大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 196

『法華玄義』現代語訳 196

 

第三目 褒貶抑揚教の批判

第三に、褒貶抑揚教は「第三時」であると主張する人々は、次のように言っている。仏の寿命は七百阿僧祇(ななひゃくあそうぎ・『首楞厳三昧経』に釈迦の寿命がこのように記されている。阿僧祇も数えきれないほどの長い時間を指す)といっても、なおこれは無常であって、常住を明らかにしていない。このように、第三時の教えは、ただ小乗を責めたり大乗を褒めたりするだけの教えであると主張している。しかしこれは受け入れられない。

そうならば、今、問う。第三時だとする『般若経』を説く時、あらゆる大弟子(注:=小乗の人)は、みな自らもその教えを説法するではないか。願ってそれを受け取ったということではないが、すべて詳しく菩薩の法門を知っている。どうして、小乗であることを叱られ、茫然として、何の言葉だかわからない、というようなことがあろうか。したがって、次のことを知るべきである。褒めたり責めたりすることは、『般若経』の後にはあり得ないのである。したがって、第三時ではない。また、第三時だとする『維摩経』では、大乗の弥勒菩薩などもまた論破されている。どうして小乗の声聞だけであろうか。

もし、仏の寿命が七百阿僧祇と説かれているということを論拠とするならば、これも誤りである。『維摩経』に、「仏身は無為であって、数で表現できない。金剛の身体は、なぜ病み、なぜ悩むだろうか。衆生を悟りに導くために、そのことを表わすのみである」とあり、経文に仏の寿命を金剛に喩えている。しかし三時教を主張する人は、仏の寿命は七百阿僧祇と説かれているという。さらに『涅槃経』においても、金剛は説かれているのである。それでは、常住とはいったい何であるのか。

また「身を観じれば実相である。仏を観じてもまた同じである」とある。また「不思議解脱に三種ある。真性、実慧、方便である」とある。すなわちこれは三因仏性の意義である。またかつ「煩悩の種類は如来の種である」とある。これはどうして正因仏性でないことがあろうか。「痴愛を断じないままで、あらゆる智慧と解脱を生じる」とある。智慧は了因仏性である。解脱は縁因仏性である。この三つの意義は明らかである。これを無常と判断すれば、『涅槃経』の三因仏性は、どうして常住であると言えようか。

 

第四目 同帰教の批判

第四に、同帰教を主張する人々は、次のように言っている。同帰教は、まさしくすべての善(注:修行のこと)を収束して一乗に入れるが、まだ仏性を明らかにしていない。さらに、神通力をもって仏の寿命を延ばし、大河の砂の数を過ぎ、その数の倍とするが、まだ常住を明らかにしないという。しかしこれは誤りである。

法華経』に、一つの「相」と「性」は、一つのところから生じることを明らかにしている。「その説くところの法は、みなすべて一切智地に至る」とある。「方便品」に「仏の知見に開示悟入する」とある。『華厳経』に、仏の智慧を明らかにしても、なお菩薩の智慧を帯びている。菩薩の智慧は爪の上の土のようであり、如来智慧はあらゆる方角の国の土のようである。『法華経』にはもっぱら仏の智慧を説くのみである。それはあらゆる方角の国の土のようである。それが常住でなければ、『華厳経』の爪の上の土は、どうして常住を明らかにするのであろうか。

また『華厳経』には、初めて道場に座り、初めて悟りを成就する。成仏した時点はとても近い。『法華経』は、仏は久遠の昔に悟りを開いたことを明らかにしている。中間、そして現在は、すべてみな迹である。しかも迹の中に常住を説く。それならば、本地の教えはどうして常住を明らかにしないであろうか。また『無量義経』に「華厳経では、長く多くの修行を説くが、まだこのような非常に深い無量義経は説いたことがない」とある。「非常に深い無量義経」と、自ら非常に深いことを明らかにしている。とても深い経典が、『法華経』の前に説かれた方便であるので、『法華経』で常住を明らかにしなことがあろうか。もし常住の言葉が『法華経』に少ないというならば、天子の一言は、勅命ではないのであろうか。

法華経』に「世間の相は常住である」とある。また「無量阿僧祇劫の寿命は無量であり、常住にして滅びることはない」とある。迦耶城の寿命および、釈迦が過去世に何度も示現したということは、応仏の寿命を表わす。「阿僧祇の寿命は無量である」とは、報仏の寿命である。「常住にして滅びることはない」とは、法身仏の寿命である。これで三身仏は明らかであり、常住の意義は十分である。

『法華論』に「三種の菩提を示し現わす。一つは応化仏の菩提である。まさに見ることができる所に従って、そのために姿を示し現わす。釈迦は宮を出て、伽耶城(がやじょう)からそれほど遠く離れていない場所にある道場に座って最高の悟りを得たということが、これである。二つは報仏の菩提である。十地の位を満たし、常住の涅槃を得ることをいう。経文に、『私が成仏してから今まで、無量無辺百千万億那由他劫である』とある。三つは法身仏の菩提である。如来蔵、性浄涅槃、常に清浄不変であることをいう。経文に『如来は真実に三界の相を知見する。三界の人が三界を見るようではない』とある。衆生界はそのまま涅槃界であることをいう。衆生界を離れないまま、それは如来蔵である」とある。

また「私はあえてあなたたちを軽蔑しない。あなたたちはまさにみな仏となるからである」とある。すなわちこれは正因仏性である。また「衆生に仏の知見を開かせるためである」とある。すなわちこれは了因仏性である。また「仏の種は縁より起こる」とある。すなわちこれは縁因仏性である。

『法華論』にまた三種の「仏性」を明らかにしている。『法華論』に「ただ仏如来のみ、大菩提を証する」とある。究竟してすべての智慧を満たすために、「大」という。「私はあえてあなたたちを軽蔑しない。あなたたちはまさにみな仏となるからである」ということは、あらゆる衆生に仏性があることを示している。経論に明らかな典拠がある。どうして『法華経』に仏性がないというのだろうか。

また『涅槃経』に「この経が世に出ることは、その果実のようである。衆生に利益を与えるところが多い。すべての人々を安楽にし、よく衆生如来の本性を見せる。法華経の中の八千人の声聞は、仏になる授記を得て、大いなる果実を成就した。秋に収穫して冬に蔵に収め、それ以上することがなくなったようなものである」とある。もし八千人の声聞が『法華経』の中において仏性を見ることがなければ、『涅槃経』にこのように記されるわけがない。明らかな経文の証明がある。なぜこれ以上煩わしく誤った解釈に執着することがあろうか。

また『涅槃経』の「二十五巻」に、「究竟畢竟とは、すべての衆生が得る一乗のことである。一乗とは仏性と名付ける。この意義のために私はすべての衆生に仏性があると説く」とある。すべての衆生にみな一乗があるために、『法華経』は一乗の経典である。『涅槃経』と深く一致する。

『涅槃経』はなお三乗の悟りを帯びている。しかし『法華経』は純一無雑である。『涅槃経』はさらに迹を起こしていない。『法華経』は本を表わす意義が明らかである。

仏はあらゆるところで「生」を説き、あらゆるところで「滅」を現わす。未来も常住であり、三世に利益を与える。衆生は仏の身が焼かれることを見ても、仏の国は壊れない。どうしてわざわざ神通力をもって寿命を延ばし、最後は滅び尽きることがあろうか。このようにして神通力をもって寿命を延ばす意義を破る。

法華玄義 現代語訳 195

『法華玄義』現代語訳 195

 

第三節 難を明らかにする

難を明らかにするにあたって、まず南地の五時教を批判する。その意義が成就しなければ、同様に他の四時教と三時教も破られることになる(注:前に述べられていたように、南地は、三時と四時と五時の教判であり、これを南三という。ただし、この箇所では、順番が前の記述と真逆となっている。それは意図的なことであり、同様に破られることになるとあるように、五時教判の中に三時と四時が含まれているからである)。

 

第一項 南地の批判

第一目 有相教の批判

もし十二年の前を有相教と名付けるならば、成実宗の論師は、自らの論を否定することになる。『成実論』に「私は今、正しく三蔵の中の真実の意義を明らかにしようとする。真実の意義とは、いわゆる空である」とある。「空」とは無相でないことがあろうか。三蔵教は前の十二年の教えではないだろうか。

また『阿含教』の中に、「これは老死である。誰が老いて死ぬのか。この二つはみな邪見である」とある。「老死」がないのは法空である。「誰が老いて死ぬのか」ということがないのは生空である。三蔵教の中で自らこの二空を説く。二空は無相でないことはない。

また『大智度論』に「三蔵教の中には法空を明らかにして大空とし、大乗の中には十方空を明らかにして大空とする」とある。すでに「法空」をもって「大空」とする。すなわち大無相である。

また釈迦は悟りを開いて六年後に、『殃掘摩羅経(おうくつまらきょう)』を説き、空を最も重要なこととして説いている。これが無相でなければ、何が無相だろうか。

また『大智度論』に「釈迦が悟りを開いた夜から涅槃の夜に至るまで、常に般若を説く」とある。般若はすなわち空の智慧である。

また次に、前の十二年を有相教と名付けるのならば、悟りを得たということなのだろうか。悟りを得なかったということだろうか。もし悟りを得たとすれば、『成実論』の教えに背く。論師は「有相の四諦は、心を整える方便である。真実に悟ることはない。必ず平等なる空を見て、よく悟りを得ることができる」と言っている。すでに有相と言えば、なぜ悟りを得ることができるのだろうか。またもり悟りを得ていないのならば、その教えは必要ない。

また『大集経』に「憍陳如などの五人は、最初に仏の教えにおいて、寂然として声も文字もなく、真実の知見を得た」とある。「最初に」とあるのは、前の十二年に悟りを得たということではないだろうか。

また、もし悟りを得ているならば、教えは無相と同じとなる。もし悟りを得ていなければ、教えは邪説と同じである。また、もし悟りを得ているなら、何の道を得ているのか。もし空を見て悟りを得ているならば、かえって無相に同じである。もし空を見ずに悟りを得ているならば、九十五種の外道と同じである。仏の道を得るのではない。有相の教えには、具体的に二つの誤りがある。

 

第二目 無相教の批判

第二に、十二年の後(注:三蔵教が説かれた十二年が終わった後という意味)を無相教と名付けることを批判する。

このことを主張する人々は、次のように言う。空を明らかにして無相を説いても、まだ仏性・常住を明らかにしていない。なおもこれは無常の身を持った八十歳で亡くなる仏である。また会三帰一をしていない。また二乗を責め、一乗を褒めたりなどしていないと言っている。

しかしこれは理解できない。もし無相と言うならば、どうして無常を退けないのか。無常という相があるならば、どうして無相というのか。もし仏性・法身の常住を明かさないと言えば、無相を説く般若は常住とは関係ない教えとなる。それでは、三乗が共に学ぶ共般若は仏性・法身の常住などではないことになる。ましてや菩薩だけが悟る不共般若は、どうして仏性でないのであろうか。

『涅槃経』に「仏性に五種の名称がある。また首楞厳(しゅりょうごん)とも名付け、般若とも名付ける」とある。般若はすなわち仏性の異名である。どうして仏性でないと言えようか。彼は擁護して「経典に仏性と称し、また般若と名付けるのは、三徳の般若である。なぜ無相の般若に関係するだろうか」と言っている。もしそうならば、『涅槃経』の第八巻にどのような意味で「私は先に摩訶般若の中において、我と無我と、その性は不二であると説いた。不二の性は、すなわち実性、実性の性は、すなわち仏性である」と言っているのか。このように広く経文を見れば意味は明らかである。何の意味で仏性ではないと言うのか。

また、『涅槃経』の仏性は、ただ法性常住であり、変易(へんにゃく)しない。『般若経』に実相・実際(実相の異名)は不来不去であるということは、仏の無生の法であり、無生の法はすなわち仏であると明らかにする。この般若と仏性の二義はどうして異なるだろうか。このために知る。法性・実相は、すなわち正因仏性(衆生に誰でも本来そなわっている仏の因)である。般若の観照は、すなわち了因仏性(悟りを開く智慧)である。般若以外の五波羅蜜が般若を助け発することは、すなわち縁因仏性(智慧を助け悟りの縁となる行)である。この三般若(実相般若、観照般若、文字般若)と『涅槃経』に説かれる三因仏性と、何が異なるだろうか。『金剛般若論』に「有漏の業である福は悟りに導かない。経の受持と読誦は悟りに導く。相好の仏を生じる因となり、法身の仏を悟る因となる」とある。実相の了因は、よく悟りに導く。どうして仏性でないだろうか。

ただ名称は異なっているが、意義は同じであることは、前に分別した通りである。なぜ釈提婆那民(しゃくだいばなみん・帝釈天の異名)を聞いて、帝釈天ではないと言えるだろうか。この誤りはこれに似ている。

もし無常の八十歳で亡くなる仏の教えは、仏性・常住ではないと言えば、『涅槃経』に「八十歳の仏は背中の痛みという病があった。沙羅双樹の下で入滅した」とある。なぜこれで常住を讃嘆し、仏性を説くだろうか。『大智度論』に「仏に生身と法身がある。生身は人の常識に同じく、寒い暑いがあり、病気を患い、馬の麦を食べ、乳を乞食しなければならないなどの苦難がある。法性身の仏は、その光明は無辺であり、その姿も無辺である。尊く優れた身体は、虚空のようである。その仏は法性身の菩薩のために教えを説く。聴衆は生死の身ではない」とある。ましてや仏は生死の身ではない。また『大智度論』に「また、生身の仏の寿命は有限であり、法身の仏の寿命は無量である」とある。どうして無常の八十歳で亡くなる身をもって、法身に加えることができようか。小乗の中に、法身はやはり滅びないという。舎利弗の弟子の均提沙弥(きんだいしゃみ)が憂い悩んだようなものである。均提沙弥に仏は「あなたの師である舎利弗の戒身(戒律、禅定、智慧、解脱、解脱知見の五分法身の一つ)は滅びるか」と問うと、「いいえ」と答えた。そして最後の「解脱知見は滅びるか」と問うと、「いいえ」と答えた。どうして般若は法身であって同時に無常であると言うのか。

もし『般若経』に三乗を開会することがないと言うならば、どうして「問住品」に「あらゆる天子が、まだ最高の悟りを求める心を起こしていなければ、まさに起こすべきである」というのか。また「もし声聞の正式な位に入るならば、この人は最高の悟りを求める心を起こすことはできない。どうしてか。生死のために妨げとなってしまうからである。しかし、この人が最高の悟りを求める心を起こせば、私もまた随喜する。どうしてか。上を目指す人はさらに上の教えを求めるべきである。私は終わりまで、その功徳を断じない」とある。もし声聞が上の教えを求めなければ、どうして随喜するのだろうか。すでに上の教えを随喜するならば、これは三乗を開会することである。

もし『般若経』に二乗の人を責めることはないと言えば、『大品般若経』に「二乗の智慧は、なお蛍の光のようである。菩薩が一日、智慧を学ぶことは、太陽が天下の四つの大陸を照らすようなものである」とある。また第十三巻に「たとえば、犬が立派な家に行って食べ物を求めず、かえって労働者に近づいて求めるようなものである。来世の善男善女は、深い般若を捨てて、枝葉に登り、声聞と縁覚の行なう経を取る」とある。また「象を見ようとしてその足跡を見るのは愚か者と名付ける」とある。攻めの言葉がこれよりひどいものがあろうか。どうして責めることがないと言うのか。

もし『般若経』は第二時の教えであると言い、その論拠として、多くの天子が仏に「第二の法輪が転じるのを見る」という文を引用するならば、他の経典には「第二の法輪」ということがないはずである。しかし、どうして『般若経』だけが第二の法輪であろうか。たとえば『維摩経』に「最初、仏は道場の樹の下に座って、力をもって魔を降し、甘露の滅を得て、悟りを成就した。そして説法は有でもなく、また無でもない」とある。このように二つの説法が相対するならば、また第二の法輪が説かれたはずである。『法華経』には「昔、鹿野苑において四諦の法輪を転じた。今またさらに最上の法輪を転じる」とある。また『涅槃経』に「昔、鹿野苑において、初めて法輪を転じると、八万の天人は、須陀洹果を得た。今、拘尸那掲羅(クシナガラ)において、法輪を転じる時、八十万億の人は不退転を得た」とある。各経典にはみなこの主旨がある。これらはみな第二の法輪であるはずである。どうして『般若経』だけであろうか。

もし十二年の後に無相教を説くと言えば、なぜ悟りを得た夜と入滅の夜に、同様に『般若経』を説くことができるだろうか。このために知る。無相教の誤りも大変多い。

法華玄義 現代語訳 194

『法華玄義』現代語訳 194

 

第二節 異解を出す

異なった解釈を挙げることにおいて、十種ある。いわゆる「南三北七(なんさんほくしち・天台大師当時、教判における十種の説が、揚子江流域の三人と、黄河流域の七人によって主張されていたことによる)」である。南北の地においては、共通して三種の教相を用いている。一つは頓教、二つは漸教、三つは不定教である。

華厳経』は菩薩を教化するために、日の出の太陽がいきなり高山を照らすようであるため、頓教と名付ける。

三蔵教は小乗の人を教化するために、まず半字(はんじ・円満でない偏った教え)を教えるため、有相教と名付ける。その十二年の後に、大乗の人のために、五種の『般若経』(注:『摩訶般若波羅蜜経』、『金剛般若波羅蜜経』、『天王問般若波羅蜜経』、『光讃波羅蜜経』、『仁王般若経』)と、常住の教えを説くことを無相経と名付ける。これは共に漸教と名付ける。

さらに別に一つの経典がある。頓教でもなく漸教でもないが、仏性・常住の教えを明らかにする。『勝鬘経』、『金光明最勝王経』などがこれである。これを偏方不定教と名付ける。

この三つの意義は、共通に用いられる。

南三北七の第一は、虎丘山(こきゅうざん)の笈師(ぎゅうし)の「三時教」である。頓教と不定教については、前の説と同じであるが、漸教をさらに三つに分ける。前の十二年(注:上に記されているように、三蔵教は十二年間説かれた教えであり、その後に大乗仏教の教えが説かれたとする。そのため、これ以降も多く記されることになるが、「前の十二年」とは、三蔵教を指す言葉である)の三蔵教が有を見て道を得ることを明らかにする教えを有相教と名付ける。十二年の後から『法華経』に至るまでを区切って、空を見て道を得ることを明らかにする教えを無相教と名付ける。最後に沙羅双樹の林で、すべての衆生の仏性と、一闡提も仏となることを明らかにする教えを、常住教と名付ける。

第二は、宗愛法師(しゅうあいほっし)法師の「四時教」である。頓教と不定教については、前の説と同じであるが、漸教を四時教に判別する。すなわち荘厳寺僧旻師(そうごんじそうびんし)が用いるところである。三時教は前の説と同じである。さらに無相教の後、常住教の前において、『法華経』において会三帰一して、すべての善を悟りに向かわせることを指して同帰教と名付ける。

第三は、定林寺の僧柔と慧次の二師、および道場寺の慧観法師の「五時教」である。頓教と不定教は前と同じである。さらに漸教を判別して五時教とする。すなわち、開善寺の智蔵と光宅寺の法雲の用いるものである。その中の四時教は前と同じである。さらに無相教の後、同帰教の前に『維摩経』、『思益教』などのあらゆる方等経典を指して、褒貶抑揚教(ほうへんよくようきょう・小乗を蔑み大乗を宣揚する教えという意味)とする。

(注:以上が「南三」である。続いて「北七」となる)

第四は、北地師もまた「五時教」を作る。『提謂波利経(だいいはりきょう)』を人天教とし、『維摩経』、『般若経』を合わせて無相教とする。他の三つは、南地師と異ならない。

第五は、菩提流支(ぼだいるし)は、「半字教」と「満字教」を説く。前の十二年は、みな半字教であり、十二年の後は、みな満字教である。

第六は、仏駄三蔵(ぶっださんぞう)に学んだ光統(こうず)が説いたものであり、「四宗」をもって教えを判別する。一つめは「因縁宗」である。これは『阿毘曇論』の六因(能作因、俱有因、同類因、相応因、遍行因、異熟因)と四縁(因縁、等無間縁、所縁縁、増上縁)を指す。二つめは「仮名宗」である。これは『成実論』の三仮(因成仮、相続仮、相待仮)を指す。三つめは「誑相宗(おうそうしゅう)」である。これは『大品般若経』と龍樹の『中論』、『十二門論』と提婆の『百論』を指す。四つめは「常宗」である。これは『涅槃経』、『華厳経』などで、常住の仏性は本来自然と清浄であると説くことを指す。

第七は、ある師は、「五宗教」を開く。四つの意義は前と同じである。さらに『華厳経』を指して、「法界宗」とする。すなわち護身寺の自軌師が用いるところである。

第八は、ある師は、光統について「四宗では収めきれないものがあるので、さらに六宗を開く」という。『法華経』の万善同帰教の「諸仏の法は長い時間の後、必ずまさに真実を説くであろう」ということを指して、「真宗」と名付ける。『大集経』が説くところの、煩悩に汚れたものと清浄のものが共に融合し、法界に遍く円満することを「円宗」と名付ける。他の四宗は前と同じである。すなわちこれは、耆闍寺安凛(ぎじゃじあんりん)の用いるところである。

第九は、北地の禅師は、二種の「大乗教」を立てる。一つめは「有相大乗」であり、二つめは「無相大乗」である。有相大乗とは、『華厳経』、『瓔珞経』、『大品般若経』などに、菩薩の位として十地の功徳の修行の相を説くものを指す。無相大乗とは、『楞伽経』、『思益経』に、真実の教えに位の階位などはなく、すべての衆生はそのままで涅槃の相であると説くものを指す。

第十は、北地の禅師は、四宗・五宗・六宗・有相大乗・無相大乗・半字教・満字教などの教えではなく、ただ一仏乗のみであり、二乗もなく、また三乗もないとする。仏はただ一つの声である一音(いっとん)で法を説くが、聞く者によって異なった解釈をする。諸仏は常に一乗を行じるが、衆生は三乗と見る。ただ「一音教」があるのみとする。

以上、異解を出すことを終わる。

法華玄義 現代語訳 193

『法華玄義』現代語訳 193

 

第五章 判教

 

『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第五章は、「判教」である(注:教相判釈・教判・判教などはすべて同じ意味であるが、五重玄義の項目の題としては、「教を判ず」という意味で、「判教」と表現される)。

もし他の経典を広めるに際し、その教相を明らかにしなくても、その意義において傷つくことはない。しかしもし『法華経』を広めるに際し、その教えを明らかにしなければ、文義に欠けてしまう。ただその聖なる意義は隠れており、教法はさらに難しい。前代の諸師は、あるいは優れた学者の説を継承し、あるいは思いに秘めた。その意義は非常に多様であり、どれが正しいものかわからない。しかし、意義は並び立つわけがなく、理法は二つあるわけがない。もし深い真理が隠されており、また経として成り立つならば、文字に記されて用いられるはずである。文もなく意義もなければ用いられるはずがない。南嶽大師は、心に証するところがあった。また経論を照らし合わせて、仏の言葉に従った。天台大師はそれを伝えて従い用いた。

概略的に教相を明らかにするにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、大意であり、二つめは、異解を出し、三つめは、難を明らかにし、四つめは、研詳去取であり、五つめは、教相を判ずである。

 

第一節 大意

大意とは、仏は名称や形態を超越した真理について、名相を借りて説く。他の経典を説くにあたって、それぞれ衆生の能力に従って利益を取らせる。『華厳経』が、最初に円教と別教の能力の衆生に合わせて説き、太陽が昇って最初に高山を照らすようにし、ただちに次第と不次第の修行、円教の初住より上、別教の初地より上の功徳を明らかにして、如来の頓を説く意義を述べた。

『四阿含経』を説くことについては、『増一阿含経』には人天の因果を明らかにし、『中阿含経』には真寂の深い意義を明らかにし、『雑阿含経』にはあらゆる禅定を明らかにし、『長阿含経』には外道を破る。しかも共通して無常を説き、苦諦を知り、集諦を断じ、滅諦を証し、道諦を修行させるけれども、如来が巧みに小乗を施している意義を明らかにはしていない。

あらゆる方等教については、小乗を退け偏った教えを非難し、大乗を歎じて円教を褒め、慈悲行や誓願があり、事象的および理法的に優れているが、四教が並んでいる意味と、小乗を退け大乗を讃嘆する理由を明らかにしていない。

般若経』については、通教を論じれば三乗の人は同じく入り、別教を論じれば菩薩が一人進む。広く五陰・十二因縁を経て、すべて清く虚空のように融合しているが、また通教と別教と円教の意義を明らかにしていない。

『涅槃経』については、『法華経』の後において、概略的に無常・無我・苦を退け、ほぼ五味の教えを述べるが、また詳しく如来の根源から始まって要点を結ぶことを説かない。

およそこれらの経典は、みな衆生の能力に合わせて与え、人々に利益を得させるものである。仏の真意について語ってはおらず、その意趣はどこに行っているのだろうか。

しかし『法華経』はそうではない。法門の網目を掛けて、大小の観法、十力、四無所畏などあらゆる規定は、みな述べていない。前の経典で述べているからである。

ただ説くところは、如来の教えの根源にあるもの、中間における衆生を観じ利益を与えること、時にかなう漸と頓、一大事因縁、最終的な究竟的教え、説教の枠組み、大いなる方便についてである。

(注:「しかし『法華経』はそうではない」からここまでの原文を記すと、「今経はしからず。この法門の網目をかけて、大小の観法、十力、無畏、種々の規矩は、みな論ぜざるところなり。前の経にすでに説くための故なり。ただ如来の教を布くの元始、中間の取与、漸頓時に適うこと、大事の因縁、究竟の終訖、説教の綱格、大化の筌罤を論ずるのみ」となる。確かに、『法華経』を初めて読む人のほとんどが、この経典の中に理論的な教理らしい教理が記されていないことに違和感を覚える。しかしそのような感想を持ってしまうのはある意味、正しいのである。ここに『法華経』には、「如来の教を布くの元始、中間の取与、漸頓時に適うこと、大事の因縁、究竟の終訖、説教の綱格、大化の筌罤」が記されているとあるが、それらも教えられなければ、ただ『法華経』を読んだだけでは知る由もない。では、その『法華経』より前に説かれた(何度も述べているように、このような解釈は歴史的事実に反するが)経典には、何が記されているのか。それを『法華玄義』では、十巻もの長い紙面を費やして、蔵、通、別、円の四教の分類に基づいて懇切丁寧に記しているのである。そしてそれらをまとめて、つまり絶待妙と相待妙の理論によって開会し、すべての教えが、人々がみな仏になるという「一乗」の教えに至る、と説く経典が『法華経』なのだ、というのである)。

この過去の因縁が濃厚な者は、最初に直ちに頓を与えられ、ただ菩薩の修行の位の功徳が明らかにされるが、言葉は小乗にさえ及ばない(注:言葉によって悟るのではなく、過去の因縁によって悟るためである。ここに、現在に至るまで頓教の代表とも言える禅宗で、『華厳経』が好んで読まれる理由が見出される)。『法華経』の経文に「初めて私の身を見て、私の説くところを聞いて、すぐにみな信じ受けて、如来智慧に入る」とある。しかし、このことに耐えられない者には、無量の神徳を隠して、貧しい者の願うところの法をもって、方便を用いて近づき、語って勤めさせる。また経文に「私がもし仏の教えを讃嘆すれば、衆生は苦しみに沈むであろう」とある。このような人は、まさにこの法をもってしばらく仏の智慧に入るべきである。すでに道を得終われば、適宜に必ず捨てるべきものは捨てるべきである。まさに方等教が、大乗をもって小乗を破るようなものである。また経文に「ねんごろにこれを責め終わって、珠を示す」とある。もし通教を兼ねるのが適宜ならば、半満(円満ではないがある程度真理に合致しているという意味)をもって清める。『大品般若経』に教えの相に執着することを退けて、その根本に導くようなものである。経文に「人々を導き、険しい道を過ぎようとする」とある。

この難を過ぎ終わって、『法華経』の真理を定めるのに、父と子の関係をもって表わし、これを付与するのに家業をもって表わし、これを用いるのに権と迹をもってし、これを顕わすのに真実の本をもってする。まさに知るべきである。この『法華経』は、ただ如来の教えを設けるのに、大綱を論じるのみであり、詳細の網目は詳しくは述べない。たとえば、数字を数える者が、まず数字を計算して出し、大きな数字だけを残して、端数は捨てるようなものである。このために『無量義経』に「無量義とは、一法より生じる」とある。すなわち、一仏乗において、分別して三乗と説く。これはまず数字を出すことに喩えられる。もし無量を収めて一つとし、三乗を合わせて大乗に帰すならば、これは、端数は除いて、ただ大きな数字だけを記すだけということに喩えられる。

このような意義は、みな法身の地にあって、寂静であってしかも常に照らす。初めて菩提樹の下で大乗の機(人の能力)に与えるのであり、小乗の機に与えるのではない。仏の智慧が機を照らすことは、菩提樹の下が初めてではなく、久遠の昔からのことである。経文に「ただ一大事因縁をもって、世に出現したのである」とある。これは久遠の昔から、大乗を照らしていることを表わす。経文に「厳かに方便を称賛する」とある。これは久遠の昔から、小乗を照らすことを表わしている。経文に「諸仏の法は久しくして後、必ずまさに真実を説くであろう」とある。これは久遠の昔から、小乗を開会して大乗に帰することを表わしている。「信解品」に「獅子の床に座り、子を見てすぐに我が子だと知る」とある。この言葉は、久遠の昔から大乗の機を見ることを表わしている。「窓から遠くその子を見る」とあるのは、久遠の昔から小乗の機を見ていることを表わしている。「密かに二人を遣わして、方便をもって近づいて、話しかけて勤めて働かせる」とある。これは久遠の昔から、必ず三乗を開くべきことを計画されていたことを表わしている。「心も体も整って、金銭の出入にも滞りがない」とは、久遠の昔から、適宜に導かれていたことを表わしている。「すべての物を知り尽くしている」ということは、久遠の昔から適宜に動かすことを表わしている。「後に家業を委ねた」とあることは、久遠の昔から教えや修行を適宜に動かしていることを表わしている。

まさに知るべきである。仏の心は深遠であり、弥勒菩薩もそのなされる因縁を知ることができない。ましてや位が低い二乗や凡夫はなおさらである。経文に「ただ私だけがこの相を知る。あらゆる方角の仏も同じである」とある。

また、「昔説き、今説き、これから説くであろう教えの中において、法華経が最も信じがたく理解しがたい」とある。『法華経』以前の経典は昔説かれた教えであり、随他意(ずいたい・相手の能力に合わせて説く教え)である。これは仏の真意について語らないために、信じやすく理解しやすい。『無量義経』は今説いている教えであり、またこれも随他意であるため、まあ信じやすく理解しやすい。『涅槃経』はこれから説く教えであり、すでに聞いている教えなので、また信じやすく理解しやすい。

まさにこの『法華経』を説こうとすれば、疑いから生じる質問が度重なる。具体的には迹門と本門の文にある通りである。質問を受けて説く時、ただこれは教えの意義を説くのである。教えの意義は仏の真意である。仏の真意は仏の智慧である。仏の智慧は非常に深い。このために説く前に、仏は三回拒否し、舎利弗は四回願った。このような困難は、他の経典と比べれば、他の経典はやさしい。釈迦が最初に道場に座って悟りを開いた時、梵天王が教えを説くことを願ったというようなことは、ただ教えを説くことを求めたということのみで、疑いから生じる質問などではない。あらゆる方便を説くことは、経文を見てわかる。『大品般若経』を説く時、なお梵天の求めに報いている。

ただ『華厳経』の中で、金剛蔵菩薩が解脱月菩薩から十地について説くことを求められたことが、このことと似ていると言える。しかし、後の師たちは偏った教えに執着し、『華厳経』は『法華経』に勝っていると言い、小乗の舎利弗が教えを請うことは、菩薩に及ばないなどと言っている。これは一辺を見ているだけである。舎利弗は聴衆の願いを知って、「仏の口から生じる子、合掌して仰ぎ見て待つ。仏を求める多くの菩薩は、約八万人いて、真理が備わった道を聞こうと願った」とある。なぜ小乗の一人のみであろうか。また弥勒菩薩は聴衆を代表して、答えを文殊菩薩に求めた。これが、解脱月菩薩と金剛蔵菩薩とどのように異なっているのか。また本門の中には、菩薩が仏に仏法を説くことを求めている。どうして、菩薩が菩薩に菩薩の法を説くことを求めることに比べるのか。この意義においては、『華厳経』に勝っているのである。

華厳経』の聴衆は、あらゆる方角から雲のように集まっている。それらはみな毘盧遮那仏と過去世で交わりを持った者たちである。『法華経』で雲のように集まり現われた地涌の菩薩は、みな釈迦に従って発心した者たちである。「彼らは私が教化した」とある。これは一見、同じように見えるが、より親密な関係である。

また彼らはあらゆる方角の仏が『華厳経』を説くことを明らかにしている。加持(かじ・華厳経では、仏が教えを説くのではなく、仏から力を受けた菩薩たちが語るので、加持と表現される)を被った菩薩たちを、法慧菩薩、金剛蔵菩薩などと名付け、それらは毘盧遮那仏の分身だとは説かない。『法華経』では、釈迦は宝塔を開くにあたって、三度、娑婆世界を清めて、それぞれ四百万億那由他の国土に満ちる諸仏は、すべて釈迦の分身だと明らかにした。このような意義は、『華厳経』とは異なる。

華厳経』が『法華経』より優れているという師がいるので、一句二句を挙げたが、特に彼らを論破しようというのではない。もしこの優劣を比べれば、恐らくは『法華玄義』の論旨を失ってしまうだろう。ただこの『法華経』のみが、権を開いて本を顕わすのである。迹門と本門には疑う質問や教えを請うことが多い。他の経典には比べものにならない。ただ深く仏の教えをろんじ、妙において聖なる心を説き、近くは円因を会し、遠くは本果を述べるのがその主旨である。このために、疑う質問は止むことがないのである。

もしよく詳しく教相を知るならば、すなわち如来の権・実の二智を知るのである。教えの意義が非常に深いことは、概略的にこのようなことである。

法華玄義 現代語訳 192

『法華玄義』現代語訳 192

 

第四節 四悉檀に対する

権実の二智の十用は同じではない。すなわち同じ仏の説法は、衆生の能力に従ってそれぞれ理解される。迹の中の破・廃は、七方便の人々に仏の知見を開かせる。本の中の破廃は、大河の砂の数ほどの菩薩が起こす疑いを断じ、道を進ませる。みなこれは四悉檀の意義をもって、衆生を成熟させる。

ここで、この十用をまとめて四悉檀とする。先に迹門をまとめ、次に本門をまとめる。

迹門をまた二つとする。先に個別に述べ、次に共通してまとめる。

個別に述べるとは、次の通りである。開三顕一・住三用一・会三帰一の三つは、各各為人悉檀に属する。なぜならば、もともと三乗を習い、今、かえって三乗において一乗を修すからである。道を変えたり轍(わだち)を変えたりしない。ただ深くこの三乗を観じれば、一乗の理法は自ら顕われる。三乗の中に一乗があるので、取捨する必要はない。このために開三顕一は各各為人悉檀に属する。住三用一もまた同じである。ただこの三乗について、一乗の道を修すだけである。富楼那はただ声聞に立脚して、自らに利益を与え、またよく同じ清浄の行の者に利益を与える。すなわちこれは三乗の法をそのままで、よく一乗の理解を生じるので、みな各各為人悉檀に属するのである。

破三・廃三・覆三の三つは、対治悉檀に属する。この三乗に封じ込められ、一乗を疑えば、その情を排斥して破る。権教を廃して、密かに権法を覆い、執着の病気の心を除き、一乗の真実の道に入り、真実の智慧に安住させる。

住三顕一・住一用三の二つは、世界悉檀に属する。なぜならば、世界は願い欲することをもって本としているからである。衆生は三乗の道を得ようと欲して、一乗の真実の教化を聞こうと願わない。このために仏は自らは一乗に住んでいるが、衆生に同じて三乗を説く。また三乗の衆生の能力は異なっていることは、世界もそれぞれ隔たっていることと同じである。このために世界悉檀と名付けるのである。住三顕一もまた世界悉檀である。なぜなら、仏は人の法に従って、方便に住み、整え熟させて一乗を顕わす。このために世界悉檀に属するのである。

住一顕一・住非三非一顕一、これは第一義悉檀に属する。

共通して四悉檀を明らかにするならば、ただ三乗を破って一乗を顕わせば、四種の利益がある。なぜならば、君子は自らの誤りを聞くことを願い、つまらない人間は自らの誤りを聞くことを嫌う。誤りを知って必ず改めることを欲することは、すなわち執着を破って病を除くためである。謹んで歓喜することは、世界悉檀である。もし三乗に住むことに執着すれば、道を進めることができない。三乗を破って一乗に従えば、悟りを求める心が生じ、善法が増進する。これを各各為人悉檀と名付ける。三乗に執着することは病であり、一乗を説くことは薬である。これは対治悉檀と名付ける。もし三乗を破ることを聞き、理法を見ることができれば、第一義悉檀と名付ける。

他の九種も同様である。このために知る。仏の良き巧みなわざが衆生の能力の違いに応じて、みな利益を得させることは、四悉檀の力である。

二つめに、本門の十用を結んで四悉檀とすることは、また個別的なことと共通していることがある。住迹顕示・住本用迹は世界悉檀に属する。また随楽欲と名付ける。解釈は前の通りである。

開迹顕本・会迹顕本・住迹用本は各各為人悉檀に属する。道を改めないでさらに修す。かえって本の法について顕本を修す。解釈は前の通りである。

破迹・廃迹・覆迹は対治悉檀に属する。

住本顕本・住非本非迹顕本は第一義悉檀に即する。解釈は前の通りである。

次に、共通して破迹顕本の一つにおいて、四悉檀を結ぶことについても、また前の通りである。他の九種もまた同じである。

 

第五節 四悉檀の同異について

他の経典にまた四悉檀の破三顕一・破迹顕本などが用いられているが、『法華経』とは異なりがある。それについて二つある。一つは迹門の異なりを明らかにし、二つは本門の異なりを明らかにする。

迹門の異なりとは、三蔵教の中に、また四悉檀の破・廃などの意義が用いられている。ただ有余・無余の涅槃とするのみである。『大品般若経』の中の共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る三乗に共通する智慧)も、また四悉檀の破・立などの意義が用いられているが、ただ真理を悟るのみであり、円教に入ることができない。方等教の中にまた破三顕一がある。菩薩の人については、一部分同じものがある。二乗の人は、実相に入ることができない。このために釈迦の十大弟子は、『維摩経』で叱責され、八つの邪見に陥り、大乗の仲間に入らない。これは破り排斥する言葉である。不思議な大乗の道を称賛するのである。みな四悉檀の意義を用いるが、二乗は悟らない。

法華経』は四悉檀の意義を用いて、二乗に対しては疑いを断じさせ、執着を取り除き、仏の正しい道に入らせ、授記を授けて将来に仏になることを得させる。このために知ることができる。この経典は四悉檀を用いることが巧みであり妙である。文に「言辞が柔軟であり、人々の心を喜ばせる」とある。舎利弗が理解して「仏はあらゆる縁、譬喩をもって巧みに言葉で説く。その心が安らかであることは海のようだ。私は聞いて、疑いの網が断じられ、真実の智慧の中に安住する」と言っているのはこの意義である。

問う:『法華経』は一乗を顕わすために、かえって昔の教えを破る。もし昔の教えに調熟していなければ、また理解できないであろう。

答える:『法華経』において悟ることは、昔の教えを責めることによるが、ただその功績はこの経に属する。昔の教えを責めることに功績があるのではない。たとえば、百人が共にひとつの賊を囲む時、その囲って攻める力は、実際に人々に頼るわけだが、よく賊を捕える者は手柄を獲得し、それは百人に属するのではない。この経の開権顕実・四悉檀の大いなる用は、最も勇猛とする。

発迹顕本の四悉檀は、さらに他の経典と異なる。なぜならば、迹門の中の力用は、すでに他の様々な教えに出ているが、本門の中の十用は、諸経に一つもない。ましてやどうして十種あるだろうか。迹門の中の四悉檀は、すでに諸経に出ている。しかし本門の四悉檀は諸経にひとつもない。ましてやどうして四つあろうか。意義をもって知るべきである。煩わしく多く記すことはしない。

法華玄義 現代語訳 191

『法華玄義』現代語訳 191

 

第二項 本門の歴別

本門の用の段階を分別するにあたって、十の項目を立てる。もし文の便宜を助けるならば、まさに開近顕遠と言うべきである。もし意義の便宜を取るならば、まさに本迹と言うべきである。迹を近とし、本を遠とするのみである。名称は異なっていても、意義は同じである。

十種の一つめは、a.破迹顕本、二つめは、b.廃迹顕本、三つめは、c.開迹顕本、四つめは、d.会迹顕本、五つめは、e.住本顕本、六つめは、f.住迹顕本、七つめは、g.住非迹非本顕本、八つめは、h.覆迹顕本、九つめは、i.住迹用本、十は、j.住本用迹である。

この意義は本門に共通している。それぞれの妙の一つ一つの中に、みなこの十種の意義を備える。

ここで、個別に(注:共通しているが、あえてそれぞれ分けて述べるならば、という意味)この十種について述べる。

a.破迹顕本

また執着する情を破ることによる。「序品」「方便品」「見宝塔品」の三品に、すでに聴衆が執着を生じ、疑いを起こしている文がある。文殊菩薩弥勒菩薩の質問に答えている通りである。昔の八王子は、妙光菩薩に師事した。妙光菩薩は先に一生補処の位にいて、八王子は成仏し、八番目の王子は然灯仏となった。そして然灯仏の弟子が成仏して釈迦仏となった。妙光菩薩は翻って弟子となって、文殊菩薩となった。こうして迹の執着が動揺させられ、疑いが生じた。この疑いはどのように解決するだろうか。

これは、文殊菩薩が一生補処の位に留まっていることではなく、また弟子の釈迦が超越するのでもない。実に釈迦がはるか昔に成仏しているために、昔は弟子となって、今は師となっていることを示しているのみである。この迹の疑いを払って、本の智慧を顕わすために、破迹顕本というのである。「方便品」に「私は久遠劫の昔より、涅槃の道を褒め示して生死の苦を長く尽くさせている。私は常にこのように説く」とある。まさに知るべきである。生死は久遠の昔からすでに長く尽きているので、中間に初めて涅槃に入るのではない。宝塔が涌き現われ、多宝仏が滅度を示しても滅していない。迹をそのままにして、しかも常であることを証する。釈迦の分身仏はみな集まり、すべての方角で数えることができない。分身仏はすでに多いので、これによって釈迦が仏になってから途方もない時が流れていることを知るべきである。蓮華の実が最初は一つ池に落ちても、やがて池が蓮華で満ちるようになることに喩えられる。

この三品の文を考察すると、すでにこれは迹を破る次第である。したがって、地涌の菩薩は、釈迦が悟りを開いた寂滅道場で教化を受けたのではなく、また他方の分身仏のところで教化を受けたのではない。この寂滅道場と他方の分身仏のことについては、弥勒菩薩もすべて知っている。しかし、ここでは弥勒菩薩は知らない。そのために驚き疑いを起こした。この迹に執着する情を破り、本の長遠の事実を顕わす。このために文に「すべての世間の人々はみな『私たちの釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出て、伽耶城から去って、間もなく最高の悟りを得た』と言う。しかし、私は実に成仏してから今まで、無量百千万億那由他劫の時が流れている」とある。そしてただちに五百千万億那由他阿僧祇の数の世界を挙げて、弥勒菩薩に質問したが、弥勒菩薩はその数を知ることはできなかった。ましてやその世界の中の塵の数はどうして数えることができるだろうか。これは近執の常識を破り、その遠智を生じさせるのである。

b.廃迹顕本

これもまた説法に関することである。昔、五濁(ごじょく・劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁)の障りが重いために、深遠な本地を説くことができず、ただ迹の中の浅い真理を示すのみだった。しかし『法華経』はこの障りを除き、衆生を深い真理に向かって導くことができるため、釈迦が菩提樹の下で悟ったという迹の中の説法は、みなこれは方便であると廃すべきである。浅い真理に執着する心を断じれば、迹に封じ込める教えもまた止む。経文に「昔から今まで、私は常にこの娑婆世界にあって説法して教化してきた」とある。また「他の百千万億那由他阿僧祇の国において、衆生を導き利益を与えた」とある。これは、娑婆世界の一期の迹の教えを廃して、久遠の本の教えを顕わすのである。

c.開迹顕本

これもまた法についてのことであり、また理法についてのことである。文殊菩薩が説いた然灯仏、および久遠より今まで、涅槃の道を褒め示し、および釈迦の分身の諸仏など、これらは迹の説であるが、この本を顕わす意義をもって見れば、迷う者はまだ玄妙な旨を悟らないということがわかる。ここで本を顕わせば、またあらためて他のものによらず、かえってこの浅い迹を開いて、その本の要旨を示せばよいのである。理法についてのこととは、ただ深く方便の迹を観じれば、本の理法はすなわち現われる。文に「私は実に成仏してから今まで、久遠であることはこのようなものである」とある。また「ただ方便をもって、衆生を教化して、仏道に入らせるのみである」とある。もし仏道に入れば、迹はそのままで本を得る。

d.会迹顕本

これは行についてのことである。迹の中のあらゆる行を見れば、あるいはこの仏に従って行を修行して悟りを得、あるいはかの仏に従って行を修行して悟りを得、あるいは仏はこの身、他の身を示し、相手の能力に従って、長短大小を応じて現わす。あらゆる迹はすべて本から下るのである。もし古今を結び合わせれば、かえって迹を結んで本を顕わすのみである。本と迹は異なっているといっても、不思議な次元で一つである。文に「あらゆる良き男子よ。この中間において、私は然灯仏などとなって説き、また涅槃に入るという。このようなことはみな方便をもって分別したことである」とある。これがすなわち会迹顕本の意義である。

e.住本顕本

これは仏の本の意義によることである。すなわち下方の菩薩は空中において住み、法身仏は、法身の菩薩のために教えを説き、法身は道を修して、もっぱら一乗を説くようなものである。文に「人々は、焼け尽きたと見ても、私の浄土は壊れない。このように深く観じることを深い信解の相という」とある。常にこの本に住み、常に本を顕わす。文に「私は成仏してから今まで、はなはだ大いなる久遠である。寿命は無量阿僧祇劫であり、常住して滅びることはない」とある。これこそ、どうして住本顕本でないことがあろうか。

f.住迹顕本

これは迹の意義についてのことである。すなわち釈迦は生身に住んで一を顕わす。一を顕わすために、古仏である多宝如来の塔が涌き出た。塔が涌き出たために、釈迦の分身仏を召請する。分身仏が集まるために、経典を広めることを願って、下方より菩薩が出現する。経典を広めることを願うために、下方より出現すれば、弥勒菩薩は質問する。質問するために、仏の寿命が長遠であることを説き、執着を動揺させ疑いを捨てさせる。これを住迹顕本という。文に「私は仏の眼をもってこの信心などのあらゆる根を観じ、そして種々の方便をもって微妙の法を説き、よく衆生歓喜の心を起こさせる」とある。

g.住非迹非本顕本

これは言葉を絶して深い真理に会うことである。すなわちこれは本ではなく、迹ではなく、しかも本と迹である。昔は迹でなく、しかも迹を下し、今は本ではなく、しかも本を顕わす。文に「実ではなく、虚ではなく、如ではなく、如と異なったものではなく、このようなことを如来は明らかに見る」とある。

h.覆迹顕本

また衆生に応じることが多岐にわたることについてである。もし迹に執着すれば、本の障りとなる。このために覆って執着しないようにする。さらに後の衆生に対して、かえって必ず迹を用いる。このために獅子奮迅の力がある。文に「多くの言辞、因縁、譬喩をもって、さまざまに説法する。行なうところの仏の行為は、未だに少しも廃されていない」とある。

i.住迹用本

法華経』以前においては、迹に立脚して本を顕わすとは、ただ迹の中に衆生の能力に応じる方便をもって、本地の理法を表わすことである。しかし『法華経』において住迹用本ということは、中間から菩提樹の下で悟りを開く時に至るまで、何度も仏は生滅する。他の身、他の事とは、みな本時の実因実果であり、あらゆる本法を用いて、あらゆる衆生のために仏の行為がある。このために住迹用本という。これは師の立場における解釈である。

もし弟子の立場において見れば、すなわち本時の妙応の眷属である。権である迹に立脚して、形を九法界に下し、しかも本法を用いて衆生を利益する。文に「しかし私は今、実に滅度するのではないが、まさに滅度するという。如来はこの方便をもって、衆生を教化する」とある。これは、迹に立脚して本時の滅度を用いて、滅度を示すのである。

j.住本用迹

すなわち本地は動かないが、迹は法界に遍満している。生じるのではないが生じ、滅度するのではないが滅度する。つねにこの迹を用いて、衆生に利益をもって潤す。この意義は師の立場による。もし弟子の立場によれば、すなわち法身の菩薩が、不住の法をもって本地に住む。策のない権、迹の用は尽きることがない。文に「また良き男子よ。諸仏如来の法はみなこのようである。衆生を悟りに導くためである。みな実であり虚ではない」とある。

仏は分散して衆生の能力に応じので、文は多くなく順番通りになっていない。ここで分を引用して意義を証するならば、「如来寿量品」の文を引けば尽きる。

破迹顕本と会迹顕本は、個別に述べれば本因妙を用い、開迹顕本は、個別に述べれば本果妙を用い、住本顕本は、個別に述べれば本国土妙を用い、廃迹顕本は、個別に述べれば本説法妙を用い、住非迹非本顕本は、個別に述べれば本感応妙を用い、覆迹顕本は、個別に述べれば本神通妙を用い、住迹用本は個別に述べれば本寿命妙を用い、また本眷属妙を用い、住本用迹は個別に述べれば本涅槃妙を用い、また本利益妙を用いる。(注:「住迹顕本」が抜けているが、一応、「本門の十妙」はすべて挙げられている)。

法華玄義 現代語訳 190

『法華玄義』現代語訳 190

 

第三節 歴別を明らかにする

用の段階を分別するにあたって、1.迹門と、2.本門に分ける。

 

第一項 迹門の歴別

迹門の用の段階を分別するにあたって、十の項目を立てる。一つめは、a.破三顕一、二つめは、b.廃三顕一、三つめは、c.開三顕一、四つめは、d.会三顕一、五つめは、e.住一顕一、六つめは、f.住三顕一、七つめは、g.住非三非一顕一、八つめは、h.覆三顕一、九つめは、i.住三用一、十は、j.住一用三である。

この意義は十妙に共通している。それぞれの十妙の一つ一つの中に、みなこの十種の意義を備える。その意義はわかるであろう。

ここで、個別にこの十種について述べる。

a.破三顕一

正しく三乗に執着する心を破り、一つの智慧を顕わす。なぜなら、昔、最初から仏乗を讃嘆すれば、衆生は理解できずに苦しみに陥る。いきなり大乗を聞くことに耐えられないので、過去の仏の行じた方便の力を思えば、まさに三乗を説くべきであった。三乗を説き終われば、教えによって三乗に執着する心に封じ込められ、さらに良いものを願わない。この『法華経』で三乗の執着を破って、仏の智慧を顕わす。このために「諸仏の法においては、長い時間を経た後、必ずまさに真実を説くであろう」とある。

b.廃三顕一

正しく三乗の教えを廃する。その執着を破ったとしても、もし教えを廃さなければ、またその執着が生じてしまう。教えに執着して迷いを生じさせる。そのために教えを廃する。「正式に方便を捨てて、ただこの上ない道を説くのみである」とある。また「あらゆる方角の仏国土の中には、ただ一乗の法のみあって、二もなく三もない」とある通りである。

c.開三顕一

中心的には理法により、付随的には教えによって真理を明らかにする。教えについてとは、『法華経』以前の教えは、声聞と縁覚と菩薩の三人が空の真理に入ることを明らかにし、『法華経』では三人が仏となることを明らかにする。中心的に理法によるとは、ただ二乗の空の真理自ら実相であるということである。『法華経』以前の方便は深くないので、妙を見ることができない。『法華経』において、空を開けば、すなわちそのまま実相である。このために「声聞の教えの本来の姿は諸経の王である」とある。また「方便の門を開き、真実の相を示す」とある。『涅槃経』に「あらゆる声聞のために、智慧の眼を開発する」とある。

d.会三顕一

これはまさしく行による。『大品般若経』の「会宗品」に、「四念処、四禅などは、みな大乗である」とある。しかしこれはただ法を開いて融合するのみであり、まだ人が仏になることは融合していない。『法華経』では、人と法と行と共に融合させる。このために「あなたたちの行じるところは、菩薩の道である。次第に修学してすべて仏となる」とある。また「仏に対して少し頭を下げることと、手を挙げることによって、みな仏の道を成就する」とある。

e.住一顕一

これは仏の本来の意義による。仏はもともと、真実の智慧をもって人々を教化する。仏は平等に説いており、それは同じ雨が降るようなものである。「仏は自ら大乗に住む。その得る法は、禅定と智慧の力をもって荘厳されている。これをもって衆生を教化する」とある。また「もし小乗をもって教化すれば、私は物惜しみをしたことになり、それは不可能である」とある。このために知ることができる。仏が悟りを開いた夜から、仏は常に中道を説き、常に大乗を説く。しかし衆生は罪があるため、仏はいきなり真実の教えを説かず、見た目に貧しい衣を着て、子供に対するように方便を用いて、最終的に大乗に導く。このために「あらゆる道を説くといっても、それは一乗のためである」とある。

f.住三顕一

これは仏の権の智慧による。方便をもって教化する。「過去の仏の行じるところの方便の力を思って、私もまた同じようにした。すなわち鹿野苑に行って、方便の力をもって五人の比丘のために説いた」とある。過去の諸仏も、また三乗に立脚して一乗を顕わす。『法華経』の仏もまた同じである。このために「さらに異なる方便をもって、第一義を助け顕す」とある。また「昔、菩薩の前において、声聞を非難した。しかし、仏は実は大乗をもって解脱させ悟らせる」とある。

g.住非三非一顕一

あるいは理法について、あるいは事象についてである。理法についてとは、「この法は真理であり、世間の相は常住である」とある。また「この法は示すことはできない」とある。また「法は常に無性であると知る」とある。また「仏の種は衆生の縁より起る」とある。「無性」とは、すなわち三乗でもなく一乗でもないことである。「縁より起る」とは、すなわち三乗の衆生をもって一乗を顕わし、三乗でもなく一乗でもないことと融合させるのである。事象についてとは、すなわち人天乗である。この乗は三乗でもなくまた一乗でもない。常にこの乗をもって、導いて大乗に入らせる。「頭を低くすること、手を挙げることは、すべて仏の道を成就する」とある。また「もし私が衆生に会えば、すべて仏の道をもって教える」とある。

h.覆三顕一

これは巧みな権の多くある手段による。前の権は前に廃するとはいっても、ただその病を除くだけであり、その法は除かない。法を除かないために、後に衆生を教化することにおいても用いられる。もしこの法を除けば、どうして後に用いることができようか。衆生の病が止めば覆い、また病が起ればすぐに用いる。なぜただ仏だけがこのようにするだろうか。真理に入った菩薩もまた同じである。「もしこの法を信じない者がいれば、他の深い法の中において示し教え利益し喜ばせよ」とある。

i.住三用一

これは法身の妙応の眷属についてである。前の住三顕一は、師の門である。この住三用一は、弟子の門である。富楼那などのような弟子たちは、真実の姿は法身であるが、声聞として現われ、三乗に立脚して常に一乗を顕わすことを示して、同じく清浄の行の者たちに利益を与える。

j.住一用三

これは本来の誓願についてである。舎利弗が将来仏となる華光如来が立てた誓願に、三乗を説いても、その世は悪い世ではない、というようなものである。『法華経』の仏もまた、宝蔵仏のところにおいて、悪い世においてこの三乗を説くことを誓った。

ただ権実の大いなる用は、法界を包括するのである。どうして以上あげた十種だけだろうか。十妙の用を顕わすために、概略的に十種としたのである。破三顕一は智妙を用い、廃三顕一は説法妙を用い、開三顕一は境妙を用い、会三顕一は行妙を用い、住一顕一は三法妙を用い、住三顕一は感応妙を用い、住非三非一顕一は神通妙を用い、覆三顕一は位妙を用い、住三用一は眷属妙を用い、住一用三は利益妙を用いる。十種の用をもって十妙に相当させると文と意義が一致する。大意はわかるであろう。