大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

撰時抄 その9

問う:伝教大師は日本国の人である。桓武天皇の御世に現われて、欽明天皇より二百年あまりの間の誤った教えを破り、天台大師の完全な智慧と完全な禅定を広めるばかりではなく、鑑真和尚の広めた日本の小乗の三所(奈良東大寺太宰府観世音寺、下野薬師寺)の戒壇を破り、比叡山に円頓の大乗戒壇を建立された。この大いなる業績は釈迦の死後一千八百年の間のインド、中国、日本および世界の第一の尊い出来事である。悟りの内容は、竜樹や天台大師などにはあるいは劣るか、あるいは同じくらいかも知れないが、仏の教えをひとつの教えに統一したことは、竜樹や天親も超え、南岳慧思や天台大師よりも優れていると思う。総合的に見れば、釈迦の死後一千八百年の間、この天台大師と伝教大師の二人こそ、まさに『法華経』の行者である。このために、『法華秀句(ほっけしゅうく・最澄の著作)に次のようにある。「『法華経』には、『もし須弥山を取って、他の無数の仏国土に投げたとしても、これはまだ容易である。仏の滅度の後の悪世の中において、よくこの経を説くことこそ困難なことだ』とある。この言葉を解釈するならば、浅いことは容易であり、深いことは困難であるということは、『法華経』における釈迦の判断である。これを受けて、浅いことを捨てて、深いことを取ることは、正しいことを実行すべき人間の心である。天台大師は釈迦に信順して『法華経』の教えをもって中国に広め、比叡山の一宗は天台の教えを受け継ぎ、『法華経』の教えを日本に広めるのである」と言っている。

この文の意味は次の通りである。次第にこの世が悪くなっていき、人間の寿命が百歳になった時より釈迦が悟りを開かれて世におられた五十年、そして釈迦の死後一千八百年あまり過ぎた中ごろの時代に、高さも広さも測り知れないほどの大きさの金でできた山(須弥山・しゅみせん)を、五尺の小身の人間が、手をもって、まるで一寸二寸の瓦礫を握って、一丁二丁くらい投げるように、雀などの鳥の飛ぶよりも早く、この世の果てにあると言われる鉄囲山(てっしせん)の外へ投げる者があったとしても、『法華経』を釈迦が説いたように説く者は、末法には非常に少ない。天台大師と伝教大師こそ、仏が説いたように説く人である、ということである。

インドの論師は『法華経』へは行き着けず、中国の天台以前の人師は、あるいは行き過ぎ、あるいは足らず、慈恩大師や法蔵や善無畏などは、東を西と言い天を地と言う人たちである。彼らを伝教大師は讃嘆してはいない。

延暦二十一年正月十九日に、高雄山に桓武皇帝の行幸を仰ぎ、奈良の六宗七大寺の碩徳である善議、勝猷、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、慈誥、玄耀、歳光、道証、光証、観敏などの十人あまり、最澄論議をし、あるいは一言で舌を巻いて二言三言に及ばず、みな一同に頭を抱え腕を組んでしまった。三論宗法相宗華厳宗の教義や教判の解釈など、すべて最澄に破られてしまった。たとえば、大きな屋敷の梁が折れたようなものである。十人の大徳の高慢も倒れてしまった。

(注:この記述は、延暦21年(802)の最澄36歳の時に行なわれた、高雄山寺における「法華会(ほっけえ)」の講師の一人として、最澄が招かれた時のことである。これに先立って、一年前の延暦20年には、最澄比叡山において、これも奈良の僧侶たちに依頼して、『法華経』の講義を10回にわたって行なっている。これを「法華十講(ほっけじゅっこう)」と言うが、この高雄山寺の法華会も、その延長のようなもので、この奈良の僧侶たちを招いて行われた法会は、もちろん論議なのではない。最澄は、高雄山寺における「法華会」で、天台大師の三大部を講義し、奈良の僧侶たちはその講義を通して感動したということは確かである。しかし、それは論議ではないので、「破られた」わけではない。

この高雄山寺には、道教事件で活躍した和気清麻呂(わけのきよまろ)の墓がある寺で、この寺での「法華会」は、清麻呂の息子の和気弘世(ひろよ)と真綱(まつな)が催したものである。さらに、この「法華会」には、桓武天皇行幸していない。天皇は、この「法華会」の成功を聞き、大いに喜んで賛辞を送っているのである。また奈良の僧侶たちからも、主催者である和気弘世に対して感謝の意を伝える謝辞が送られている。その謝辞の中に、奈良の仏教界で問題となっていた、三論宗法相宗の衝突が解決された、という記録がある。すなわち、この次の段落で日蓮上人が記している「帰伏状」は、帰伏状などではなく、この謝辞である。

そしてこの「法華会」を通して、最澄はさらに桓武天皇のところとなり、この直後、最澄は唐の留学僧の一人として選ばれることとなるのである)。

その時、天皇は大いに驚かれ、同二十九日に和気広世と大伴国道の二人を勅使として再び奈良七寺の六宗に遣わすと、次のような帰伏の状を奉った。

「天台の奥深い論書を見ると、釈迦のすべての教えを総括して、ことごとくその意味を明らかにして余すところなく、天台の教えは諸宗を超え、真理の一道を示している。その中の教えは実に深く、妙なる教理である。七大寺六宗の学生たちも今まで聞いたことがなく見たことがないほどである。これによって、三論宗法相宗の長年の争いも氷の如く解け、すでに雲や霧が晴れて光を見るようなものである。聖徳太子以降、今に至るまでの二百年あまりの間、講じられて来た経論は数多く、それぞれの教えの優劣を争って来たが、それらは未だに解けてはいない。しかし、この天台の完全な教えはまだ世には広められていなかった。この間は、人々はこの完全な教えを聞くにふさわしくなかったのであろうか。伏して思えば、日本の国は、ようやく如来の委託を受けて、深くこの完全な機会を結び、唯一の妙なる教えと真理が初めて明らかにされ、六宗の学者初めて至極を悟るのである。これによって、この世の人々はこれから妙なる完全な教えの船に乗り、いち早く悟りの彼岸に至ることができるようになったと言うべきである。善議(ぜんぎ・唐に渡って三論宗を学ぶ。奈良の大安寺の僧侶)たちは、幸いなる運命によって優れた教えにあうことができた。これは深い宿縁によってでなければ、このような教えのある聖なる世に生まれることはできなかった」。

中国の嘉祥大師(かしょうだいし・中国の隋から唐にかけての三論宗の僧侶で、三論教学の大成者。天台大師と交際があった。吉蔵(きちぞう)という名の方が知られている)などは、百人あまりを集めて、天台大師を聖人と定めている。今、日本の奈良の七寺の二百人あまりは、伝教大師を聖人と呼んでいる。釈迦の死後二千余年に及んで中国と日本に聖人が二人出現している。その上伝教大師は、天台大師がまだ広めていなかった円頓大戒を比叡山に建立した。これこそ、像法の末期に『法華経』が広まった証拠ではないか。

答える:摩訶迦葉(まかかしょう)や阿難(あなん・この二人は釈迦の後継者とされる弟子)たちが広めていない大いなる教えを馬鳴や竜樹や提婆や天親たちが広めたといことは、先の問答で明らかにした。また、竜樹や天親たちが広め残した大いなる教えを、天台大師が広めたということも、やはり前の問答で明らかにした。また、天台智者大師が広めなかった円頓の大戒を伝教大師が建立されたということも明らかである。ただし、不思議に思うことは、すでに釈迦はすべて説き尽くされたけれども、釈迦の死後に、摩訶迦葉や阿難や馬鳴や竜樹や無著や天親および天台大師や伝教大師がまだ広めていない最大にして深密の教えが、『法華経』の文面に現われている。この教えは、今の末法の二千五百年の始めの時に広めるべきであるか、不思議の極みである。

(注:繰り返して述べているが、日蓮上人当時は、大乗仏教の経典はすべて釈迦が説いた教えであるとされていたが、今ではそれは覆され、すべての大乗仏教の経典は、紀元直後に起こった大乗仏教という、仏教の宗教改革の中で創作されていったものであることが明らかである。したがって、上に記されている釈迦の弟子の時期には、もちろん大乗経典の教えなどない。しかし日蓮上人はそのことを、すでに釈迦が説いたすべての教えの中で、弟子たちが広めていなかった教えがあった、と解釈している。では、広められなかった教えが、どうして約500年間も存在し続けられたのであろうか。その方が不思議の極みである。同じように、馬鳴や竜樹や提婆や天親たちは、大乗仏教の初期のインドでの論師たちであり、ようやく大乗仏教思想が深められ始めた時代であった。そのため、大乗仏教経典もほぼすべて翻訳され、その思想も総括的に知ることができるようになった中国の天台大師のころから見ると、彼ら論師たちが説き残した釈迦の教えを、天台大師たちが広めたように見えるのであり、そのように見えるのも当然である。さらにここで日蓮上人は、それでもまだ説き尽くされていない釈迦の教えが、『法華経』にあるのだと宣言し、結局、それを説くのが日蓮上人自身だということを言おうとするのである。さらにその当時は、すでに末法は始まっており、それも釈迦の死後の二千五百年に近づきつつあると考えられていたので、時期も自分の時代に当てはまっていると信じていたのである。そのため、ここまでの記述の中でも、『法華経』は釈迦の死後二千五百年たってから、本格的にこの世に広まるべき経典なのだ、と力説しているのである。日蓮上人こそ、今まで明らかにされてこなかった『法華経』の教えを説き広める『法華経』の行者であり、そして「時」もその「時」であり、そのことを証明しようとして、ここまでもそしてこれからも、多くの経典や論書を引用しながら記述を進めているのである)。

 

つづく

 

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