大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 159

『法華玄義』現代語訳 159

 

第四項 蓮華について述べる

 

蓮華について述べるにあたって、四つの項目を立てる。一つめは、法譬を定める。二つめは、旧釈を引用する。三つめは、経論を引用する。四つめは、正しく解釈する。

 

第一目 法譬を定める

権実は顕われにくいので、蓮華に喩えて妙法を述べるのである。また『法華経』自体に、七つの大きな喩えがあるように、経題においても喩えを用いるのである。

また、蓮華について解釈して、「蓮華は喩えではなく、そのものである」(注:出典不明)という。たとえば、劫初(こうしょ・すべての始まり)には万物には名はなく、聖人が理法を感じて、その法則に準じて名称を作ったようなものである。また蜘蛛が巣の糸を引くのに習って網を作り、野を転がる蓬(ほう・砂地に生える植物。秋には枯れて野を転がることにより増えていく)を見て車を作り、浮いている筏を見て船を作り、鳥の足跡を見て文字を作るようなものであり、みな理法に則って事象を制定するのである。

今、蓮華の名称は、喩えによるのではない。すなわちこれは『法華』の法門である。『法華』の法門は、清浄であり、因果が微妙であるので、この法門を蓮華と名付ける。すなわちこれは、法華三昧(ほっけざんまい・『法華経』に基づく観心)そのものの名称であり、譬喩ではない。他の経典には多く自ら名称を解釈するが、この『法華経』は解釈する必要はない。あるいはその解釈の文書が中国に渡っていないのみである。そしてこの譬喩か譬喩でないかの二つの解釈にはいずれも道理がある。今、この二つの解釈をまとめることにする。

問う:蓮華は法華三昧の蓮華であるのか。あるいは、植物の蓮華であるのか。

答える:これは法の蓮華である。法の蓮華は理解することが難しいので、植物の蓮華に喩えるのである。能力の高い者は名称をもって理法を理解するので、譬喩を必要としない。ただ法の華の理解をするのみである。能力が中、下の者は、悟ることができないので、喩えを用いて知るのである。理解しやすい蓮華をもって、理解するのが難しい蓮華を喩えるのである。このために、『法華経』では、三周の説法(理法をそのまま説く法説、たとえを説く譬喩説、過去の因縁を説く宿世因縁説の三つ)があって、能力の上、中、下の者に施すのである。能力の上の者に合わせれば、法の名となる。中と下の者に合わせれば、喩えの名となる。上中下を合わせて論じれば、法譬となる。このように理解すれば、誰と争う必要があろうか。今は、しばらく法譬によって解釈する。

 

第二目 旧釈を引用する

僧叡の記した『法華経後序』に「まだ花が開かないものを屈摩羅(くつまら・古代インド語の音写で意味はつぼみ)と名付け、まさに落ちようとしているものを迦摩羅(かまら・青蓮華という意味)と名付け、その中間に盛んに咲いている時を分陀利(ふんだり・白蓮華と訳され、妙法蓮華経の経題に使用されている言葉)と名付ける」とある。慧遠は「分陀利迦(ふんだりか)は蓮華が開いた譬喩である。しかし、見た目は時を追って変わり、名称は色に従って変わる。このために三つの名称がある」と言っている。『涅槃経』には「人の中の蓮華は分陀利華」とある。二つの名称を並べるのは、まさに通称と別称があるためである。ここでは、蓮華は通称、分陀利は別称と理解する。道朗は「鮮やかな白色である。あるいは赤色と翻訳し、あるいは最香とする」と言っている。このようなものはみな開いて最も盛んな時の意義である。分陀利はこれらを兼ねている。

問う:梵語の本は別称を挙げ、中国では通称を用いるのはなぜか。

答える:外国には三つの時の名称がある。中国にはそれはない。ただ通称を挙げることは、自ら別称を兼ねているのである。

その他、蓮華を解釈することに、十六の意義がある。

蓮華が縁(生育条件のこと)によって生じるのは、「仏性」の縁によって起ることを喩えている。蓮華が梵天を生じさせることは、縁によって仏を生じることを喩える。蓮華は必ず泥から生じるのは、『法華経』の理解はこの世の生死から起ることを喩える。蓮華はめでたいものであり、見る者を喜ばすのは、『法華経』を見る者が成仏することを喩える。蓮華は、初めは小さくても大きく成長するのは、『法華経』に記されている通り、仏に対する一礼一念も、それが仏になるきっかけになることを喩える。蓮華が花と実が共にあるのは、『法華経』には因果が共にあることを喩える。蓮華の花には必ず蓮の実があるのは、因が必ず仏となることを喩える。蓮華は、人々が導かれて蓮華世界に入ることを喩える。蓮華は仏の座となるのは、多くの聖者が蓮華によって生まれることを喩える。

以上の十種(注:実際は九種しかない)の譬喩は、ただ『法華経』の教えの行妙を喩える中の一部に過ぎない。

蓮華は泥から生じて、泥に染まらないのは、一乗は三乗の中にあって、三乗は一乗を染めないことを喩える。蓮華は一日の内の三つの時にそれぞれ異なることは、三乗を開けばただ一乗であることを喩える。蓮華が開閉することは、縁に対する目に見える結果と目に見えない結果があることを喩える。蓮華はあらゆる花の中で最も優れているのは、『法華経』が経典の中の第一であることを喩える。蓮華の花が開いて実が顕われるのは、『法華経』の巧みな説法により理法が顕われることを喩える。蓮華は一日の内の三つの時にそれぞれ異なることは、権実の時にかなうことを喩える。

以上の六種の譬喩は、『法華経』の教えの説法妙の中の一部に過ぎない。

光宅寺法雲は次のように言っている。すなわち「他の花は、花と実が共になく、それは他の経典が偏って因果を明らかにしていることを喩える。この蓮華は、花と実が必ず共にある。これは、『法華経』において因果が共に述べられていることを喩える。弟子門(最初から「安楽行品」まで)は因を明らかにして、師門(「従地涌出品」から最後まで)には果を明らかにするために、蓮華をもって喩えとする」。

この解釈は、言葉は簡略であり、意義が偏っている。迹門においては、師も弟子も因果がある。『法華経』の「方便品」に、「私は諸仏のあらゆる道法をすべて行じて、道場で悟りの果をえることができた」とある。すなわちこれは師の因果である。会三帰一はすなわち弟子の因である。授記を得て仏となるのは、すなわち弟子の果である。『法華経』の本門の「如来寿量品」に、「私は昔、菩薩の道を行じる時」とあるのは、すなわち師の因である。「私は仏となってから今まで、非常に長い歳月が経過している」というのは、すなわち師の果である。また「譬喩品」に、「私は昔、舎利弗に初発心を教えた」とあるのは、すなわち弟子の因である。また「従地涌出品」に、「今、みな不退の位に住み、すべて仏となることを得るであろう」とあるのは、すなわち弟子の果である。法雲の義は偏っていて簡略なので、用いない。

ここで譬喩について補助的に述べるならば、ここで述べる蓮の花や実ということは、色・香・味・触の対象となる実際の存在について述べるわけではないが、その実際の存在を用いて花を論じ、実を論じるのである。今述べている実相の理法は、本と迹の因果を超越しているが、本と迹の因果を明らかにすることによって理法を論じるのである。また色・香・味・触の対象は、開合するものではないが、その対象を用いて開合を論じる。実相は権実を超越しているが、開権顕実・発迹顕本を論じることにより、実相を明らかにするだけである。

 

第三目 経論を引用する

『法華論』に十七の名称を連ねている。一に無量義、二に最勝、三に大方等、四に教菩薩法、五に仏所護念、六に諸仏秘蔵、七に一切仏蔵、八に一切仏密字、九に生一切仏、十に一切仏道場、十一に一切仏所転法輪、十二に一切仏堅固舎利、十三に諸仏大巧方便、十四に説一乗、十五に第一義住、十六に妙法蓮華、十七に法門摂無量名字句身頻婆羅阿閦婆等である。妙法蓮華以外の名称は解釈しない。ただその名称を連ねるだけである。

次に蓮華を解釈すれば、二つの意義がある。一つは水から出るという意義である。『法華経』は水に沈まず、小乗の泥の濁りの中から出るからである。またもう一つの意義がある。蓮華が泥水から出るのは、あらゆる声聞が如来の大衆の中に入って坐れば、あらゆる菩薩のように蓮華の上に坐ることに喩える。無上の智慧や清浄の境界を説くことを聞いて、如来の秘密の教えの蔵を証するからである。二つめに、花が開くことは、衆生は大乗の中において、心が弱く信じることができないので、如来の清浄であり妙である法身を開き示し、信心を生じさせるからである。

ここで『法華論』の意義を解釈すれば、もし衆生に清浄であり妙である法身を見せるとすれば、これは妙因開発することをもって蓮華とするのである。もし如来の大衆の中に入って蓮華の上に坐るとすれば、これは妙報国土をもって蓮華とするのである。なぜなら、廬舎那仏は、蓮華蔵海にあって大菩薩たちと共にいて、みな生死の人ではないからである。もし声聞がここに入ることができれば、すなわち、妙報国土をもって蓮華とするのである。その『法華論』を『法華経』の意義と比較すれば、これは行妙・位妙の二つの妙に過ぎない。

『大集経』に「哀れみを茎として、智慧は葉、三昧をしべとし、解脱は開花を意味する。女王蜂のような菩薩は甘い蜜を食べる。私は今、仏の蓮華を礼拝する。また、戒・定・慧・陀羅尼をもって瓔珞とし、菩薩を荘厳する」とある。ここでこの経典を解釈すると、まさにこれは菩薩が戒・定・慧・陀羅尼の四法をとって仮の人を成就することは、蜂が花にいるように、また前の四法をもって自ら助けることは、蜂が花の蜜を食べるようなものである。

法華玄義 現代語訳 158

『法華玄義』現代語訳 158

 

⑨.利益

本門の十妙の解釈における第九は、利益である。先に生身(しょうしん・この世に現われた身)の利益を明らかにし、次に法身の利益を明らかにする。生身は迹門と本門の両方に利益を得る。迹門に会三帰一し、開権顕実して、生身の菩薩が利益を得るのは、十妙の中において境妙・三法妙・感応妙・神通妙・説法妙の五妙の利益を得る。なぜならば、境妙はすべてに通じて、すべてを備えている。三法妙は個別的なもので究竟は仏にある。感応妙・神通妙・説法妙はみな果の上の利益である。もしまだ果を証せずにいれば、この利益に当てはまらない。

六即の位の中においては、理即・名字即・分真即・究竟即の四即の利益を得る。理即と究竟即については前に説いた通りである。ただ名字即と分真即においては、智妙・行妙・位妙・眷属妙・功徳妙を得るのみである。舎利弗が授記を得るようなものであり、また、僧侶、尼僧、男女の在家信者と天龍八部衆歓喜して、偈を説いて「大いなる智慧舎利弗。今、世尊の授記を受けることができた。私たちもまた同じである。みなまさに仏になることができるであろう」と言った。すなわちこれは生身の菩薩が、迹門の説法を聞いて利益を得る相である。

本を発して迹を顕わし、仏の寿命は長遠であると説けば、観仏三昧を大いに増長することができる。これにより、生身の菩薩は、十妙の中の五妙の利益を得る。六即の中の四即の利益を得る。生死を減らし、仏の道を増す。二住の位から等覚の位に至るまで、みなこれは法身であり、十妙の中の五妙の利益を得る。なぜであろうか。応生は本地の功徳を聞けば、観仏三昧がさらに深く広くなり、測ることができないほどとなる。前に述べた迹門の中の利益に比べることができない。なぜなら仏の境は非常に深ければ、功徳もまた大きい。このために『法華経』の「分別功徳品」に「仏は希有の教えを説く。昔から今まで、かつて聞いたことのないものである。世尊に大いなる力があり、寿命は測ることができない。法の利益を得ることができる者について説くと、歓喜が身に充満する。あるいは不退地に住み、あるいは陀羅尼を得る」とある。すなわちこれが、生身と法身の二身の利益を得る相である。

もし実道の利益を得ることを述べれば、迹門と本門は異なることはない。しかし、権智の事象的な働きは、比較することができない。たとえば、慧解脱(えげだつ・知性的な理解のみの解脱という意味)と俱解脱(ぐげだつ・理性的次元のみならず具体的次元を伴った行を修して、具体的次元と理性的次元の煩悩を破ること)の無漏は不二であるが、功徳の優劣はあるようなものである。前の迹門の得道は、ただ無生法忍に限り、本門の得道は、等覚の位に限り、塵の数ほどある。多少深浅など、どうして迹門と同じであろうか。まさにその文を選ぶべきである。発心のところによれば、すなわち六根清浄の位である。そしてこの等覚の位は、最後の分真即に相当する。

次に流通(るつう・教えを広めること)の利益を述べる。前に迹門を流通することは、あらゆる誓願を発する菩薩や授記を受けたあらゆる阿羅漢が、この国土や他の国土に『法華経』を広めるのである。その功徳を述べた文を見ると、ただ目に見えない利益を明らかにするのみであり、目に見える利益を説かない。今、本門について述べれば、すべての諸仏のあらゆる教えを委ね、兼ねて迹門の教えを得る。『法華経』の「神力品」に「秘奥の蔵(=秘要の蔵)」とあることは、すなわち本門と迹門の中の実相である。「一切甚深の事」とは、本門と迹門の中の因果である。このような教えを、千世界の塵の数ほどいる菩薩に委ね、法身の地に『法華経』を広める。これがどうして、生身のこの国土や他の国土に広めることと同じであろうか。十法界の身があらゆる国土に遊戯すれば、すなわち目に見える利益と目に見えない利益の両方がある。

疑う者は「法身は常に仏である。なぜ菩薩が広める必要があるのか」という。

広めることは人によることなので、時間が必要であり、協力者が必要である。仏は世にいるとはいっても、『法華経』の「提婆達多品」にあるように、文殊菩薩が仏に代わって龍宮に入るようなものである。法身の場所に仏がいるといっても、外的な条件が必要である。このために、仏は教えを委ねるのである。舌を出し、頭をなでて、あらゆる形を通して、丁寧に委ね、この教えを広めさせ、無量の微妙の功徳を得る。これを聞く者の妙の功徳は数えることができない。このために経文に「もし仏が寿命を説くことを聞くことができれば、すべての者たちが歓喜し、無量の無漏の功徳の果報を得る」とあり、それはこの意義である。

 

⑩.観心

本門の十妙の解釈における第十は、観心である。本の妙は長遠である。どうして心に観じることができようか。しかし、心そのものではないとしても、心を離れるものではない。なぜならば、仏の如(にょ・真理は言葉に表現できないので、そのようなものだ、という意味の如という言葉で表現する)と衆生の如は、一如であって二如ではない。仏はすでに心を観じて、この本の如を得ているので、迹の働きは広大であり、言葉で表現できない。私の如は仏の如の如くである。またまさに心を観じて、この大いなる利益を出すべきである。また願わくは、私の如は速やかに仏の如の如くになることを。このために、『法華経』に「仏の寿命について聞いて、よく信じ受け入れるならば、そのような人たちはこの経典を敬って受け、『私は未来において長く生き続け、人々を悟りに導こう』と。今日の世尊が、シャーキャ族の王として世に出て、道場において師子吼(ししく)し、教えを説くにあたって恐れるところがないように『私たちも未来世に、すべての人に尊敬せられ道場に座る時、このように寿命について説こう』と願うのだ」とある。これはすなわち観心の本の妙に、六即の位の利益を得る相である。

(注:実質的にはここで「本門の十妙」の内容は終わる。つまり妙の項目自体も終わるわけであるが、最後に「妙」と「大乗」の関係について問答方式の箇所がある)。

問う:大乗と妙の関係はどうか。

答える:これは『法華経』の中の三組の言葉の六つの句によって分別すべきである。経文に「仏は自ら大乗に住む」とある。また「このような大果報」とある。また「大車(大乗を喩えるもの)あり」と。しかし、『法華経』の経題は「妙」としている。また、『涅槃経』には「大般涅槃微妙の経典」とあって、この経題は「大」としている。妙に即して大、大に即して妙である。『大品般若経』に「五陰の色(しき)は深ではなく妙ではなく、(最後の)識は深ではなく妙ではない」とある。これは大乗の教理をもって妙を破っていることである。『法華経』には「すべての実在は空寂であり、無漏であり、無為であり、無大であり無小である」とある。これは妙が大乗の教理を破っていることである。小乗の大阿羅漢の者もなお妙を修す。四諦の十六相の滅諦の滅・止・妙・離においては、妙はなお大乗の教理を修す。

問う:もし大乗と妙が一つであり等しければ、他の大乗経典もまさに妙と呼ぶべきではないか。

答える:他の大乗経典は共通して大乗の教理を述べるものである。理法的に述べれば、大乗の教理と妙は異ならない。しかし、個別的には方便を帯びる。この『法華経』は方便を帯びることがないので、個別的に妙とする。そこには小乗も入ることができる。発迹顕本するために、個別的に妙とする。

問う:大乗と小乗が共に妙とすれば、大乗と小乗は共に、大乗の教理である常・楽・我・浄の常を明らかにしているのか。

答える:一往はそうである。しかし、根本的には排除される。小乗の滅・止・妙・離は名称は同じく、大乗のそれとは理法が異なる。それは常を得ることができない。

問う:繰り返して言うが、それは妙ということができるのか。

答える:妙は不可思議という意味で名付けられる。小乗の真諦は、言葉をなくし、思慮を絶する。共通してこれも不思議とすることができるので、共通して妙とするのみである。このことは他のことにもすべて当てはまる。また三無為(さんむい・この世における三つの常に変わらないものとされる三つ。虚空、悟り、縁がないために生じないものの三つを指す)を常とするが、その意義は大乗の常とは異なる。

また問う:すでに共に常とすれば、また一つになるのか。

答える:あらゆる見解を合わせて同じく真に入るが、それは一つになることではない。

また問う:それは、共に無常であるのか。共に麁であるのか。共に一つにならないのか。

答える:比較すれば共通するが、意義は異なる。

問う:どうして大乗は無常なのか。

答える:大乗はただ無常がないだけではない。また常もない。常がないために無常という。

問う:どうして大乗は麁なのであるか。

答える:言葉で表現する限り、それらは麁である。

問う:どうして大乗の各教説は一つとならないのか。

答える:すべての実在はすべて仏の教えそのものであるので、どうして一つとなる必要があるのか。

法華玄義 現代語訳 157

『法華玄義』現代語訳 157

 

⑥.料簡

本門の十妙の解釈における第六は、料簡である。過去・現在・未来の三世について考察する。『法華経』に「如来の自在な神通力と、如来の大いなる勢いと威厳の力と、如来の獅子奮迅の力」とあるのは、すなわちこれは三世にわたって衆生に利益を与えるという意味の文である。過去に最初に悟りを証するところの権と実の法を本と名付ける。本が証されて以降、方便をもって他を教化し、開三顕一・発迹顕本することは、最初を指して本とするためである。中間の示現、発迹顕本も、また最初を指して本とするためである。今日における発迹顕本もまた、最初を指して本とするためである。未来の発迹顕本もまた、最初を指して本とするためである。三世は異なっているとはいえ、毘盧遮那仏の一つの本は異なっていない。百千の枝葉も同じ一つの根から生えているようなものである。

問う:現在見ることのできる無量の仏は、すべて釈迦の分身である。なお他の仏があって、その他の仏にもまた分身があるのだろうか。

答える:『観普賢菩薩行法経』に「東の方角に仏がいて、善徳という。その仏にまた分身の諸仏がいる」とある。もしそうならば、また他の諸仏がいて、その諸仏にも分身がいる。また『法華経』の「神力品」に「仏が指を鳴らし咳払いすると、その二つの音は遍くあらゆる方角の諸仏の世界に至る。その仏の僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、遥か遠くからその仏を供養する。その散じた諸物はあらゆる方角から来たが、それはたとえば雲の集まるようであり、遍くその間の諸仏の上を覆った」とある。このために知る。諸仏がいて、その諸仏にも分身がいるということである。

問う:三世の諸仏にみな分身がいるならば、なぜ多宝如来は全身があるのみで分身せず、禅定に入っているような姿であると記されているのか。もし分身とならなければ、なぜあらゆる方角に遊戯し、『法華経』を証すというのか。この二つの意義はどうやって通じるのか。

答える:『大智度論』に念仏について解釈する中で、「多宝如来は、人から説法を請われることがないので、涅槃に入り、後に仏身と七宝の塔を化作して法華経を証す」とある。もしこの『大智度論』の解釈に従うならば、すなわち全身を化作したのである。分身がないのではない。南岳師は「もし説法はしないとするならば、なぜ僧侶や尼僧や男女の在家信者に、私の滅度の後に一つの大きな塔を立てよと告げたのか。全く説法をしなかったわけではない。まさに『法華経』は説かなかったということである」と言っている。このために大誓願を発して、生身の骨を砕かず、全身散らさずに、現われて円教を証するのである。「禅定に入っているような姿」とは、不滅を表わしているのであり、現われて常住の経典を証することにおいて、偏っていないことを表わしている。不偏不滅であり、円教の常住の義が顕われている。「口に真実の清浄の大いなる法を語る」とある。「真実」とは常住である。ここには略して常・浄の二徳を挙げる。他の我・楽はわかるであろう。能力の劣った者は経文を読んでも、自分では悟れない。

問う:三世の諸仏はみな本を顕わすならば、釈迦の最初の実成(じつじょう・釈迦が最初に悟った時を指す。『法華経』によれば、測ることのできないほどの昔であるとする)についてどのように本を顕わすのか。

答える:諸仏も必ずしもすべて本は顕わさない。今、具体的なことを通して述べるならば、最初の妙覚は、初住の位を本とする。もし初住からさらに進んで妙覚の位に至るならば、やはり初住を本とする。初住の前の位には、時間の経過において指すものがない。空間の広がりにおいては、仏の本体の働きがあるので、どうしてそれが本でないことがあろうか。また誓願を発するために、寿命の長遠を説く。それは経文の通りである。

また、最初の仏は、長遠、昔と今、権と実などの本と迹を顕わすものがないといっても、本体の働き、教えと修行、理法の教え、理法と事象などの本と迹を顕わすことはある。またもし抽象的なことを通して述べるならば、最初に悟った仏は、すでに初めて本を得て、まだ迹を下していないわけであるから、遠い過去の迹も発することもなく、遠い過去の本を顕わすこともない。久遠実成の仏は、釈迦の例のように、東方を喩えとする。それより昔の場合は、四方を喩えとし、さらに昔の場合は、十方を喩えとする。これより近い過去は、釈迦の東方を除いた方角を喩えとし、全くないものについては喩えるものもない。

問う:もし久遠実成において、さらに昔の本を顕わすことがないならば、どうして『法華経』に、「これは私の方便である。諸仏もまた同様である」とあるのか。

答える:久遠実成に本がないとしても、方便を用いれば、仏に劫を延ばしたり縮めたりする智慧がある。七日を延ばして無量劫にするなどである。

問う:仏にもし久遠実成と始成(しじょう・この世で仏となること)があり、迹を発することと発しないことがあれば、また開三顕一をすることとしないことはあるのか。

答える:菩薩がもし声聞と共にいれば、開三顕一はある。もし菩薩だけだったら、どうして開三顕一の必要があろうか。

問う:もし開三顕一をしなければ、諸仏と釈迦仏、また三世の仏はどうなのか。

答える:同じく声聞と菩薩が共にいるような五濁(ごじょく・劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく)の悪世であるならば、開三顕一をするが、浄土の仏はそれはない。

問う:十麁を破って十妙を顕わせば、すなわち無明惑が尽き、一実の理法が顕われる。今、さらに迹の妙を破って麁とし、本を顕わして妙とする。いったい何の煩悩を破って、何の理法を顕わすのか。

答える:無明惑の数はとても多い。実相の海は、深く無量である。このように破って妙を顕わすことに、誤りはない。

問う:もしそうならば、むしろ妙をもって妙を破ることになる。破る対象は妙であり、しかも麁である。またまさに麁をもって麁を破れば、破られるところの麁は、上の説によれば、妙ということにならないだろうか。破られるところの四住(しじゅう・四住地惑のこと。三界の見思惑を指す。第一は見一切住地で、三界のすべての見惑のこと。第二は欲愛住地で、欲界のすべての思惑のこと。第三は色愛住地で、色界のすべての思惑のこと。第四は有愛住地で、無色界のすべての思惑のこと)も、上の説によれば、妙ということにならないだろうか。

答える:頓教について意義を明らかにすれば、ただ四住はすなわち妙においてあるのみである。どうして四住を破る智慧は、妙でないことがあろうか。

また問う:もしそうであるならば、ただ頓教の意義あるのみで、まさに漸教の意義はないであろう。

答える:もし漸教と頓教を分けるならば、漸教の働きとその破る対象は共に麁であり、頓教の働きとその破る対象は共に妙である。

問う:中間に偏と円、権と実があっても、同じくこれを権とすれば、またまさに同じく偏とするべきであろうか。

答える:通教の意義においてはそうである。別教の意義においてはそうではない。偏と円は真理においてのことである。真理はすなわちすでに定まっているので、偏は円ではない。円は偏ではない。一方、権と実は教えにおいてのことである。迹の中で教えを設けることは、同じくみな仮であるために、仮において権を論じるのみである。

問う:すでに麁を帯びる妙がある。また麁を帯びない妙があれば、またまさに妙を帯びる麁、妙を帯びない麁があるであろう。

答える:これはまさに、次の四種である。麁を帯びる妙は、すなわち別教である。麁を帯びない妙は、すなわち円教である。妙を帯びる麁は、すなわち通教である。妙を帯びない麁は、すなわち三蔵教である。

また麁を帯びる妙は通教のようで、麁を帯びない妙は、すなわち円教のようであり、また、麁を帯びまた麁を帯びないのは別教のようであり、帯びるのではなく、帯びないのでもないのは円入別教のようであり、また別入通教と円入通教のようである。

また、五味の教えについて述べれば、麁であり妙を帯びないのは酪味の教えのようであり、妙であり麁を帯びないのは醍醐味の教えのようであり、また麁を帯びまた帯びないのは生蘇味と熟蘇味の教えのようであり、麁を帯びるのではなく、麁を帯びないのでもないのは乳味の教えのようである。

問う:二つの麁が同じでなければ、どうして同じく麁と呼ぶのか。

答える:事象に浅深の違いがあるために二つとし、共に妙の理法ではないので、同じく麁である。

問う:それではまさに、方便を帯びる実と、方便を帯びない実があることになる。

答える:前の例のように理解せよ。

問う:またまさに二を帯びる一、二を帯びない一があることになる。

答える:前の例のように理解せよ。共通して述べれば、本と迹はただ権と実であるのみである。個別的に述べれば、高低については本と迹を用いるべきである。空間的に真と偽を述べれば、権と実を用いるべきである。本と迹は仏の身体についてであり、位についてである。権と実は智慧についてであり、教えについてである。

問う:本地の十妙は、前に述べられた昔・今・中間・体用・教行・理教の六種の本と迹について述べれば、どのように分けられるのか。

答える:昔・今ではなく、中間ではなく、すなわち体用・教行・理教など、共に十妙を述べるのである。

 

(7)麁妙

本門の十妙の解釈における第七は、「麁妙を論じる」である。迹の中のすでに得た十麁を麁とし、十妙を妙とする。このように、まだ十麁を開いていないことを麁とし、十麁を開くことを妙とする。具体的には前に説く通りである。迹の中の麁に相対する妙と、麁を開く妙とは、同じく本の妙と異なることはない。しかし、今、初めて得たと言えば、初めて得るものを麁とするのだが、それは本の中に先に成就していたものである。あるいは、麁もしくは妙もしくは麁を開く妙も、また迹の妙に異なることはない。しかし、これは先に得たものである。先に得るものを妙とする。

また迹の中の事象と理法において、初めて得るものを麁とし、本の中の事象と理法において、先に得るものを妙とする。迹の中の理教・教行・体用・権実もまたこのようである。

また、もしまだ発迹顕本をしなければ、ただ迹の中の事象と理法の麁と妙を解釈するのみであり、最後まで本の中の事象的な麁を理解することはできない。ましてや本の中の理法的な妙をどうして理解することができようか。弥勒菩薩ですら、達することができない。どうして他の人が達することができようか。

もし迹の中の事象と理法から、本の中の事象と理法を顕わせば、また本の中の事象と理法によって、迹の中の事象と理法を顕わすことを知る。迹はすでに本によるものであれば、すなわち本は妙であり、迹は麁である。すでに本と迹に異なりがあるために、麁妙という。妙の理法はすなわち迹ではなく本でもない。不思議な次元で一である。理教・教行・体用・権実・昔・今もまた同じである。

 

⑧.権実

本門の十妙の解釈における第八は、「権実を明らかにする」である。迹の中の十麁の境を照らすことを権とし、迹の中の十妙の境を照らすことを実とする。そして、中間三世(ちゅうげんさんぜ・本の昔から今に至る過去現在未来の期間を指す)において照らすところの十麁の境を権とし、十妙の境を実とする。もしくは権もしくは実、これらはすべて迹である。迹であるために、権とする。このような中間に、無量さらに無量の不可説、一節一節に権実がある。『法華経』以外の経典には、中間の一つの権すらない。ましてや、一つの実があろうか。なお中間の一つの権実すらない。どうして無量の権実があろうか。なお中間の権実すらない。どうして本地の権実があろうか。中間の権実をみな権とし、本初に十麁・十妙を照らすものをみな実とする。

迹の権、本の実は、共に不思議である。不思議はすなわち法性である。法性の理法は、古いことはなく今でもない。本でもなく迹でもない。権でなく実でない。ただこの法性において、本迹・権実・麁妙を論じるのみである。ただ世俗の文字に過去未来現在があるので、菩提にも過去未来現在あるというのではない。

また次に、権実を分別すれば、すなわち三種ある。自行・化他・自行化他をいう。具体的には境妙の中で説いた通りである。本地の自行をもって成就するところの権実の二智を、仏の自行の権実と名付ける。本から今まで、すなわち釈迦が説法した鹿野苑に至るまで、あらゆる方便は、随他意語である。この二智を説いて、何の妨げなく説法することを、仏の化他の権実二智と名付ける。化他に二種あるといっても、みな権とし、自行に二種あるといっても、みな実とする。これは自行化他に権実を説くことである。

また次に迹の中に実について権を述べれば、その意義は実にある。しかも実の意義は測ることは難しい。なぜなら、『法華経』の「化城喩品」の、人々を休ませるために仮に化作した化城は権であるが、人は実であると思う。これは権を知らないことであり、また実を知らないことである。もし廃権(はいごん・権を退けること)して実を顕わせば、その意義は権にある。権はすなわち測り安い。なぜなら、すでに化城の出来事は仏の施権(せごん・権を与えること)だと知れば、すなわち遍く数えきれないほどの仏法に達し、久遠の劫の方便に通じる。このために『華厳経』の中に、「阿鞞跋致(あびばっち・不退転ともいう。仏道修行を後戻りしない境地)のために、多くの事柄を明らかにする」とあることは、この意義である。もし開権顕実すれば、事象と理法に達し、権の意義は終結する。また権を離れて遠く実を求めるようなことはしない。権はすなわち実であれば、また別の権はない。このために開権顕実するというのである。

迹の中に施権・開権・廃権の三つの意義については以上の通りである。迹は本によって来る。本もまた同じである。本と迹は異なっているといっても、不思議な次元では一である。

法華玄義 現代語訳 156

『法華玄義』現代語訳 156

 

(7)本眷属妙

法華経』に「このあらゆる菩薩は、下方の空中に住む。彼らは私の子、私はすなわち父である」とある。「下方」とは、下を底とする。『大品般若経』に「諸法底三昧(しょほうていざんまい)」について記されている。『大智度論』に「智度の大道は、仏が底を究めたことである」とある。まさに知るべきである。このあらゆる菩薩たちは、仏の側にあって智度の底を究めたのである。「空中(=虚空)」とは、法性虚空の寂光のことである。本時の寂光は、空中から今の時の寂光の空中に出る(注:この時の『法華経』の場面は空中となっているため)。今の時の寂光の空中にいる者は、本時の者を知らない。このために「私は諸国に修行のために遊行したが、この中の一人も知らない」と言っている。この地涌の菩薩は、みな本時の応生の眷属である。

本時に業生・願生・神通生がないのは、非常に長い時間が経過しているので、権が実に転換しているからである。ただ応生のみあって、三つの眷属はない。あるいは、応生を挙げて、三つの眷属があることを知るべきである。本より迹が出て、迹の中に初めて成仏する時、また業生・願生・神通生・応生がある。中間の教化するところにもこの四つの眷属がある。文殊菩薩、観世音菩薩、提婆達多などは、ある時は師と呼び、ある時は弟子と呼ぶ。迷う者にはまだ理解されない。

もし中間を権として排除すれば、迹でないものはない。すなわち迹と本は理解すべきである。もし迹に執着して本とすれば、二つの義が共に失う。

問う:迹と本を比べれば、地涌の菩薩の数よりも、分別功徳品に記されている道を進めた衆生の数の方が圧倒的に多い。本と迹の法身は、浅深の違いがあるのだろうか。

答える:法身はまず先に満了して、道を進めることもなく、煩悩を断じることもない。衆生を教化するにあたって、広狭の違いがあるのみである。

問う:もしそうならば初住・二住の教化の対象に浅深多少の違いがある。法身の応生に浅深の違いはないことになるが、どうなのか。

答える:菩薩は位がまだ極まっていないので、実を証するにあたって、浅深を分別する。仏の位はすでに満了している。ただ権を教化するに際して、四句あって広狭を論じるだけである。

問う:因果などを明らかにするにあたって、みな迹仏に合わせて本を指す。しかし眷属を明らかにするにあたっては、本を召して迹に至るのはなぜか。

答える:因果などの理法は、幽玄微妙(注:抽象的という意味)であり明らめることが難しい。このために、迹に合わせて本を表わす。眷属は人であるので(注:具体的という意味)、召して証することがたやすい。あるいは本の人をもって迹の人を示し、あるいは迹の理法をもって本の理法を表わすべきである。互いに意義を表わすのみである。

 

(8)本涅槃妙

法華経』に「この涅槃に入ることは、真実の滅度ではないが、まさに滅度に入ると言うのである」とある。「真実の滅度ではない」とは、変わらない本寂を指す。「まさに滅度に入ると言う」とは、衆生を調伏するためである。すべて本時の涅槃であり、迹の涅槃ではない。迹とは、『涅槃経』に「音声や映像によって成り立っているものは、あらゆる弟子から虫やサソリにいたるまでである。無辺身菩薩などの弟子の位の者は、身体が無辺である。どうして釈迦が死ぬ間際に背中が痛んだ、ということがあろうか」とある。これは、仏は生身(しょうしん)の病を示して滅度を示すが、法身には病などなく、常に存在して変わらない。あるいは、析空観における因が滅して、果が消されることを用いて有余涅槃(ゆよねはん・まだ肉体が残っている状態での涅槃)・無余涅槃(むよねはん・肉体も完全になくなった状態での涅槃)の涅槃を明かすことである。

生身の迹が滅するとは、『阿含経』の中に記されている通りである。業によって生まれた身は、父母から生まれる。国を捨て、王を捨て、六年間苦行し、三十四心に煩悩を断じて成道した(注:「三十四心に煩悩を断じて成道する」という表現は、釈迦が悟りを開く過程を表わす定型句のようなものである)。八十二歳の老比丘の身、純陀(じゅんだ・個人の名)の家に至って、鉢をもって托鉢し食を請い、キノコと野菜の煮物を食べて、その後、説法した。果報の寿命はその夜に尽き、無余涅槃に入った。火をもって火葬し、舎利を集めるのは、三蔵教の仏の涅槃の相である。

また『大智度論』には「六地の位の菩薩は見思惑はすでに尽き、七地の位より以上は、他の者を助ける誓願のために、残った習気(じっけ・煩悩が残した余熱、惰性のようなもの)を用いて生死の身を受ける。そして、上界に生まれ、下界に生まれ、最後に一瞬の心における智慧によってその習気を断じて成仏する。教化すべき衆生の縁が尽きれば、教化をやめて無余涅槃に入る」とある。これは通教の仏の涅槃の相である。

地論宗の人は次のように言っている。「意識的な修行によって無意識的に自然と行なわれる修行を起こす。菩提の果が満了して大涅槃を成就する。これを方便浄涅槃という」。また『涅槃経』に「この外界に存在すると思っている色(しき・五蘊=五陰の最初の色を指す)を滅ぼすことにより、真実の変わらない存在を得る。五蘊の残りの受、想、行、識もまた同じである。これを色解脱、受、想、行、識解脱という」とある。すなわち、これは、分断生死(三界の中で繰り返される生死)・変易生死(三界の外にあっても自分の意志で生死を現わすこと)の因が尽きて、常住の有余涅槃を得るのである。そして、二種の生死の五蘊=五陰の果の身が尽きて、常住の無余涅槃を得る。これは前の三蔵教と通教とは異なっている。これは別教の仏の涅槃の相である。

『涅槃経』に「大いなる涅槃は常住不変であり、あらゆる示現をもって衆生を調伏する」

とある。『首楞厳経』に詳しく説く通りである。「大涅槃常楽我浄」と名付ける。これは前の三蔵教と通教と別教とは異なっている。これは円教の仏の涅槃の相である。

『像法決疑経』には「今日の聴衆の座にいる数えることができないほどの多くの衆生は、それぞれ見る対象は異なっている。ある者は、如来が涅槃に入ることを見て、ある者は如来が世に住む期間が一劫または一劫に少し足りない期間だと見て、ある者は如来が世に住む期間が無量劫だと見て、ある者は丈六の身体だと見て、ある者は小さい身体、大きい身体と見て、ある者は報身の蓮華蔵世界海に坐して百千億の釈迦牟尼仏のために心地の法門を説くことを見て、ある者は法身が虚空と同じとなって分別することができず、無相無礙であり、遍く法界の虚空に同じだと見て、ある者はこの世の釈迦が入滅した沙羅双樹の林は単なる土砂草木石壁だと見て、ある者はその場所は金銀七宝によって清浄に荘厳されていると見て、ある者はその場所は三世の諸仏の遊ぶ所だと見て、ある者はその場所は不可思議な諸仏の境界の真実の法体だと見る」とある。これは仏身の国土と本体にそれぞれ蔵教・通教・別教・円教の四つの相があることを明にしている。すなわち前に述べた四涅槃の相である。

『涅槃経』は『法華経』と説く意義は同じである。『涅槃経』は常住をもって経の主要とする。『涅槃経』の中で、迦葉菩薩が最初に長寿について質問したところ、仏の答えの中に、あらゆる場所に多くの未来の常住を顕わし、過去の寿命については少ししか明らかにしていない。『法華経』に過去の寿命についてはすでに説かれているためである。『涅槃経』は、過去に成就した寿命については少し説くけれども、それによって近い過去の寿命は短命だと判断してはならない。『法華経』は完全に発迹顕本を明らかにするのである。無量の寿命を主要な教えとするならば、未来の常住は少ししか説かない。数か所で未来の寿命について説くけれども、それが常住ではないと判断してはならない。この二経は互いに述べている。能力の高い者は、本の寿命は常住だとしれば、未来もまた常住だと知る。未来の長寿を理解すれば、また本の長寿を理解する。この義は同じである。また『法華経』に「しばしば生を現わし滅を現わす」とあるのは、生も実の生ではなく、滅も実の滅ではなく、それによって、常住の義が顕わされているのである。また二万の日月灯明仏や過去仏である迦葉仏は、『涅槃経』では説かれない。ただ『法華経』において、本の常住、未来の常住を明らかにするのみである。これによっても『法華経』は常住を明らかにする義を顕わしていると見ることができる。

本と迹と中間の三つの意義によって、あらゆる涅槃は迹であって本ではないことがわかる。初めて涅槃に入るために、入ってまたそこから出るからであり、中間を権として排除するからである。この迹の涅槃は、みな本から来ている。どうして迹に執着して、それを本というのだろうか。これは迹も本も知らないからである。もし迹を排除して本を顕わせば、この二つの意義に迷うことはない。迹ではなく本ではなく、不思議であり一つである。

 

(9)本寿命妙

前に説いた因妙の中には、智慧をもって命とする。これはすなわち長でもなく短でもなく、非長非短の慧妙によって、長短となる。この中に正しく長短の寿命を明らかにしている。『法華経』に「あらゆる場所に自らの名前の不同、年紀の大小を説く」とある。「年紀」とは寿命のことである。「大小」とは長短のことである。同じく『法華経』に「中間、あらゆる場所、年紀の大小」とあるのは、迹において、遠く本を指しているからである。

迹における不同とは、三蔵教の仏は、父母と同じ生身で、八十二歳で尽き、その身は灰となり智慧は滅して、もう再び生まれることはない。通教の仏は、誓願の身であり、教化する縁が終われば、また灰となり、もう再び生まれることはない。この二人の仏は、ただ業により、縁により、非長非短の慧命を得ない。長となり短となり、大小の寿命となることはできないのである。別教は十地の位に至って無明を破り、如来の一身無量身を得る。一身は自然と安住し、無量身は百法界において仏となり、また九界の身を現わし、年紀の大小を論じることができ、大はすなわち大乗の常の寿命、小はすなわち小乗の無常の寿命である。円教は十住の位に至る時も、またこれと同じである。

これらはみな因中の菩薩であり、常ではなく無常ではなく、同時に常、無常、大小の寿命となる。どうしてそれ以上の位がそうでないだろうか。どうして妙覚がそうでないであろうか。このような寿命は、本と迹と中間の三つの意義によって、みな迹の中の因果の寿命であることがわかる。この寿命はみな本地の因果が円満であることによって、この迹が来ている。迹はすでにこのようである。どうしてまた本がそうであろうか。『法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とあるのは、本因を指す。因の寿命すらなお尽きていないのである。どうして本果の寿命が尽きているだろうか。もし迹に執着すれば、すなわち本を知ることができない。もし迹を排除すれば、本を知る。また、この二つは不思議な次元では一つである。

 

(10)本利益妙

法華経』に「みな歓喜を得させる」とある。「歓喜」とはすなわち利益の相である。迹の中の三乗が共にする十地、別教の十地、開権顕実、位に立脚する妙、位に入る妙などの利益から始まって、仏の寿命を聞いて、煩悩を断じ道を進めることなどは、みな迹の中の利益である。さらに中間の権実の利益も、また迹の中の利益である。迹と本を比較すると、本もまた偏と円の利益がある。下の世界の菩薩がみな虚空に住む理由は、みな寂光にいるからである。それは本の利益である。このために本の本は、迹を下し、迹を借りて本を知る。これ以上は具体的には記さない。

法華玄義 現代語訳 155

『法華玄義』現代語訳 155

 

(3)本国土妙

法華経』に「それ以来、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化し、また他の国においても衆生を導き利益を与えた」とある。この娑婆とはすなわち本時の凡聖同居土である。「他の国」とはすなわち本時の方便有余土と実報無障礙土と常寂光土の三土である。これは本時の真実の応身の住むところである。迹門の中の国土ではない。

迹門の中の国土について述べると、それは一つではない。あるいは「この三千百億の歳月を統括するのは、凡聖同居土である」という(注:この文も出典不明。創作された文か)。あるいは『涅槃経』に「西方に国土があり、無勝と名付ける。この国土のあらゆる荘厳については、なお安養国(極楽浄土のこと)のようである」とあるのは、凡聖同居土の浄土である。

あるいは「華王世界蓮華蔵海」(注:『華厳経』の蓮華蔵世界のこと)というのは、実報無障礙土である。

あるいは『観普賢菩薩行法経』に「この仏の住むところを常寂光と名付ける」とあるのは、すなわち究極的な国土である。「寂光」とは、理法が鏡や器のように通じていることである。他のあらゆる国土はそれぞれ、鏡に映る像のように、器に盛られる飯のように、それぞれ異なっている。業の力に隔てられ、感じ見ることが同じではない。『維摩経』に「私の国土は清いけれども、あなたは見ることができない」とある。これは衆生の感じ見るところは違いがあって、仏国土に関係することができないためである。

法華経』に「今、この三界はみな私の所有である」とあるようなことは、あらゆる国土の清らかなところや汚れたところ、調伏すること、受け入れることなどは、みな仏の行ないであるということである。たとえば、多くの民は土地に住んでいるけれど、その土地は彼らの所有物ではなく、父が家を建てて、その父が去っても、その家は残っているようなものである。如来も同じである。衆生のために国土を作る。教化し終わって滅度する。仏が去ってもその国土は残る。これは仏の国土であって、衆生は関係しないのである。

また次に、三変土田(さんぺんどでん・『法華経』の「見宝塔品」において、釈迦が国土を3度清めたこと)とは、凡聖同居土の汚れを変じて、凡聖同居土の清浄を見せ、あるいは方便有余土の清浄を見せることである。たとえば、『法華経』の「如来寿量品」に「もし深く信じて理解する者がいれば、仏は常に『法華経』を説いた耆闍崛山(ぎじゃくっせん)にあって、大いなる菩薩たちや声聞などの多くの僧侶と共にいるのを見る」とあるようなことは、これを指すのである。あるいは、実報無障礙土の清浄を見る。たとえば、娑婆国土はみな紺色の瑠璃であり、純粋にあらゆる菩薩たちだけがいるのを見るようなことである。あるいは常寂光土と見るのである。法華三昧(ほっけざんまい・『法華経』に基づく観法)の力をもって、あらゆる見え方をさせるのである。

次の三つの意義があるために、他の国土はすべて迹の国土であることを知る。一つは、今の仏の住む所であるためである。二つは最初から最後まで、あらゆる国土を作るからである。三つは中間を権として排除するからである。もしこの本土が今の仏の住む所でなければ、今の仏の住む所はすなわち迹の国土である。もし本土が一つの国土であり、同時にすべての国土であるならば、最初から最後まで、あらゆる国土を作って、深浅の違いがあるはずである。今の国土以前と本土以後をみな中間(ちゅうげん)と名付ける。中間をすべて方便とする。どうして、今の国土は迹でないことがあろうか。

本より迹を出し、迹に執着して本とするならば、迹門も本門も知らないことになる。今、迹を排除して本を指す。本時に住むところの凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土の四土とは、本国土妙である。迹の本は本ではない。本の迹は迹ではない。迹と本が異なっているといっても、不思議であり一つである。

 

(4)本感応妙

法華経』に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、その信心などの能力の高低を観じる」とある。「衆生が来る」ということは、法身に働きかけることである。「私は仏の眼をもって観じる」とは、慈悲をもって行って応じることである。「能力の高低」とは、十法界の目に見るものや目に見えないものの善悪の不同を指す。これは本時に二十五三昧を証する感応を指す。迹の中の感応ではない。迹の応は多種である。あるいは「一日三回に禅定に入って、導くべき衆生を観じる」という(注:これも出典不明。以下同じ)。これは三蔵の仏であり、分段穢国の九法界の衆生を照らす析空観の感応である。

あるいは「俗に同化してしかも真であるならば、出入りすることを用いず、自然とよく知ることができる」という。これは通教の仏が、分段浄国の九法界の衆生を照らす体空観の感応である。

あるいは「王三昧を用いて、歴別に十法界の衆生を照らす」という。これは別教の仏が方便有余土を照らす次第の感応である。

あるいは「王三昧を用いて、一度に十法界の衆生を照らす」という。これは円教の仏が十法界の常寂光土の衆生を照らす円融の感応である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる感応はすべて迹であり本でないことを知る。一つは、今の世で成就したためである。二つは不同であるからである。三つは権として排除するからである。寂滅道場の菩提樹の下で、初めて偏りのあるものと円満なものが成就するので、権であることを知る。あるいは、前に修行し後に学び、深浅の違いがある。このために権であることを知る。中間をすべて方便として排除する。どうして、迹でないことがあろうか。本より迹を出す。どうして迹に執着して本とするのだろうか。迹を排除して本を顕わす。迹を捨てて本を指すべきである。本の迹、迹の本であるために、不思議であり一つである。

また次に、あるいは本の感は麁であり、迹の感は妙である。あるいは本の感は妙であり、迹の感は麁である。共に妙であり、共に麁である。応もまた同様である。また本の感は広く、迹の感は狭い。あるいは迹の感は広く、本の感は狭い。共に狭く、共に広い。応もまた同様である。また今と昔を取って、本と迹を判断するのみである。麁と妙と広と狭について述べているのではない。

 

(5)本神通妙

法華経』に「如来の秘密の神通の力」とある。また「あるいは自らの身を示し、また他の身を示し、自らのこと、他のことを示す」とある。「自らの身、自らの身を示す」とは、円融の神通力である。「他の身、他のことを示す」とは、偏った神通力である。「秘密」とは、妙である。偏ったものも円融のものも、みな妙である。これは本時の神通力を指す。迹の神通力ではない。

迹の神通力は多種である。あるいは、「八背捨、八勝処、十四変化(八背捨、八勝処、十一切処によって得られる十四の報いのこと)によって、六神通を得る。外道以上であり、二乗に勝る」という(注:これも出典不明。以下同じ)。これは三蔵教の仏の神通力である。

あるいは「体空観の無漏の智慧によって、六神通を得る。八背捨による者に勝る」という。これは通教の仏の神通力である。

あるいは「前の六神通をまとめて五とし、中道によって無漏の神通を発する」という。この六神通は別教の仏の神通力である。

あるいは「中道の無記化化禅に六神通とすべての変化(へんげ)を備える。滅尽定を起こさず、あらゆる威儀を現わし、語るも黙るも妨げなく、動静の二つの理法はない」という。また『法華経』の中の六瑞(ろくずい・『法華経』の「序品」にある六つの瑞相)と変土(へんど・『法華経』における場面の変化)などのようなものは、円教の仏の神通力である。

次の三つの意義があるために、他のあらゆる神通力は迹であり本でない。一つは、今の世で得たものであり、二つは近い時期に修したものであり、三つは疑いを払うためのものだからである。上に説いた通りである。また四句において考察することも先に説いた通りである。しかし、本より迹を出すのであれば、迹はすなわち本ではない。迹を排除して本を顕わせば、迹を捨てて本を指すべきである。本の迹、迹の本であるために、不思議の次元で一つである。

 

(6)本説法妙

法華経』に「彼らは私が教化した者たちであり、大いなる悟りを求める心を起こさせた。今、みな退かない位に住んでいる」とある。「私が教化した者たち」とは、まさしく説法である。「大いなる悟りを求める心を起こさせた」とは、小乗の説法ではないことがわかる。これは本時の権を捨てて実を説くことを指す。迹の説法ではない。

迹の説法は種類が多い。もし『涅槃経』によるならば、始めと最後の乳味と醍醐味は、牛から出るものであると明らかにしている。もしこの意義によって考察するならば、中間の酪味・生蘇味・熟蘇味もまた牛より出たものである。なぜなら、普通の牛が普通の草を食べれば、ただよく乳味の乳を出すだけである。特別な草を食べないために、他の四つの味の乳は出さない。良い牛は健康であり、高地にも湿地にもいない。酒粕や麦の殻などは食べない。五つの味が円満に出せる要素は牛に本来備わっている。食べ物によってそれらは出るのである。

もし普通の草を食べるならば、絞れば乳を出す。下の特別な草を食べるならば、絞れば酪を出す。中の特別な草を食べるならば、絞れば生蘇を出す。上の特別な草を食べるならば、絞れば熟蘇を出す。上上の特別な草を食べるならば、絞れば醍醐を出す。

牛より五味を出すことは、漸法を喩えているのである。牛より醍醐味を出すことは、頓法を喩えているのである。牛より酪味・生蘇味・熟蘇味の三味を出すことは、不定法を喩えているのである。仏もまた同じである。偏っていることや円満なことが満足され、仏の心の中にある。衆生が仏を動かすことを許すならば、その説法は同じではない。善の衆生が動かせば、人天の教えを出し、析空観の衆生が動かせば、声聞と縁覚の二乗の教えを出し、体空観の衆生が動かせば、巧みな教えを出し、歴別の衆生が動かせば、漸次(段階的であること)の教えを出し、円頓の衆生が動かせば、無作の教えを出す。

また、二種の衆生が仏を動かせば、熟蘇味と醍醐味の教えを出し、一種の衆生が仏を動かせば、酪味の教えを出し、また四種の衆生が動かせば酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味の四味を出して乳味を除き、また三種の衆生が動かせば生蘇味・熟蘇味・醍醐味を出して、乳味・酪味を除き、また一種の衆生が動かせば醍醐味を出して他の四つの味を除く。

また次に三蔵教の道場で得るところの法は、乳が牛にあるように、道場を立って乳味の教えを説く。通教の仏の道場で得るところの法は、酪が牛にあるように、道場を立って酪味の教えを説く。別教の仏の道場で得るところの法は、五味が共に牛にあるように、道場を立って、次第の五味の教えを説く。円教の仏の道場で得るところの法は、醍醐が牛にあるように、道場を立って、醍醐味の教えを説く。

問う:『涅槃経』に「乳がゆを食べてそれ以上することがないようなものである」とある。まさにこれは乳味の教えのことであろう。

答える:乳には種類が多い。麁の牛が出す乳は、害をなす。善の牛が出す乳は、最も良い乳である。

問う:乳に多種あるならば、醍醐も一つではないだろう。

答える:経典に、阿羅漢や縁覚をもって醍醐としているものもある。このために優劣を知る。この中に大いに意義がある。よくこれを熟慮すべきである。

次の三つの意義があるために、考察するならば、以上のあらゆる説法は、迹であり本でない。一つは、今の世で完成されたものであり、二つは初めて説かれたものであり、三つは中間を権として排除する。中間に完成され、中間に説かれるものは、なお方便である。ならばどうして今の世で完成され、今の世で説かれたものが、迹でないことがあろうか。迹に執着すれば共に失い、迹を排除すれば共に理解できる。迹ではなく本ではなく、不思議の次元で一つである。

まあ次に、すでに説かれたものを迹とし、今説くものを本とする。すでに説かれたものは本、今説くものは迹、また共に迹共に本である。あるいは実が本であり権は迹の四句。本体の働きから事象と理法の四句(注:この最後の箇所は未完成と思われる)。

法華玄義 現代語訳 154

『法華玄義』現代語訳 154

 

⑤.広釈

本門の十妙の解釈における第五は、広釈である。本門の十妙の各項目について詳しく述べる。本がなければ迹が下されることはない。もし、よく迹を理解すれば、すなわちまた本も知る。しかしまだ理解できない者のために、さらに重ねて分別して説く。ただ本の極みにある法身は、微妙深遠である。仏がもしそれを説かなければ、弥勒菩薩でさえ理解できない。どうして下の世界にいる者たちが理解できようか。どうして凡夫が理解できようか。しかし、父母が亡くなることは見届けねばならないと同様に、妙来の功徳は知らなければならない。ここで概略的に経典の趣旨によって、その功徳に思いを寄せて述べる。

 

(1)本因妙

法華経』に「私が昔、菩薩の道を行じていた時に成就した寿命」とあるのは、慧命のことであり、すなわち本時の智妙のことである。「私が昔行じていた」とある「行」とは進むことであり、本因妙のことである。「菩薩の道の時」とは、菩薩は修行中の人であるので、位妙を表わす。この経文全体でこの智妙・行妙・位妙の三妙を証する。この三妙は、すなわち本時の因妙であり、迹門の因ではない。

迹門の十妙における因は多種である。あるいは『大智度論』に「昔、(今の釈迦は)陶師となって、前の釈迦仏に会い、草、燃えている灯火、砂糖水の三つをもって供養した。そして将来、父母の名前、弟子の名前、侍人の名前までも、すべて釈迦仏と同じ名前の仏となる」という誓願を立てた。すなわち、これは測ることができないほど昔の初発心である。煩悩を断じることについて明らかにされていないので、三蔵教の行の因の相である。

あるいは、ある文に「昔、婆羅門の学生となって、然燈仏に会い、五華を散じて供養し、髪の毛を敷いて足の泥をぬぐい、身を虚空に踊らして、無生法忍を得た。仏はそのため授記を与え、釈迦文と名付けた」とある。また『大品般若経』に「華厳城の中で授記を得る」とある。意義は同じである。煩悩を断じることを説いているので、通教の仏の因の相である。

あるいは、『悲華経』に「昔、宝海梵志(ほうかいぼんじ)となって、刪提嵐国(せんだいらんこく)の宝蔵仏の所で、大いに精進し、あらゆる方角の仏に華を送って供養した」とある。そして宝海梵志の子が出家して悟りを開いた。また宝海梵志は国王に勧めて出家させ、宝蔵仏はその国王に授記を与えた。それが阿弥陀仏であり、宝蔵仏はその師である。この功徳は不可思議である。このために、これは別教と円教の修行の因の相である。

次の三義のために、このあらゆる因は、すべて迹門の因であることがわかる。すなわち、第一に昔と言っても近い過去である。第二に浅深の違いがある。第三に退けられるからである。今の世の前、そして本が成就した後、すなわち中間の修行はすべて方便である。このために、迹門の因であることを知る。もし迹門の因を本門の因としてしまえば、迹門も本門も知らないことになる。天にある月を知らずに、池に映った光、月に生えているとされる桂、もしくはその輪を見ているだけのようなものである。光は智妙を喩え、桂は行妙を喩え、輪は位妙を喩える。もし迹門の中のこの三妙を知って、迹門を退けて本門を顕わせば、すなわち本地の因妙は、影から目を離して天を指し示すようなものであると知る。どうして盆の水に映った星だけを見て、天の川を仰がないのか。ああ、愚かな者にどうして道を論じられようか。

もしこの意義を得れば、迹門の本は本ではなく、本の迹は迹ではないことを知る。本と迹は異なっているといっても、不思議であり一つである。

問う:『法華経』に「昔(=本)、菩薩の道を行じた時」とあるのは、まさにこれは初住の位において真実の道を得る時のことであろう。中間はまさに他の行の位における道を進め、煩悩を断つ段階であるはずである。『法華経』の寂滅道場は、まさに最高の位の妙覚である。したがって、妙覚の本を顕わすならば、まさに昔の初住を指すべきではないか。これ以外にないのではないか。

答える:経文においても意義の上においても、それは言えない。『法華経』に「すべての諸仏のあらゆる道の法を行じる」とある。また「具足してあらゆる道を行じる」となる。すべての因を具足して備えているので、本因である。初住の位はすべてを備えているとは言えない。このために本因ではない。また中間の果はすべて権である。ましてや今の寂滅道場の果は、どうして実とすることができようか。また中間の果も権として結局退けられるならば、中間の因はなぜ実の因であろうか。このために、この問いの内容は不可である。

 

(2)本果妙

法華経』に「私が成仏してから今まで、非常に大いに久遠である」とある。「私」とはすなわち真性軌である。「仏」とは悟りの義であり、すなわち観照軌である。「今まで」とは、如実の道に乗じて、それによって悟りを成就する。すなわち応を起こすのであり、資成軌である。この三軌は成就して非常に長い期間が経過している。すなわち本果妙である。

本果が円満して、久遠の昔にある。今の迹が成就して本果となるのではない。迹が成就すれば、一種ではない。あるいは「菩提樹の下に坐って、三十四心(四教の蔵教の八忍・八智・九無碍・九解脱を合わせて三十四心という)に見惑と思惑を断じ、明らかに大いに悟り、世間と出世間のすべての諸法を覚知する。これを仏と名付ける。ただこの仏のみ存在し、あらゆる方角の仏はない。過去現在未来の三世の仏は、すべて他の仏であり、私の分身ではない」という。これは三蔵教の仏果である(注:この箇所は経典の引用のように見えるが、このような内容の経文は存在しない。これは三蔵教の仏果を説明するために創作された文である。以下も同じである)。

あるいは「菩提樹の下で天衣を座として、悟りを開く瞬間の智慧をもって、他の習気を断じて成仏することができた」という。『大品般若経』では、共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る智慧)を説く時、あらゆる方角に千の仏が現われ、質問する人は須菩提帝釈天などとする。これは他仏であって、「私」の分身ではない。これはすなわち通教の仏の果が成就した相である。

あるいは「寂滅道場で七宝華を座として、身は蓮台にふさわしく、千の葉の上にいる各菩薩たちに、さらに百億の菩薩がいる。すなわち全部で千百億の菩薩たちがいる。あらゆる方角に仏の眉間の白毫と分身の仏の白毫から光を放つ。白毫は蓮台の菩薩の頂に入り、分身の仏の光は華葉の菩薩の頂に入る。これは法王の職位を得ることである。諸仏の法の底まで究め、成仏することができる」という。華台を報仏と名付け、華葉の上にいる仏を応仏と名付ける。報仏・応仏は、ただ関係性があるだけであり、相即することはできない。これは別教の仏の果が成就した相である。

あるいは、「道場において虚空をもって座とし、一つが成就することはすべてが成就することである。毘盧遮那仏はすべての場所に遍く存在し、廬舎那仏と釈迦の成仏もまたすべての場所に遍く存在する。法身である毘盧遮那仏と、報身である廬舎那仏と、応身である釈迦仏の三仏が具足して欠けたところはなく、三仏相即して一つとなり異なるところはない。『法華経』において、八つの各方角に、それぞれ四百億那由他の国土に釈迦を安置することは、すべてこれは毘盧遮那仏である」という。『観普賢菩薩行法経』に「釈迦牟尼毘盧遮那仏と名付ける」とある。これはすなわちこれは円教の仏の果が成就した相である。

次の三つの意義があるために、このあらゆる果はみな迹門の果であることがわかる。一つは今の世に初めて成就するためであり、二つは浅深の違いがあるためであり、三つは中間を権として排除するためである。

もしこれが本果であるなら、なぜ今日、初めて成就するのだろうか。本果においては、一つの果はすべての果である。なぜ前後に差別があって、不同なのだろうか。今の世より前の本が成就した後、百千万億に因となる修行を通して果を得て、何度も生まれ変わることを現わすことがすべて中間であるならば、方便として排除する。釈迦が悟りを開いた寂滅道場の菩提樹も、なぜ迹でないことがあろうか。もし迹の果に執着してそれを本果とすれば、迹も本も知らないことになる。本から迹が現わされることは、月が水に映るようなものであり、迹を排除して本を顕わすことは、影から目を離して天を仰ぐようなものである。まさに今成就した果はみな迹の果であるとして排除し、久遠の昔に成就した果が本果であるとするべきである。このように理解すれば、中間の果についての疑いはたちまちなくなる。仏の寿命が非常に長いということに対する信心は、その意義も明らかである。迹の本は本ではない。本の迹は迹ではない。迹と本が異なっているといっても、不思議であり一つである。

法華玄義 現代語訳 153

『法華玄義』現代語訳 153

 

B.本門の十妙について

 

第二に、本門の十妙とは、本因妙・本果妙・本国土妙・本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本涅槃妙・本寿命妙・本利益妙の十種類である。

そして、この本門の十妙の解釈において、また十の項目を立てる。第一に略釈、第二に生起の次第、第三に本迹の開合を明らかにする、第四に引証、第五に広釈、第六に料簡、第七に麁妙、第八に権実、第九に利益、第十に観心である。

 

①.略釈

本門の十妙の解釈における第一は、略釈である。本門の十妙の各項目について概略的に述べる。

第一の本因妙とは、本初(ほんじょ・仏が悟りを求めようとした最も初めの時を指す。これは実際、人の智慧では理解できないほどの昔のことである。それが釈迦の生涯に具体的に人の智慧で理解できる形で表現されているとする)において、悟りを求める心である菩提心を発して、菩薩の道を行じて修したところの因のことである。十六王子が大通智勝仏の時に『法華経』を広めて結縁するようなことは、これは中間(注:本初から現在に至るまでの間という意味)の所作であって、本因とは言わない。本因は、娑婆世界を擦って墨とし、東に進みながら千の世界を過ぎた時に一点を下し、下した世界と下さない世界をすべて粉々にして塵として、その一つの塵を一劫として数えた歳月に、さらに百千万億那由他劫を過ぎた遠い昔のことである。二度とこの世に生まれ変わらない段階まで進んだ弥勒菩薩は、すべての実在について知り尽くす道種智をもって、ただすべての世界の数を数えても知ることができない。ましてや、その世界を結局は塵にした数など、どうして知ることができるだろうか。ただ如来だけが、巧みな喩えを用いて、その非常に遠い過去の相を顕わす。まして、この世の智慧をもって、巧みに計算できるだろうか。『法華経』に「私が仏の眼をもって、その久遠(くおん・この非常に長い時間を指す言葉)を見ると、なお今のようである」とある。ただ仏だけがよくこの久遠を知ることができる。その他のことはすべて迹の因であって、本因ではないのである。

もし中間の因に留まってしまえば、後に信じることが難しくなる。このために『法華経』において迹を除いて疑いを排除している。それは権であって実ではない。「私がもと菩薩の道を行じる時」とある時は中間の時ではない。これ以上に遠い昔に行じる道のことを本とするのである。これがすなわち本因妙である。

次の本果妙とは、本初に行じるところの円妙の因をもって、常・楽・我・浄を悟り得て究めることを本果という。寂滅道場の廬舎那仏の成仏を指して本果とはしない。また、中間の果を指して本果とはしない。ましてや、廬舎那仏が初めて成仏することをどうして本果とするだろうか。ただ成仏してから今まで、非常に遠く昔の成仏の果を指して、本果妙というのである。

第三の本国土妙とは、本初にすでに果を成就していれば、必ずその仏の国土がある。今、迹仏(しゃくぶつ・仏が相対的な次元に現われた姿)は浄土と穢土が同時にある凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)にある。あるいは、方便有余土と実報無障礙土と常寂光土の三土にある。中間にはまた以上挙げた合計四土がある。本仏(ほんぶつ・本初において悟りを開いた仏)にもまた国土があるはずである。ではどこにあるのだろうか。『法華経』に「成仏してから今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している」とある。この経文によれば、実に今日の迹仏の娑婆世界ではなく、また中間の権の迹の国土でもない。すなわちこれは本の娑婆世界であり、これが本国土妙である。

第四の本感応妙とは、すでに果を成就していれば、その本の時に証する二十五三昧・慈悲・四弘誓願」など、機と感が互いに関係し合うことにおいて、寂滅のようで、よく照らす。そのため本感応妙というのである。

第五の本神通妙とは、また昔の時に得た無記化化禅と、同じく本因の時のあらゆる慈悲が合わさって、施し教化するところの神通のことである。最初に悟りに導きやすい衆生を動かすために本神通妙というのである。

第六の本説法妙とは、すなわち昔に初めて道場に坐し、初めて悟りを成就し、初めて教えを施した四無礙弁(しむげべん・仏が何ら妨げなく教えを語る四つの能力のこと。言語を理解する①法無礙弁、教義内容を理解する②義無礙弁、あらゆる言語に精通する③詞無礙弁、巧みに教えを説く④弁無礙弁=楽説無礙弁)をもって説くところの教えを本説法妙というのである。

第七の本眷属妙とは、本時の説法にあずかった人々のことである。『法華経』に記されているところの、弥勒菩薩でさえ知ることのできない下方の世界にいる菩薩たちは、まさにこの本眷属である。

第八の本涅槃とは、本時に証するところの断徳涅槃(だんとくねはん・煩悩を断じ尽くした涅槃)のことである。またこれは本時の応が、凡聖同居土と方便有余土の二土にあって、縁があれば悟りに導き、そして滅度に入るということは本涅槃妙である。

第九の本寿命とは、すでに滅度に入ったという以上、本仏にも寿命の長短、遠い過去や近い過去というものがあるわけであり、それを本寿命妙という。

第十の本利益妙とは、本仏の業生・願生・神通生・応生の眷属で、最終的に得る利益が本利益妙である。

 

②.生起の次第

本門の十妙の解釈における第二は、生起の次第である。この十種の意義は、衆生の縁に応じて説かれており、経典の各文に散見できる。したがって、この十種を上記の順序で説く理由をここに述べる。

本因妙を最初に置く理由は、必ず因によって果が生じるからである。そして果が生じれば、国土がある。その国土に究極の果があるために、衆生を照らす。それによって衆生が動けば、教化を与える。教化を与える時、神通がある。神通によって道が開かれれば説法をする。説法を与える対象は眷属である。眷属が悟りを開けばそれは涅槃である。涅槃が成就する時、寿命の長短が現われる。長短の寿命が生じさせる利益については、仏の滅度の後の正法・像法などの利益がある。

このような意義は無量であるが、本門の十妙の十種としてまとめるために、次第を設けたのである。

 

③.本迹の開合

本門の十妙の解釈における第三は、迹門の十妙と本門の十妙の関係性について述べる。迹門の十妙の中では、因は境妙・智妙・行妙・位妙と開いて、果は三法妙として合わさる。習果の本果妙、報果の本国土妙・本涅槃妙・本寿命妙が合わさって三法妙となるのである。本門の十妙の中では、因の境妙・智妙・行妙・位妙は本因妙として合わさり、果は本果妙・本国土妙・本涅槃妙・本寿命妙と開く。習果の本果妙が開いて、報果の本国土妙を明らかにするのである。このように同異を述べるのは、意義の便宜によって、互いに取捨することがあるからである。

迹門の十妙の中では、詳しく境妙・智妙・行妙・位妙を明らかにする。本門の十妙の中では、概略的に述べて、みな本因妙としている。意義を理解すれば、その開合を知るであろう。本果妙とは、すなわち迹門の十妙の中の三軌妙である。本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙は、名称的には迹門の十妙と同じである。本門の十妙に本涅槃妙・本寿命妙として開くのは、久遠の諸仏の燈明仏、迦葉仏などの仏は、みな『法華経』において涅槃に入っているからである。その意義を考えると、本仏は必ず浄土におり、衆生も清浄である。また過去の事柄は成就したので、涅槃において本涅槃妙・本寿命妙として開くのである。迹門の十妙の中にこの二つの妙がないのは、釈迦は『法華経』において涅槃を説くといっても、『法華経』の中では滅度していない。このことは『涅槃経』に記されている。そのために迹門の十妙の中に説かないのである。本利益妙は迹門の十妙と同じである。

 

④.引証

本門の十妙の解釈における第四は、経文を引用して証する。経文と言っても、他の経典や同じ部類の経典の経文は引用しない。ただ『法華経』の本門の経文を引用して、この十種を証する。

しかし、『法華経』の「薬王菩薩本事品」には、昔、『法華経』には大河の砂の数をさらに数千兆倍したほどの偈があったと記されている。今の『法華経』の仏は、霊鷲山において、八年間にわたって説法したことが記されている。インドの原典のことは、どうして完全に知ることができるだろうか。この中国の辺鄙な場所では、その大意を知るだけである。人は『法華経』の七巻(注:現在流通している『法華経』は八巻である)を「小経」としている。インドの原典は膨大である。どうして語ることができるだろうか。しかし、それに比べれば数紙に過ぎない中であっても、この十種の証明は備わっている。経文に「私は昔、菩薩の道を行じる時、成就した寿命はまだ尽きていない」とある。これはすなわち本因妙を行ずることである。

経文に「私が実に成仏してから数えきれないほどの年月が経過している」とある。また「私が実に成仏してから今まで、久遠であることはこのようである。ただ方便をもって衆生を教化して、この説法をした」とある。これはすなわち本果妙である。

経文に「私は娑婆世界において、最高の悟りを得て、このあらゆる菩薩を教化し導いた」とある。また「その時から今まで、私は常にこの娑婆世界にいて、説法教化している。また他の場所においても衆生を導き利益を与えている」とある。この国土はまた今の娑婆世界ではない。これはすなわち本国土妙である。

経文に「もし衆生がいて、私の所に来るならば、私は仏の眼をもって、彼らの信心などの能力の高低を観じる」とある。これはすなわち本時に衆生を照らす智慧である。これは本感応妙である。

経文に「如来の秘密の神通力」とある。また中間(注:本からすでに時が経過している期間、あるいはその期間についての文のこと)の文に「あるいは自身の身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自分のことを示し、あるいは他人のことを示す」とある。すなわちこれは形を十法界に現わして、あらゆる姿となることである。本においても同様である。これは本神通妙である。

経文に「この多くの菩薩たちは、すべて私が教化した者たちであり、仏道に対する大いなる心を起こさせたのである。今、すべては退くことのない位にあり、私の道の教えを修学している」とある。また中間の文に「あるいは自分のことを説き、あるいは他人のことを説く」とある。本においても同様である。これは本説法妙である。

経文に「この多くの菩薩たちは、身体はみな金色であり、下方の空中に住む。これらは私の子である。私は久遠の昔から今まで、彼らを教化した」とある。これは本眷属妙である。

経文に「またこれを涅槃に入ると言う。このようなことはみな方便によって分別する」とある。また「今、本当に滅度することではないが、まさに滅度すると説く」とある。過去からの仏と衆生の縁が尽きれば、滅度すると説く。中間にすでに涅槃を称えるのであれば、本もまた同様である。すなわち本涅槃妙である。

経文に「あらゆる所に自分の名前の不同、年齢の大小を説く」とある。「年齢」とは寿命のことであり、「大小」とは長短、常、無常のことである。中間にすでにこのことがあれば、本の寿命もまた同じである。すなわち本寿命妙である。

経文に「また方便をもって微妙の教えを説き、よく衆生歓喜の心を起こさせる」とある。これは中間の利益である。また「仏の寿命の劫数が非常に長いことはこのようなことであると説くことを聞いて、数えきれないほどの衆生は大いに利益を得た」とある。これは迹門の中の利益である。迹門と中間とすでにこのようであるならば、本もまた同様である。すなわちこれは本利益妙である。

このように、十種の根拠は経典によることであり、人によって造られたものではない。