丁くらい投げるように、雀などの鳥の飛ぶよりも早く、この世の果てにあると言われる鉄囲山(てっしせん)の外へ投げる者があったとしても、『法華経』を釈迦が説いたように説く者は、末法には非常に少ない。天台大師と伝教大師こそ、仏が説いたように説く人である、ということである。

インドの論師は『法華経』へは行き着けず、中国の天台以前の人師は、あるいは行き過ぎ、あるいは足らず、慈恩大師や法蔵や善無畏などは、東を西と言い天を地と言う人たちである。彼らを伝教大師は讃嘆してはいない。

延暦二十一年正月十九日に、高雄山に桓武皇帝の行幸を仰ぎ、奈良の六宗七大寺の碩徳である善議、勝猷、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、慈誥、玄耀、歳光、道証、光証、観敏などの十人あまり、最澄論議をし、あるいは一言で舌を巻いて二言三言に及ばず、みな一同に頭を抱え腕を組んでしまった。三論宗法相宗華厳宗の教義や教判の解釈など、すべて最澄に破られてしまった。たとえば、大きな屋敷の梁が折れたようなものである。十人の大徳の高慢も倒れてしまった。

(注:この記述は、延暦21年(802)の最澄36歳の時に行なわれた、高雄山寺における「法華会(ほっけえ)」の講師の一人として、最澄が招かれた時のことである。これに先立って、一年前の延暦20年には、最澄比叡山において、これも奈良の僧侶たちに依頼して、『法華経』の講義を10回にわたって行なっている。これを「法華十講(ほっけじゅっこう)」と言うが、この高雄山寺の法華会も、その延長のようなもので、この奈良の僧侶たちを招いて行われた法会は、もちろん論議なのではない。最澄は、高雄山寺における「法華会」で、天台大師の三大部を講義し、奈良の僧侶たちはその講義を通して感動したということは確かである。しかし、それは論議ではないので、「破られた」わけではない。

この高雄山寺には、道教事件で活躍した和気清麻呂(わけのきよまろ)の墓がある寺で、この寺での「法華会」は、清麻呂の息子の和気弘世(ひろよ)と真綱(まつな)が催したものである。さらに、この「法華会」には、桓武天皇行幸していない。天皇は、この「法華会」の成功を聞き、大いに喜んで賛辞を送っているのである。また奈良の僧侶たちからも、主催者である和気弘世に対して感謝の意を伝える謝辞が送られている。その謝辞の中に、奈良の仏教界で問題となっていた、三論宗法相宗の衝突が解決された、という記録がある。すなわち、この次の段落で日蓮上人が記している「帰伏状」は、帰伏状などではなく、この謝辞である。

そしてこの「法華会」を通して、最澄はさらに桓武天皇のところとなり、この直後、最澄は唐の留学僧の一人として選ばれることとなるのである)。

その時、天皇は大いに驚かれ、同二十九日に和気広世と大伴国道の二人を勅使として再び奈良七寺の六宗に遣わすと、次のような帰伏の状を奉った。

「天台の奥深い論書を見ると、釈迦のすべての教えを総括して、ことごとくその意味を明らかにして余すところなく、天台の教えは諸宗を超え、真理の一道を示している。その中の教えは実に深く、妙なる教理である。七大寺六宗の学生たちも今まで聞いたことがなく見たことがないほどである。これによって、三論宗法相宗の長年の争いも氷の如く解け、すでに雲や霧が晴れて光を見るようなものである。聖徳太子以降、今に至るまでの二百年あまりの間、講じられて来た経論は数多く、それぞれの教えの優劣を争って来たが、それらは未だに解けてはいない。しかし、この天台の完全な教えはまだ世には広められていなかった。この間は、人々はこの完全な教えを聞くにふさわしくなかったのであろうか。伏して思えば、日本の国は、ようやく如来の委託を受けて、深くこの完全な機会を結び、唯一の妙なる教えと真理が初めて明らかにされ、六宗の学者初めて至極を悟るのである。これによって、この世の人々はこれから妙なる完全な教えの船に乗り、いち早く悟りの彼岸に至ることができるようになったと言うべきである。善議(ぜんぎ・唐に渡って三論宗を学ぶ。奈良の大安寺の僧侶)たちは、幸いなる運命によって優れた教えにあうことができた。これは深い宿縁によってでなければ、このような教えのある聖なる世に生まれることはできなかった」。

中国の嘉祥大師(かしょうだいし・中国の隋から唐にかけての三論宗の僧侶で、三論教学の大成者。天台大師と交際があった。吉蔵(きちぞう)という名の方が知られている)などは、百人あまりを集めて、天台大師を聖人と定めている。今、日本の奈良の七寺の二百人あまりは、伝教大師を聖人と呼んでいる。釈迦の死後二千余年に及んで中国と日本に聖人が二人出現している。その上伝教大師は、天台大師がまだ広めていなかった円頓大戒を比叡山に建立した。これこそ、像法の末期に『法華経』が広まった証拠ではないか。

答える:摩訶迦葉(まかかしょう)や阿難(あなん・この二人は釈迦の後継者とされる弟子)たちが広めていない大いなる教えを馬鳴や竜樹や提婆や天親たちが広めたといことは、先の問答で明らかにした。また、竜樹や天親たちが広め残した大いなる教えを、天台大師が広めたということも、やはり前の問答で明らかにした。また、天台智者大師が広めなかった円頓の大戒を伝教大師が建立されたということも明らかである。ただし、不思議に思うことは、すでに釈迦はすべて説き尽くされたけれども、釈迦の死後に、摩訶迦葉や阿難や馬鳴や竜樹や無著や天親および天台大師や伝教大師がまだ広めていない最大にして深密の教えが、『法華経』の文面に現われている。この教えは、今の末法の二千五百年の始めの時に広めるべきであるか、不思議の極みである。

(注:繰り返して述べているが、日蓮上人当時は、大乗仏教の経典はすべて釈迦が説いた教えであるとされていたが、今ではそれは覆され、すべての大乗仏教の経典は、紀元直後に起こった大乗仏教という、仏教の宗教改革の中で創作されていったものであることが明らかである。したがって、上に記されている釈迦の弟子の時期には、もちろん大乗経典の教えなどない。しかし日蓮上人はそのことを、すでに釈迦が説いたすべての教えの中で、弟子たちが広めていなかった教えがあった、と解釈している。では、広められなかった教えが、どうして約500年間も存在し続けられたのであろうか。その方が不思議の極みである。同じように、馬鳴や竜樹や提婆や天親たちは、大乗仏教の初期のインドでの論師たちであり、ようやく大乗仏教思想が深められ始めた時代であった。そのため、大乗仏教経典もほぼすべて翻訳され、その思想も総括的に知ることができるようになった中国の天台大師のころから見ると、彼ら論師たちが説き残した釈迦の教えを、天台大師たちが広めたように見えるのであり、そのように見えるのも当然である。さらにここで日蓮上人は、それでもまだ説き尽くされていない釈迦の教えが、『法華経』にあるのだと宣言し、結局、それを説くのが日蓮上人自身だということを言おうとするのである。さらにその当時は、すでに末法は始まっており、それも釈迦の死後の二千五百年に近づきつつあると考えられていたので、時期も自分の時代に当てはまっていると信じていたのである。そのため、ここまでの記述の中でも、『法華経』は釈迦の死後二千五百年たってから、本格的にこの世に広まるべき経典なのだ、と力説しているのである。日蓮上人こそ、今まで明らかにされてこなかった『法華経』の教えを説き広める『法華経』の行者であり、そして「時」もその「時」であり、そのことを証明しようとして、ここまでもそしてこれからも、多くの経典や論書を引用しながら記述を進めているのである)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その8

質問して言う:(注:この質問の内容は非常に長いので、どこまで質問なのか、見誤らないように注意が必要)。正法一千年間の論師たちは、内心では『法華経』で明らかにされている真理が、顕教密教の諸経典に超過していることを知っていながら、外には説かず、ただ、『法華経』以前の仮(権)の大乗仏教の教えばかりを伝えていた、ということ、そうだとは思えないけれども、少しわかった気がする。

像法一千年間の中間ごろに、天台智者大師が現われて、題目の妙法蓮華経の五文字の一字一字に含まれた深い真理を『法華玄義(ほっけげんぎ・天台大師の『法華経』の講義を弟子が筆記した天台教学の代表的文献)』十巻一千枚に書き尽くし、『法華文句(ほっけもんぐ・これも同じく天台大師の『法華経』の講義を弟子が筆記した文献)』十巻には、『法華経』の最初の一文字から始まって最後の一文字まで、その一字一句を四つの方向(四種釈という)から解釈を加えて、一千枚を尽くして説かれた。以上の『法華玄義』と『法華文句』の二十巻には、すべての経典の心を江河とし、『法華経』を大海にたとえて、あらゆる世界の仏の教えの一滴も漏らさず、妙法蓮華経の大海に流れ込ませているのである。その上、インドの論書のあらゆる解釈や、中国の南北の多くの学者たちの解釈を、少しも漏らさず、破るべきは破り、取るべきは取って用いている。さらに、『摩訶止観(まかしかん・これも『法華玄義』などと同じく天台大師の講説である)』十巻を著わして、釈迦が説いた観心(かんじん・心を観察すること。いわゆる瞑想)の教えを一念に総括させ、すべての世界やそこに存在する者のあり方すべてを、三千のあり方にまとめたのである。この書は、遠くは月支国の一千年の間の論師も超え、近くは中国の五百年の学者たちの解釈よりも優れている。

したがって、三論宗の吉蔵大師は、南北の百人あまりの指導者や長者たちに、天台大師の経典の講義を聞けと勧めた書状の中で、「千年、五百年の単位で聖人が出るというが、まさにその聖人が今日おられる。南岳の叡聖(天台大師の師である慧思のこと)と天台の明哲(天台大師のこと)は、昔は『法華経』に生き、今は二人の偉人として現われている。単に尊い教えをこの地にもたらすばかりではなく、その教えはインドにまで響いている。生まれながらにして真理を悟り、魏や晉の時代以来、典籍の解釈においては比類がない。このため、禅宗の百人あまりの僧と共に天台智者大師の教えをいただいている」と記している。

また、修南山(しゅうなんざん)の道宣律師(どうせんりっし・中国唐の律宗の僧侶)は天台大師を讃歎して「『法華経』の真理を照らしていることは、正午の太陽が深い谷の中まで照らすようであり、大乗仏教の教理を説くことは、風が虚空に自由に吹くようなものである。たとえ、学問ばかりしている学者が千人万人いて、彼の妙なる弁論を極めようとしても尽くすことができないであろう。その真理を述べれば、ひとつの極みに至る」と言っている。

華厳宗の法蔵大師は、天台を讃嘆して「慧思禅師や智者大師は、不思議な霊の真理にまで感通して、菩薩の位を登られている。『法華経』の説かれた霊鷲山のその場で教えを聞かれた記憶が現在でもあるのだ」と言っている。真言宗の不空三蔵と、その弟子の含光法師の師弟共に真言宗を捨てて天台大師に帰依する物語として、『高僧伝(こうそうでん・中国の高僧たちの伝記集)』に「不空三蔵と共にインドに留学している時、ある僧侶が次のように言った。『唐に天台の教えがあり、誤ったことを正し、曲がったことと完全なことを明らかにすることにおいて最も優れている。これらを翻訳して、このインドに伝えるべきではないか』」とある。この物語は含光が妙楽大師に語ったことである。妙楽大師はこの物語を聞いて、「これは、インドの地における教えが失われて、それを他の地域に求めていることではないか。その中国においても、それを知っている者は少ない。自分の国に天台というすぐれた教えがあるにもかかわらず、それを知らない中国の地方の国の人のようなものだ」と言った。

もしそのインドに天台大師の三十巻のような大いなる論書があるならば、このように、南インドの僧侶がどうして中国に天台の教えを求めるだろうか。これはまさに、像法の中に『法華経』の真理が明らかにされて、この世に流布している証拠ではないか。

答える:正法一千年と像法の前半の四百年、つまり釈迦が死んでから一千四百年あまり、天台大師は確かにそれまでの論師が到達できなかった偉大で完全な禅定と完全な智慧を中国に広め、そればかりではなく、今引用された文のように、そのうわさはインドまで聞こえていたのである。この事実は『法華経』が広まっていたことのように思えるが、その時点では、まだ円頓(えんどん)の戒壇は建てられておらず、小乗仏教の儀式をもって、大乗の完全な智慧と禅定を規定するということは無理がある。たとえば、日食のようなものであり、月が欠けているようなものである。何よりも天台大師の時は、『大集経』でいうところの、経典はよく読まれ研究が盛んであるという時期であって、まだ『法華経』の広まる時期ではないのである。

(注:「円頓の戒壇」とは、前にも出てきたが、日本の伝教大師最澄が生涯をかけて設立を朝廷に求め、最澄の死後ようやく設立が許された比叡山戒壇のことである。日蓮上人もこの戒壇で受戒して僧侶となったのであり、実はこの私もそうであった。しかし、比叡山戒壇を設立することは、今までの奈良仏教の一大勢力からの独立を意図するものであり、朝廷に訴えるその教義的理由としては、「今まで大乗仏教戒壇はなかった、奈良の戒壇は小乗である」ということであるが、実際はかなり政治的な意図が強い。そしてこれは何よりも、最澄を見出し、中国まで送り届け、帰国後もその命が尽きるまで最澄を支えた桓武天皇の意図なのであり、最澄桓武天皇のためにも、そして日本の仏教の将来のためにも、大乗戒壇設立に文字通り命を懸けたのであった。日蓮上人は、『法華経』が広まることと、この戒壇設立をかなり教義的にも結び付けているが、それはあまりにも無理のある論理の飛躍である。

そしてここで戒壇のことがあがったので、これ以下は、その戒律についての内容となり、まず今まで以上に、非常に長い質問者の言葉が続くことになる)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その7

質問して言う:たとえ正法の時は、仏が世におられた時に比べれば、人々の能力は劣っていると言っても、像法や末法の時に比べれば、最上の能力を人々は持っているということになるではないか。ではなぜ、正法の始めから『法華経』が用いられなかったのか。馬鳴(めみょう)や竜樹(りゅうじゅ)や提婆(だいば)や無著(むじゃく・これらの人物は、大乗仏教初期の仏教思想家)たちも、正法の一千年間の内に世に現われたではないか。天親菩薩(てんじんぼさつ・この人物も同じく仏教思想家。この場合の菩薩は人間に対する最上の敬称。世親(せしん)という呼称が一般的である)は千部の論書の師であると言われ、『法華論』を著わして、この経典が他のあらゆる経典の中で第一であると述べた。真諦三蔵(しんだいさんぞう。三蔵は敬称。インドの僧侶で、中国に渡って多くの論書や経典を翻訳する)が伝えたところによると、月支国(げっしこく・インド北西部の国)には『法華経』を広めた人々は五十人あまりであり、天親はその中の第一の人物であるという。以上は正法の時代のことである。

続いて像法に入っては、天台大師が像法の中間に中国に現われて、『法華玄義(ほっけげんぎ)』と『法華文句(ほっけもんぐ)』と『摩訶止観(まかしかん)』の合わせて三十巻を著わして(厳密には弟子の筆記)、『法華経』の奥義を極めた。さらに像法の末に、伝教大師が日本に現われて、天台大師の完全な智慧と完全な禅定(いわゆる教えと修行)を私たちの国に広められたばかりではなく、『法華経』の精神に基づく大乗戒を授ける戒壇比叡山に建立し(厳密には最澄の死後)、日本中同じく大乗戒の地として、上は王より下は万民まで延暦寺を師範と仰ぐまでになった。まさに、像法の時こそ、『法華経』の広められる時ではなかったのか。

(注:確かに、大乗戒壇比叡山に設けられることによって、その後の仏教の流れが、比叡山中心となっていく。しかしそれがすべてではなく、当初から、高野山真言宗の勢力は比叡山に肩を並べるほどであった)。

答える:如来の教えは、必ず相手の能力に応じて説かれたということは、世間の学者たちが常識的に思っている。しかし実際、釈迦の説法の順番はそうではなかった。能力が豊かで智慧がある者のために、必ず優れた教えを説くというのなら、釈迦が悟りを開いた時に、なぜ『法華経』を説かなかったのであろうか。正法の最初の五百年に大乗仏教の経典を広めるべきではないか。また、仏に縁のある人に優れた教えを説くというのなら、釈迦の父親である浄飯大王(じょうぼんだいおう)や摩耶夫人(まやふじん)に『観仏三昧経』や『摩耶経』という、究極的な経典ではない経を説くべきではない。また、仏に縁のない悪人や教えをそしる者に、秘められた教えを説かない、というのなら、覚徳比丘は多くの破戒の者たちに向かって、『涅槃経』を広めるべきではなかったはずである。さらに、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)は教えを罵る人々に向かって、どうして『法華経』を広めたのか。

このように、相手の能力に従って教えを説くということは、大きな誤りである。

(注:正確に言うならば、覚徳比丘は『涅槃経』に、常不軽菩薩は『法華経』に記されている物語の人物である)。

問う:竜樹や世親などは、『法華経』の真実の教えは説かなかったのか。

答える:説いていない。

問う:ではどのような教えを説いたのか。

答える:『華厳経』や「方等経(ほうとうきょう・大乗仏教の経典の総称)」や『般若経』や『大日経』などの『法華経』以前の大乗経典、いわゆる顕教密教の多くの経典を説き、『法華経』の教えは説かなかった。

問う:どうしてこのようなことがわかるのか

答える:竜樹菩薩の著わした論書のすべては三十万偈にも及ぶというけれど、それらがすべて中国や日本にもたらされていないので、竜樹の考えが正確に知ることはできないと言っても、中国に伝わった『十住毘婆娑論(じゅうじゅうびばしゃろん)』や『中論(ちゅうろん)』や『大智度論(だいちどろん・これらは竜樹が著した代表的な論書)』を通して、インドに残っている竜樹の論書の内容を推測できるのである。

質問して言う:インドに残っている彼の論書の中には、中国にもたらされた論書よりも優れた論書があるかも知れないではないか。

答える:竜樹菩薩については、私は自分の判断で述べるべきではない。釈迦は、「私が死んだ後、竜樹菩薩という人物が南インドに出るであろう。彼の主張は『中論』という論にある」と述べている(もちろん、このようなことは事実ではなく、日蓮上人がどうしてこのようなことを述べるのか不明である)。したがって、竜樹菩薩の流派はインドに七十人いて、そのすべてが優れた論師である。その七十の人々は、みな『中論』を基としている。そして、『中論』の四巻、合計二十七品(ほん=章)の要点は、「因縁所生法(いんねんしょしょうほう・すべての存在は原因と条件と結果の法則によって成り立っているという教え)の四句の偈(=詩)である。この四句の偈は『華厳経』や『般若経』などが説かれた時の三諦(さんたい・真理を空・仮・中の三つの言葉によって表現する教え。『法華経』以前の教えにおいては、それぞれ三つが別々のものとして認識されているとする)であって、まだ『法華経』が説かれることによって表わされた真実の三諦(円融三諦という。三つがひとつであるといこと)が述べられているのではない。

質問して言う:あなたのように解釈した人はいるのか。

答える:天台大師は、「中論をもって比較することはするな」、「天親や竜樹は内には見抜いていたが、それを説くのは時に従った」などと言っている。また妙楽大師は、「仮の教えを破って真理を明らかにするという観点からすれば、まだ『法華経』には及ばない」などと言っている。従義(じゅうぎ・中国の天台宗の僧侶。神智法師と言われる)は、「竜樹や天親は天台大師には及ばない」などと言っている。

問う:唐の末に不空三蔵が一巻の論書を訳した。その名を『菩提心論(ぼだいしんろん)』という。竜猛菩薩(りゅうみょうぼさつ・真言宗では、大乗思想の大成者である竜樹と同一視するが、別人であるという説もある)の著作である。真言宗弘法大師は、「この論書は竜猛が記した千部の中の第一であり中心的な論書である」と言っている。

答える:この論書はそれほど長い書物ではないが、竜猛の言葉とは思えない箇所が多い。そのため、目録にも竜猛の著作なのか、不空が書いたものなのか、両方共に定まらないとある。その上、この論書は、釈迦の教えに立って記されているわけでもなく、内容も統一されていない。したがって、「ただ真言の教えの中では重要な論書である」ということは誤りである。なぜなら、『法華経』においては、文章としても、また実際にそのような事例をあげて、即身成仏(そくしんじょうぶつ・その体そのままで仏になるという意味)を説いていることを無視して、文章でも事例においても見られない真言宗の経典に即身成仏が述べられているので、「ただ真言の教えの中では重要な論書である」という言葉の中の「ただ」は何よりの誤りである。

このようなことを考えると、不空三蔵が自分で記した書物を、当時の人々に広まるように、竜猛が書いたかのようにしたのではないだろうか。その上、不空三蔵は誤記が多い。たとえば、彼が訳した『観智軌(かんちき・本来の名称は長いので省略する)』には、『法華経』の「寿量品」の仏を阿弥陀仏としている明らかな誤りがあり、同じく「陀羅尼品(だらにほん)」を「神力品(じんりきほん)」の次に来る章として書いており、また同じく「属累品(ぞくるいほん)」を経典の末に記すなど話にならない。そうかと思えば、天台大師の大乗戒を盗んで代宗皇帝からの宣旨として、五台山に五寺を建てている。しかもまた、真言の教相には天台宗の教相を用いるべきだとしたり、人々を迷わすことばかりしている。他人の訳ならば用いることができるが、この人の訳した経論は信じられない。西域の月支国から中国に経論を伝えた人は、古い訳や新しい訳を合わせて、百八十六人である。鳩摩羅什を除いては、どの人も誤りがないことはない。特にその中でも不空三蔵は誤りが多いうえに、人々を迷わせる心が顕著である。

質問して言う:どうしてそのようなことがわかるのか。鳩摩羅什以外の人々は誤りが多いと言うことは、禅宗や念仏や真言宗などの七宗を破るのみならず、中国や日本に伝わった、すべてのわたる訳者が訳した経論を用いないとでも言うのか。

答える:このことは、私にとって秘めた事実であって、詳しくは、あなたと直接会って話したい。しかし、ここで少し申し上げよう。

鳩摩羅什は次のように言った。「中国にすでに伝えられた経典を見ると、すべて原本通りに訳されていないことを知った。その中で、自分の訳だけは正しいことを、どのように現わそうか。自分には大きなひとつの誓願がある。自分はすでに妻をめとって不浄の身ではあるが、舌だけは清らかであり、仏の教えにおいては嘘偽りは言ってはいない。自分が死んだとき、必ず火葬にしてほしい。そしてもし舌まで焼けてしまったならば、自分が訳したすべての経論を捨ててほしい」と常に講壇から言っていた。そこで、上の王から下は万民に至るまで、願わくは鳩摩羅什より後に死にたいものだと言った。ついに鳩摩羅什は死んで火葬にされたが、その不浄だという身体は焼けて灰となったが、舌だけは火の中に生じた青蓮華(しょうれんげ)の上にあって、五色の光明を放って、夜は昼のように、昼は太陽の周りの輪のように光り輝いていた。このようにして、他のすべての人の訳したものは軽くなり、鳩摩羅什三蔵の訳した経論、特に『法華経』は中国に広く流布したのである。

(注:鳩摩羅什が火葬されて舌だけが焼け残ったという話は有名であるが、もちろん、このような話は偉人の伝記によくある作り話である。しかしこのような話を、鳩摩羅什の訳は正しいということの証明に引用するとは、今の感覚ではあり得ない。そしてそもそも、鳩摩羅什の訳には、誤り以上に、原本にはない思想や言葉を付け加えるということが多い。日蓮上人当時は、容易に原本を見ることはできなかった。特に中国は、中国のものが世界の中心であるという中華思想の影響があり、サンスクリット語などの原本から漢訳されると、原本は焼き捨ててしまうということが当たり前のように行なわれていた。そのため現在でも、漢訳はあるが原本がない経論は多い。その中で、『法華経』などのサンスクリット原本は存在し、現在では誰でも容易に手にすることができるようになっている。それらを通して、鳩摩羅什がいかに原本に付け加えることを多く行なっていたかが、読む人ならだれでもわかるほどである。日蓮上人当時はそうではなかった、ということも、「時」のなせるわざである)。

質問して言う:鳩摩羅什以前はそうであっただろうが、それ以後の善無畏や不空などはどうであるか。

答える:鳩摩羅什以降だと言っても、訳者の舌が焼けてしまったということを見て、訳が正しかったか誤っていたかを知ることはある。このため、日本に法相宗が広まっていたころ、伝教大師はこれを責めて、「鳩摩羅什三蔵は舌は焼けず、玄奘やその弟子の慈恩大師の舌は焼けた」と言って、桓武天皇はそれを受け入れ天台法華宗へ移られたのである。

『涅槃経』を見るならば、釈迦の教えは、月支国(この場合はインドを意味する)から他国へ伝わる時、多くの誤謬が生じて、人々が悟りを開きにくくなるであろうと記されている。このため妙楽大師は、「仏の教えを判断することにおける責任は、それを受け入れる人にあるのであり、経典に書いてある言葉に責任があるのではない」とおっしゃっている。今の人々が、いかに経典に書いてあるから、と言って、経典の言葉のままに死後の世界を願ったとしても、誤った経典によっては悟りの道へと至ることはない。しかし、そうだからと言って、仏にその責任があるのではない。仏の教えを学ぶ道には、大乗と小乗があり、大乗にも、仮(権)と真実(実)があり、顕教密教があるが、これらはさておいても、このことが最も大切なことである。

(注:最澄はあくまでも、自分の開いた比叡山に籠って、勉学と修行の日々を送ろうとしていたのである。しかし、新しい仏教をもたらしたいという桓武天皇が、そのような最澄を見出したのであり、最澄の方から桓武天皇を説得したのではない。上の話も、全くの偽りの話である。そして、あくまでも舌が焼ける焼けないで、その人の訳の正しさが証明される、ということは、本当に現在では話にならないことである。また、経典に書いてあっても、それがすべて正しいとは限らない、ということは、すべての経典に平等に言えることであって、上に書いたように、『法華経』を訳した鳩摩羅什の翻訳の方法にも問題がある)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その6

今は、末法に入って二百年あまりが過ぎた。

(注:先にも述べたように、日蓮上人当時の日本では、釈迦が死んだのは、西暦紀元前949年とされていた。したがって、最終的な時代である末法(まっぽう)は、釈迦の死後二千年後に始まるのであるから、平安時代の中期にあたる1052年(永承7年)に始まった、という説が有力であった。日蓮上人は、1222年から1282年の人物であるから、この『撰時抄』が記された時は、220年あまりが過ぎていることとなる。

しかし、実際の釈迦の生没年については、前463~前383、あるいは前566~前486という説があるが、いずれにせよ、もし末法が釈迦の死後二千年から始まるとするならば、まさに現在である)。

『大集経』の「国乱れて正しい教えが隠れてしまう時」に当たる。仏の言葉が真実ならば、必ずこの世が乱れる時である。伝え聞くところによると、中国では、三百六十の国そして六十あまりの州は、蒙古国に打ち破られたという。都はすでに破られて、徽宗(きそう)と欽宗(きんそう)の両帝は、金に連行され、モンゴルで亡くなられたという。徽宗の孫の高宗皇帝は長安を攻め落とされて、田舎の杭州地方に逃れて、数年間、都を見ることができなかったという。高麗や新羅百済などの諸国もみな大蒙古国の皇帝に攻められて、今の日本国の壱岐対馬ならびに九州のようである。国乱れるという仏の言葉は地に落ちず、まるで海の潮の満ち引きが時を違えることがないようなものである。このことをもって考えると、『大集経』がいう、正しい教えが隠れてしまう時に次いで、『法華経』の大いなる正しい教えが日本ならびに世界中に広まることも疑いない。

『大集経』は、釈迦の教えの中では、『法華経』以前の教えであって、真実に生死の繰り返しを離れることにおいては、『法華経』の教えを聞いていない限り力のない経典ではあるが、この世の事柄である迷いの世界のこと、生きとし生けるもののこと、過去現在未来のことについては、少しの誤りもない経典である。

ましてや、『法華経』は釈迦が「まさに真実を説こう」とおっしゃり、多宝仏は「この教えは真実である」と証明され、あらゆる国から来た諸仏は、梵天にまで至る広く長い舌をもって、その教えの正しいことを証しされた。そして釈迦は再び、偽りのないその舌をこの世の最も高い天にまで至らせ、後の五百年にすべての仏の教えが滅んだ時、上行菩薩妙法蓮華経の五字をゆだねて、教えを非難する愚かな者たちへの良い薬としようと、梵天帝釈天や日天子や月天子、そして四天王や竜神たちに語られたその尊い言葉が空しくなるはずがない。大地は覆され、高山はなくなり、春の後に夏が来ず、太陽が東へ沈み、月は地に落ちたとしても、このことは絶対にないのである。

このことが事実であるならば、国が乱れる時において、日本の国の王や大臣ならびに 万民のための仏の使者として、「南無妙法蓮華経」を広めようとする人に対して、罵り、悪口を言い、流罪にして、打ちたたき、その弟子たちをあらゆる困難な目に合わせる人たちが、どうして安穏でいられるであろうか。このようなことを言うと、愚かな者たちは、呪っていると思うであろうが、『法華経』を広める者は、日本のすべての人々に対する父や母のようなものである。章安大師(しょうあんだいし・天台大師の弟子であり、天台大師の講義の多くを記述として残した)は、「彼らのために悪を除く者は、すなわち彼らの親である」と言っている。そうであるなら、日蓮は日本の王の父母であり、念仏する者や禅宗の者や真言の僧侶たちにとっての師範である。また主君である。しかしその日蓮を、上の人から下の万民に至るまで困難にあわせるとは、太陽や月が彼らをどうして照らし続けていようか。地の神がどうして彼らの足を支えていようか。提婆達多(だいばだった)は仏を打って傷つけたので、大地が揺動して火炎が噴出し、檀弥羅王(だんみらおう)は師子尊者(ししそんじゃ)の首を切ったので、右の手が刀と共に落ちたという。徽宗皇帝は法道(ほうどう)の顔に焼き印を押して江南に流したので、半年もたたないうちに敵の手にかかってしまった。

今、日本に蒙古が攻めて来るのもこれと同じである。たとい多くの天の武士を集めて、鉄囲山(てっちせん・この世の最も外側にあるという山)を城としてもかなわないであろう。必ず日本のすべての人々は、その兵によって苦しめられるであろう。そのことを通して、日蓮法華経の行者であるかないかがはっきりするであろう。

釈迦は、「末の世の悪しき世界に『法華経』を広める者に対して、悪口を言い罵倒する者は、仏である私を一劫という長い間呪った者よりも百千万億倍その罪は重いのだ」とおっしゃった。それにもかかわらず、今の日本の国主や万民たちは、自分の思いのままに、父母や長年の敵よりも大いに日蓮を憎み、謀反人や殺人者よりも強く日蓮を責めるとは、今すぐにでも大地が割れて陥り、天の雷がその身を割いても不思議はない。

日蓮法華経の行者ではないのか。もしそうならば、大きな嘆きである。この一生においては万人に責められて片時も安らかにいられず、次の生には悪しき世界に落ちると嘆くばかりである。日蓮が『法華経』の行者でないならば、誰が『法華経』の教えである一乗(すべての人が仏になるという教え)を保つ者であろうか。

法然が「『法華経』を投げ捨てて念仏だけを用いよ」と言い、善導が「念仏以外の道では、千人の中でも一人も仏になれない」と言い、道綽が「念仏以外の道では、未だに一人も悟った者はない」などと言っているが、そのようなことを言う者が『法華経』の行者なのだろうか。また弘法大師は「『法華経』を行ずるなどとはたわ言だ」と言っているが、このような者が『法華経』の行者なのだろうか。『法華経』の文には「この経典をよく保つ」、「この経典をよく説く」と記されているが、「よく説く」とはどのようなことか。それは、この『法華経』があらゆる経典の中で最も上であると言って、『大日経』や『華厳経』や『涅槃経』や『般若経』などよりも、『法華経』は優れているとする者こそ、『法華経』には『法華経』の行者だと説かれているのである。もしその経文の通りならば、日本に仏の教えが伝えられて七百年あまり、伝教大師日蓮以外は、一人も『法華経』の行者はいないことになる。

いろいろ考えてみるならば、『法華経』を罵る者は、頭が七つに割けるとか、口がふさがってしまうとか記されているが、まだそのようなことは起こっていないのも道理である。なぜなら、そのようなことは浅い罰なのであり、あったとしてもただ一人二人のことである。日蓮はこの世において、第一の『法華経』の行者である。それをそしったり恨んだりすることをしきりにする者は、この世で最も大きな災難にあうであろう。これこそ、日本を揺り動かした正嘉の大地震(しょうかのだいじしん・1257年に鎌倉を襲った大地震。ちなみに、日蓮上人が死んで10年後にも鎌倉に大地震があり、その混乱の中、日蓮上人を迫害した中心人物の平頼綱はその子と共に殺害された)であり、また天を罰するかのような文永の大彗星(1265年に現われた大彗星)などである。これらを見るがよい。仏が死んだのちの世において、仏の教えを行なう者が恨まれることはあっても、今のような大いなる災難は一度もなかった。「南無妙法蓮華経」と、すべての人々に勧めた人も一人もいなかった。この徳に対して、この天下に眼を合せ、世界に肩を並べる者がいるだろうか。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その5

像法に入って四百年あまり過ぎたころ、朝鮮半島百済国より、すべての経典と釈迦の仏像と僧侶などが渡って来た。それは中国では梁の末から陳の始めに当たる。日本においては、初代天皇である神武天皇より第三十代の欽明(きんめい)天皇の時代である。欽明天皇の御子である用明天皇の太子に聖徳太子がおられ、仏教を広められた。そればかりではなく、『法華経』と『維摩経』と『勝鬘経』を鎮護国家の教えと定められた。その後、第三十七代孝徳天皇の時代に、三論宗成実宗(じょうじつしゅう・三論宗の付属的な性質があり、三論宗と共に、ある一定の経典ではなく、大乗仏教思想の論書を研究する宗派である)を観勒(かんろく・百済の僧侶。日本において初めての僧正に任命される)が百済より伝えた。同じ時代に、道昭(どうしょう・遣唐使として唐に渡り、玄奘に師事した日本の僧侶)は、中国から法相宗倶舎宗(くしゃしゅう・法相宗の付属的な性質をもつ。やはり、大乗仏教思想の論書を研究する宗派)を伝えた。第四十四代元正天皇の時代には、インドより『大日経』を持って日本に渡って来たが、日本には広まらなかったので、中国に帰った僧侶がいた。それは善無畏であった(これは伝説であり史実ではない)。第四十五代聖武天皇の時代に、審祥(しんじょう・日本人か新羅人かは不明。唐に渡って華厳宗の法蔵に師事して華厳宗を伝える)新羅国より華厳宗を伝え(新羅にも渡っている可能性があるため、日蓮はこのように表現している)、日本において、良弁(りょうべん・審祥と共に東大寺を建て、大仏建立に活躍する)と聖武天皇に伝えて、東大寺の大仏を建てた。同じ時代に、唐の鑑真(がんじん)が渡来して、天台宗律宗を伝えた。律宗については、それを広め、小乗の戒律を授ける戒壇東大寺に建立させたが、天台宗の教えについては何も伝えず亡くなった。

 

(注:鑑真は有名であり、唐招提寺を建てて、戒律を重んじる律宗を伝えたということは、歴史の教科書にも載っている。それに加えてもうひとつの功績が、多くの天台教学についての書物を日本にもたらしたということがあげられる。それはあくまでも書籍をもたらした、ということにとどまり、日蓮上人が言うように、天台教学について人々に説くことはなかったようである。しかし、鑑真の弟子の道忠(どうちゅう)は、後に伝教大師最澄と親しく交わりを持ち、道忠が関東地方に布教したことがきっかけで、後に関東地方出身の慈覚大師円仁などが最澄の弟子となり、最澄自身も北関東に来るなどのきっかけを作ることとなった。また、最初奈良の平城京で仏教を学んでいた最澄が、天台教学に興味を持ったのも、鑑真が天台教学の書物を伝えていたからであった。

なお、日蓮上人は、「小乗の戒律を授ける戒壇」という言い方をしているが、これも後に、最澄が、鑑真によって広められた戒律を小乗仏教の戒律として、大乗仏教には大乗戒が必要であると朝廷に訴えたことが背景にある。鑑真には、小乗仏教の戒律という認識はなかった。これ以降は、その最澄についての記述となる)

第五十代桓武天皇の時代は、像法八百年の時代である。その時代に、最澄という僧侶が現われた。後の伝教大師である。最初は、三論宗法相宗華厳宗倶舎宗成実宗律宗の六宗ならびに禅宗などを、行表僧正(ぎょうひょう・奈良時代の僧侶。僧正となる)に学ばれた後、国昌寺(こくしょうじ・後の近江国分寺)を経て、後に比叡山と名付けられる山に入られた。そして、今まで学ばれた六宗の経典や論書と、それらの宗派の僧侶たちの解釈を引き合せて研究して見ると、諸宗派の僧侶の解釈が、それらの宗派が基づいているとしている経典や論書と食い違っており、自分勝手な解釈が多いことに気づかれた。このような教えを受け入れてしまっては、みな悪しき世界に堕ちてしまうと考えられた。その上、『法華経』の真実の教えは、それらの宗派の人々も理解していると自ら述べているが、実際はそのようなことはなかった。

しかし、このようなことを言ってしまっては、論争になってしまうし、言わなければ、仏への誓いに背いてしまうと思い煩われて、ついに桓武皇帝に申し上げた。帝はこのことを驚かれて、奈良の六宗の僧侶たちを招き、論議をさせた。最初は彼らは山のような高慢な思いと毒蛇のような悪しき心で反発してきたが、最後は帝の前で最澄に攻め落とされ、奈良の六宗や七つの大寺は、一同に最澄の弟子となった。これは、中国において南北の多くの僧侶や学者たちが、陳の王の前で天台大師に攻め落とされ、それからは弟子となったこと同じである。

(注:このようなことは全くない。この論争と言っていることは、論争ではなく、「法華十講(ほっけじゅっこう)」と呼ばれるもので、最澄を見出して登用した桓武天皇が、奈良の学僧たちを講師として依頼し、比叡山で『法華経』の講義を行なわせたことを指す。もちろん、奈良の僧侶たちがみな最澄の弟子となったなどと言うことはあり得ない。日蓮上人の記述に、天台大師の時と同じだとあるが、天台大師の場合は、確かに、陳の国王の前で論議があり、天台大師がことごとく難問を破り、人々は驚いた、ということがあるが、最澄の場合は、それに似たような事実はない。この後、最澄は京都の高雄山寺で天台教学の中心的書物である『天台三大部』(中国の天台大師の講義を弟子が記述したもの)の講義(高雄講経)を行なったが、招かれていた奈良の僧侶たちも感銘を受けた、という記録はあるが、弟子になるまでにはなっていない。さらに、後の記述にあるように、最澄の晩年、戒壇のことについて奈良の仏教と衝突し、このころは論争に論争を繰り返すこととなるが、これとは別のことである。

これ以降も、最澄についての記述は続く。)

しかし、これは天台宗における修行実践と教学のことであるが、さらに最澄は天台大師も行なわなかった、戒律の問題にも取り組まれたのである。最澄は、それまで奈良の東大寺戒壇で行なわれた受戒(じゅかい・僧侶が出家する時、戒律を受けること。それによって正式に僧侶となることができるので、受戒が行なわれる戒壇は非常に重要であった。)は、いまだに小乗仏教のものであるとして、奈良の六宗の中心的な僧侶たちに『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗戒(だいじょうかい)を授けたばかりではなく、『法華経』の教えに基づく円頓戒(えんどんかい・完全な戒律という意味)を授ける戒壇比叡山に建立された。これによって、比叡山延暦寺戒壇は日本第一のみならず、釈迦の死後、千八百年あまりの間、この世のどこにもなかった『法華経』で説かれた大いなる戒律が、この日本に始まったのである。

(注:この段落の記述も正確ではない。事実は次の通りである。

東大寺戒壇が設けられ、その後、九州の太宰府観世音寺と、関東の下野薬師寺(しもつけやくしじ)にも戒壇が設けられ、それらは三大戒壇と呼ばれていた。当時は、出家する僧侶の人数は朝廷で決められており、朝廷が認めた者たちが、その戒壇で受戒して僧侶となっていた。しかし、唐から帰って、天台宗の教学と組織の独自の確立を目指していた最澄は、奈良仏教からの独立を求め、比叡山にも戒壇を設けるよう、朝廷に申し出た。

最澄の主張は、奈良仏教で授けられている戒律は、小乗仏教の戒律であり、『梵網経(ぼんもうきょう)』に基づく大乗戒(だいじょうかい)を授けなければならないというものであった。もしその時、桓武天皇が生きていたら、それもすぐに成就したであろうが、最澄の最大の外護者であった桓武天皇は、最澄が唐から帰ると間もなく死に、続く桓武天皇の子の平城天皇も、すぐに弟の嵯峨天皇に譲位し、嵯峨天皇は特に最澄には興味を示していなかった。それどころか、これは当然のことであるが、奈良の仏教勢力が、三大戒壇以外に戒壇を設けることには猛烈に反対した。

「奈良の六宗の中心的な僧侶たちに『梵網経』に基づく大乗戒を授けたばかりではなく」と日蓮は記しているが、最澄が奈良の僧侶たちに授けたのは、最澄が唐に渡って伝えた密教の儀式である灌頂(かんじょう・頭に水を注いで、密教の仏と関係性を結ぶ儀式)である。これも桓武天皇の命令によって行なわれたものだった。

したがって、これは日蓮上人の勘違いか、あるいは、日蓮上人が批判する密教最澄が伝えた、ということを書くことを避けるために、意識的にすり替えたかである。

さて結局、最澄が生きている間は、その願いは達成されなかったが、最澄の死後の初七日の日に、弟子たちの活躍もあって、ようやく比叡山戒壇設立の許可が朝廷から下された。これにより、比叡山は奈良仏教から独立し、それ以降、比叡山は日本仏教の中心となっていく)。

このように、伝教大師の業績を見れば、竜樹や天親以上であり、天台大師や妙楽大師より優れた聖人である。そうであるなら、日本の東寺や園城寺や奈良の七大寺や諸国の八あらゆる宗派、たとえば浄土宗や禅宗律宗などの僧侶たちの中で、誰が伝教大師の円頓戒に背くのだろうか。中国の諸国の僧侶たちは、完全な実践修行や完全な智慧においては、天台大師の弟子と言えるけれども、円頓戒の戒壇は中国にはなかったので、その点においては、天台大師の弟子とは言えない者もいたであろう。

(注:確かに、中国においては、天台大師の教えは大きな影響力を持ったが、それによって、すべての僧侶が天台大師の弟子となったと言う日蓮上人の言葉は行き過ぎである。しかし、天台大師は、戒律においての戒壇は設けていないので、中国には、戒律においては天台大師の弟子ではない者もいた、と言っているのである。もちろん、天台宗以外の僧侶たちは、学問においても戒律においても、天台大師の弟子だと思っていた者など一人もいないのである。天台大師の弟子になりたければ、天台宗の寺院に入るまでのことである)。

したがって、この日本においては、伝教大師の弟子ではない者は、みな外道であり悪人である。しかし、中国と日本の天台宗真言宗の優劣は、伝教大師の心の中には存在していたが、奈良の伝統的な六宗と天台宗と公の場所で論議して勝敗を決めたことはあっても、天台宗真言宗の優劣はつけなかったので、伝教大師以後は、東寺や奈良の七大寺や園城寺の諸寺を始め日本中、真言宗天台宗に勝っていると、上の人から下の人に至るまで思っている。したがって、天台法華宗天台宗をこのように呼ぶことも多い)が本当の意味で活動できたのは、伝教大師の時だけであったと言える。伝教大師の時は、像法の末期であり、『大集経』でいうところの、寺院などが多く建設される時であった。未だに、国乱れて正しい教えが隠れてしまう時ではなかった。

 

 つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その4

正法一千年の後は、月氏(げっし・インド西北部の国。クシャーナ朝などと呼ばれ、特にカニシカ王が仏教に帰依したことは有名。その結果、シルクロードを通ってもたらされたヘレニズム文化と仏教文化が合流し、ガンダーラ地方に仏教文化が栄え、仏像などが初めて作られた。ガンダーラ美術などと呼ばれる。西域仏教国のひとつ。)に仏の教えが充満したが、その時は、小乗をもって大乗が破られ、大乗仏教であっても、『法華経』以前の教えによって、真実の教えが隠され、仏の教えが乱れ、悟りに至る者が少なくなり、悪しき道に堕ちる者たちが数知れなかった。

(注:正法が終わって、像法の時代になると、悟りが得られなくなり、教えは伝えられるが、正しい教えは乱れる、とされる)。

正法一千年の後、像法に入って、仏の教えは西域から中国の漢に伝わった。像法の前半の五百年のうち、その最初の一百余年の間は中国の道教月氏国から伝わった仏の教えとの論争が激しく、たとえ仏の教えが伝わったとしても、それを受け入れた人の心はそれほど深くなかった。このような時に、仏教は大乗仏教小乗仏教とに分かれ、大乗仏教も、仮の教えと真実の教えとに分かれ、また顕教(けんぎょう・密教以外の教え)と密教(みっきょう・真理は人間の理論では理解できない隠された秘密のものなので、秘密の儀式や呪術的な修行などを通して悟りを得ようとする教え)とに分かれるのだ、などと教えてしまえば、教えがひとつになっていないなどとはおかしい、という疑いを起こして、結局は他の宗教に行ってしまうという危険性があったので、迦葉摩騰(かしょうまとう)や竺法蘭(じくほうらん・この二人は、初めて中国に仏教をもたらした僧侶と言われる)たちは、自らは知っていても、大乗や小乗や、仮の教えや真実の教えの区別は言わなかった。

(注:実際は、インドから西域を経て中国に入った仏教は、一度に伝えられたわけではなく、それぞれのインドや西域の僧侶たちが、経典や仏像などをその都度伝えて、伝えられた経典から、次々と漢訳されていったのである。そもそも、中国に仏教が伝えられた紀元後1世紀~2世紀は、まだインドでも密教すら成立していない。そのため、顕教密教の区別などはあり得ない。中国においては、その後、かなりの経典が漢訳されてから仏教の研究が深まり、その結果、仏教は大乗仏教小乗仏教に分かれる、などの分析が明らかにされていったのである。日蓮上人当時は、経典はすべて釈迦の説いたものだとされていたため、中国に仏教が伝えられた当初から、大乗、小乗、顕教密教などがしっかりと区別されて存在していた、ということになってしまうのである。

これ以降も、結局、『法華経』は末法の時代でこそ流布する経典なのだ、ということを述べるために、日蓮上人はかなり長い紙面を使って、漢の時代に中国に入って来た仏教の歴史を、日本に至るまで詳しく述べることとなる。)

その後、魏・晋・斉・宋・梁の五代の間、仏教の内部で、大乗と小乗、大乗の中の仮の教えと真実の教え、顕教密教などが互いに争って、それぞれ決定的な道理も立てられず、一般の人々も不審がるほどだった。「南三北七」といって、教判においても、南の地域には三つ、北の地域には七つの異論があって、それぞれ激しく論議をしていた。しかし、それらのだいたいの内容は同じようなものであった。いわゆる、釈迦一代の教えの中で、第一は『華厳経』であり、第二は『涅槃経』であり、第三は『法華経』だとするのである。『法華経』は、それ以前に説かれた『阿含経』や『般若経』や『維摩経(ゆいまきょう)』や『思益経(しやくきょう)』などと比べたら優れているが、『涅槃経』に比べれば劣っているなどと判断された。

仏教が入って来た漢の時代より四百年から五百年過ぎて、陳と隋の二代に及んで、智顗という一人の僧がいた。後に天台智者大師といわれる人物である。これらの南北の誤った教えを破り、釈迦一代の教えの中では、『法華経』が第一であり、『涅槃経』が第二であり、『華厳経』が第三だとする教判を立てた。この出来事は、像法の前半の五百年のことであり、『大集経』でいうところの、経典は読誦され、教えもよく教えられる時に当たる。

像法の後半の五百年は、唐の始めの太宗皇帝の時代に、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が月支国に入って十九年間学び、百三十あまりの国々の寺院を回り、多くの師に会って、すべての経典の奥義を習い尽くした。その中に法相宗(ほっそうしゅう)と三論宗(さんろんしゅう)の二つの教えがあった。大乗仏教である法相宗は、その初めは弥勒(みろく・弥勒菩薩弥勒ではなく、インドの僧侶であり、法相宗の開祖とされるが伝説的な要素が多い人物)と無著(むじゃく・4世紀ごろのインドの僧侶で、弥勒の弟子。唯識学の大成者)からであり、玄奘は戒賢(かいけん・インドの唯識学の学者)からそれを学び、中国に帰って太宗皇帝に伝えたのである。法相宗では次のように教えている。「仏は、教えを聞く相手の能力に応じて教えられたということが重要である。すべての人々はやがて究極的な悟りを開いて仏になることができる、ということが理解できる者にとっては、悟りにはいろいろな段階があって、その段階までしか到達できない者がいるという教えは、方便(ほうべん・巧みな手段)の教えであり、すべての人々が究極的な悟りを開いて仏になれるという教えが真実となるのである。すなわちこれが『法華経』である。また逆に、悟りにはいろいろな段階があるということしか理解できない者には、それを真実として教え、すべての人々は仏になれる、という教えは方便となるのである。すなわちこれが『深密経(じんみつきょう)』や『勝鬘経(しょうまんきょう)』である。天台智者大師はこのことを教えてはいない」などと主張している。太宗は賢い王であり、天下に名前が知られているばかりではなく、中国のそれまでの大いなる皇帝も超越したといううわさは国境を越え、高昌国(こうしょうこく・西域の国の一つ)や高麗(こうらい)などの千八百あまりの国々まで聞こえ、内政や外交までも究めた王であると言われた王である。そして玄奘はその王が最も信頼して帰依していた僧侶である。このように法相宗で主張されても、天台宗の僧侶は何も言えなかった。このようにして、『法華経』の教えは中国において衰退していった。

そして、同じ太宗の太子である高宗と、その高宗の継母であり後に高宗の皇后となり実権を握った則天武后の時代に、法蔵(ほうぞう・644~712。華厳教学の大成者)という僧がいた。法相宗によって天台宗が退けられるのを見て、この時とばかり、以前に天台大師に第一の座を退けられた『華厳経』を取出して(注:もちろんこのような日蓮上人の言葉は正確ではない)、釈迦の教えの中では、『華厳経』が第一であり、『法華経』が第二であり、『涅槃経』が第三であるとした。

第四代の玄宗皇帝の時代である開元四年と同八年に、西インドから善無畏(ぜんむい)と金剛智(こんごうち)と不空(ふくう・この三人によって中国の密教が伝えられた)は、『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』や『蘇悉地経(そしつじきょう)』を持って中国に来て、密教を宗旨とする真言宗を立てた(注:正確には、真言宗という宗派は、日本に密教を伝えた空海が立てた宗派である)。この宗の教えに二つある。ひとつは、『華厳経』や『法華経』などを顕教(けんぎょう・真理を秘密(密)として、誰もが理解できる言葉として表さず、表わしても象徴的な方法を取る密教に対して、積極的に言葉で真理を明らか(顕)にする教え)として、もうひとつは、『大日経』などを密教とする。『法華経』は顕教の第一とし、この経典は『大日経』などの密教に比較して、究極的な教えの点では同じであるけれど、真理を象徴して手や道具を通して表わす印契(いんげい)と、釈迦が実際に使っていたとされる古代インド語を翻訳せずに用いる真言(しんごん)は記されておらず、密教において必要とされる三密(さんみつ・体と言葉と心によって真理を象徴的に表すこと)がそろわないので、劣った教えだとする。

以上のように、法相宗華厳宗真言宗の三宗は、同じように、天台宗の『法華経』の教えを貶めたが、天台大師ほどの智者は当時の天台宗の中にはおらず、天台大師のように公の場で論戦などもしなかったので、上は国王大臣から下はすべての人民に至るまで、仏教について迷い、人々が悟りを得ることはなかった。これらは、像法の後半の五百年の、さらに前半の二百年あまりのことであった。

(注:ここまでが西域から中国の仏教史についての論述であり、次の段落からは、いよいよ日本の仏教史についての記述となる。実際はこの後、日蓮上人が尊敬する妙楽大師湛然(たんねん・711~782)が唐の時代の中に現われて、天台教学を中興するわけであるが、もうそのころになると、日本でも奈良仏教が盛んになるため、話を日本に持っていく必要があったと考えられる)

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄

 

撰時抄 その3

問う:龍樹や天親(てんじん・世親とも言われる。4世紀から5世紀のインドの僧。唯識(ゆいしき)思想の大成者)などの学者の論書に、このことは述べられているのか。

答える:龍樹や天親たちは、心の内には思っていても、説くことはしなかった。

さらに追及して言う:なぜそれを説かなかったのか。

それには多くの理由がある。まずは、その時には、その教えを聞くことのできる能力のある者たちがいなかったのである。そして二つめの理由は、時がまだ至っていなかったのである。三つめには、彼らはまだ『法華経』の本当の意味を教えるために現われた者たちではなかったからである。

さらに求めて言う:このことは、もっとよく聞かせていただきたい。

答える:釈迦が死んだ日は、二月十五日なので、二月十六日から、正法の始まりである。迦葉尊者(かしょうそんじゃ・摩訶迦葉(まかかしょう)のこと。釈迦の十大弟子のひとりで、直接、釈迦から教団の後継者として指名されたと言われる)は、仏から後を引き継ぎ二十年、次に阿難尊者(あなんそんじゃ・釈迦のいとこであり、釈迦に常に付き従い、最も多く釈迦の説法を記憶していたと言う)が引き継ぎ二十年、次に商那和修(しょうなわしゅ)が二十年、次に優婆崛多(うばくった)が二十年、次に提多迦(だいたか)が二十年、以上の百年間はただ小乗仏教の経典の教えのみが広まり、大乗仏教の経典はその名前さえなかった。どうして『法華経』を広めることができようか。次は弥遮迦(みしゃか)、仏陀難提(ぶっだなんだい)、仏駄密多(ぶっだみった)、脇比丘(きょうびく)、富那奢(ふしゃな)などの四~五人の師が教えを継いだが、この五百年あまりの間は、大乗仏教経典の教えが少し形成されていたけれど、とりたてて広まらなかった。あくまでも、小乗仏教の教えが表に出ていた。以上、これが『大集経』に述べられている、悟りを正しく開くことのできる五百年間の時代(解脱堅固)である。

(注:繰り返し述べてきたように、大乗仏教は、紀元直後にインドで成立した仏教改革運動である。これが明らかとなったのは明治以降であり、日蓮上人の時代は、すべて歴史的釈迦が説いたものとされていた。史実ではないとしても、一人の釈迦が最初に小乗仏教を説いて、後に大乗仏教を説いたということは、理解でないこともない。しかし、では、なぜ、紀元前の仏教者が大乗仏教を説いておらず、紀元後になって大乗仏教の論書が登場しているのか、ということは、どういうことなのか。日蓮上人はこれについて、まだ時至っていなかったので、紀元前の時代は、小乗仏教の影に大乗仏教が隠れていて、まだ文章にされていなかった。紀元後になって、時となったので、大乗仏教の経論が著されたのだ、と説いている。それではむしろ、紀元後までの約五百年間、大乗仏教は、まるで生き物のように姿を隠していた、また、釈迦が説いた大乗仏教の教えを知っている人も、時ではないので、それを説かなかった、ということになり、それでは大乗仏教はどのように継承されていったのだろうか。むしろ、紀元後までの約五百年間、大乗仏教の教えがしっかりと伝えられ、紀元後になって、急に数えきれないほどの経典や論書が記された、というほうが奇跡としか言いようがない。もちろんそのようなことはない。

このように、日蓮上人の時代で正しいとされていたことが、現在では明らかに誤りだとわかっている。つまり日蓮上人の著作にも、誤りは多いことが現在では明らかとなっている。したがって、それらをすべてそのまま受け入れるわけにはいかない。しかし、日蓮上人の宗教的思想は、それら歴史的事実との錯誤によっては、何ら影響は受けない。なぜなら、宗教的思想と悟りは、時間と空間を超越しているからである。それを見抜いて、日蓮上人から学ぶ必要がある)。

正法の後半の六百年から一千年になるまでの五百年の間は、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ・菩薩とは、その人物を最大限に尊敬しての呼称。馬鳴は、1世紀から2世紀の仏教文学者。最初はバラモン教の僧侶であったが、後に回心して仏教の僧侶となり、優れた詩を残している。『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』という大乗仏教思想の書物を記したと言われているが、現在の仏教学ではそれは否定されている)、毘羅尊者(びらそんじゃ)、龍樹菩薩(龍樹も、最初はバラモン教の僧侶であったが、後に仏教の僧侶となり、繰り返すが、大乗仏教思想の大成者となった)、提婆菩薩(だいばぼさつ)、羅睺尊者(らごそんじゃ)、僧佉難提(そうぎゃなんだい)、僧伽耶奢(そうぎゃやしゃ)、鳩摩羅駄(くまだら)、闍夜那(じゃやな)、盤陀(ばんだ)、摩奴羅(まぬら)、鶴勒夜那(かくろくやな)、師子(しし)などの十人あまりの人々は、最初は外道(げどう・仏教以外の宗教)の者であったが、後に小乗経典を究め、さらには大乗の経典をもって、多くの小乗経典を打ち破った。これらの偉大な人物たちは、多くの大乗経典をもって多くの小乗経典を論破したが、多くの大乗経典と『法華経』の優劣は述べなかった。

たとい、その優劣を少し説いたようだけれども、本迹の十妙(ほんじゃくのじゅうみょう・本とは本門のことで、『法華経』の後半のこと。迹とは迹門のことで、『法華経』の前半のこと。天台大師は、『法華玄義』において、「迹門の十妙」と「本門の十妙」について解き明かしている)や、二乗作仏(にじょうさぶつ・本来仏にはなれないとされていた菩薩以外の人も、仏になることができるという教え)や、久遠実成(くおんじつじょう・釈迦の本当の寿命は永遠であるという教え)や、已今当の妙(いこんとうのみょう・『法華経』の中に、「すでに説き、今説き、当(まさ)に説くであろう」という言葉がある。つまり釈迦は、その奥義(妙)を過去にすでに説き、現在説き、未来においても説くであろうという意味)や、百界千如(ひゃっかいせんにょ・仏教では、人間が生まれ変わる世界を十種類あげるが、その一つ一つの世界にはすでに、他の世界が具わっているということで、10×10=百世界になり、さらにその百世界のひとつひとつは、『法華経』で説かれる十種類の範疇(十如是・じゅうにょぜ)が具わっているとして、100×10=千の如是になる。つまり存在すべてをこのように表現し、観心の対象とする)や、一念三千(いちねんさんぜん・百界千如で導き出された千如是のひとつひとつには、さらに五蘊世間(ごうん・人間の認識作用を五つに分けたもの。その認識作用の世間とは、一個人の認識の世界のこと)と衆生世間(その個人が集まった世界のこと。いわゆる社会)と国土世間(その社会が集まって存在する国土を指す)の三つの範疇があるとして、1000×3=三千世間となる。この三千、つまり人間を取り囲むすべては、たった一瞬の心の動きである一念に含まれる、という教え。これも観心の結果、悟られる真理だとするのが天台教学の中心である。日蓮は、この一念三千は、南無妙法蓮華経の題目によって実現すると言う)などの重要な教えは明らかにされていない。ただそれは、指を使って月を指すようなものであって、その教えの真理そのものには至っていない。

あるいは、文の中で、それらの教えの一端くらいは書いているが、釈迦がどのように人々を導いたか、師である釈迦とその弟子たちの関係の浅さや深さについて、その教えによって悟りを得られるか得られないか、などについては、全く述べられていない。

これらは、正法が終わってからの五百年のことであり、『大集経』でいうところの、修行はよく行なわれていた時代(禅定堅固)の時である。

(注:ここまでは、釈迦が死んでからの、前半の五百年間と後半の五百年間、つまり、『法華経』は広く流布してはいなかったが、正しい教えが伝えられ、修行もしっかりと行なわれている正法(しょうぼう)の千年間のことが説かれていた。そして、これからは、像法(ぞうぼう)と呼ばれる期間についての記述となる。

当時ばかりではなく現在も、釈迦の生没年については明確な定説がないが、だいたい、釈迦は紀元前5世紀から4世紀の人と見て間違いはない。しかし日蓮当時の日本では、釈迦が死んだのは、西暦でいうと紀元前949年とされていた。したがって、最終的な時代である末法(まっぽう)は、すでに見てきたように、釈迦の死後二千年後に始まるのであるから、平安時代の中期にあたる1052年(永承7年)に始まった、という説が有力であった。2000-948=1052だからである。

日蓮上人は、1222年から1282年の人物であるから、まさに、これから末法(まっぽう)が本格化するという危機感を持ち、さらにその危機感を裏付けるような事件が、日本の国と、自分の身の回りと自分自身に降りかかって来たのであった。

ここまでは日蓮上人から見ても、あまりにも遠い昔の時代のことを扱ってきたので、記述自体がかなり抽象的であったが、これからは日蓮上人にとっても具体的に知ることのできる時代となるので、記述も具体的になっていく)。

 

つづく

 

日蓮 #撰時抄