大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 195

『法華玄義』現代語訳 195

 

第三節 難を明らかにする

難を明らかにするにあたって、まず南地の五時教を批判する。その意義が成就しなければ、同様に他の四時教と三時教も破られることになる(注:前に述べられていたように、南地は、三時と四時と五時の教判であり、これを南三という。ただし、この箇所では、順番が前の記述と真逆となっている。それは意図的なことであり、同様に破られることになるとあるように、五時教判の中に三時と四時が含まれているからである)。

 

第一項 南地の批判

第一目 有相教の批判

もし十二年の前を有相教と名付けるならば、成実宗の論師は、自らの論を否定することになる。『成実論』に「私は今、正しく三蔵の中の真実の意義を明らかにしようとする。真実の意義とは、いわゆる空である」とある。「空」とは無相でないことがあろうか。三蔵教は前の十二年の教えではないだろうか。

また『阿含教』の中に、「これは老死である。誰が老いて死ぬのか。この二つはみな邪見である」とある。「老死」がないのは法空である。「誰が老いて死ぬのか」ということがないのは生空である。三蔵教の中で自らこの二空を説く。二空は無相でないことはない。

また『大智度論』に「三蔵教の中には法空を明らかにして大空とし、大乗の中には十方空を明らかにして大空とする」とある。すでに「法空」をもって「大空」とする。すなわち大無相である。

また釈迦は悟りを開いて六年後に、『殃掘摩羅経(おうくつまらきょう)』を説き、空を最も重要なこととして説いている。これが無相でなければ、何が無相だろうか。

また『大智度論』に「釈迦が悟りを開いた夜から涅槃の夜に至るまで、常に般若を説く」とある。般若はすなわち空の智慧である。

また次に、前の十二年を有相教と名付けるのならば、悟りを得たということなのだろうか。悟りを得なかったということだろうか。もし悟りを得たとすれば、『成実論』の教えに背く。論師は「有相の四諦は、心を整える方便である。真実に悟ることはない。必ず平等なる空を見て、よく悟りを得ることができる」と言っている。すでに有相と言えば、なぜ悟りを得ることができるのだろうか。またもり悟りを得ていないのならば、その教えは必要ない。

また『大集経』に「憍陳如などの五人は、最初に仏の教えにおいて、寂然として声も文字もなく、真実の知見を得た」とある。「最初に」とあるのは、前の十二年に悟りを得たということではないだろうか。

また、もし悟りを得ているならば、教えは無相と同じとなる。もし悟りを得ていなければ、教えは邪説と同じである。また、もし悟りを得ているなら、何の道を得ているのか。もし空を見て悟りを得ているならば、かえって無相に同じである。もし空を見ずに悟りを得ているならば、九十五種の外道と同じである。仏の道を得るのではない。有相の教えには、具体的に二つの誤りがある。

 

第二目 無相教の批判

第二に、十二年の後(注:三蔵教が説かれた十二年が終わった後という意味)を無相教と名付けることを批判する。

このことを主張する人々は、次のように言う。空を明らかにして無相を説いても、まだ仏性・常住を明らかにしていない。なおもこれは無常の身を持った八十歳で亡くなる仏である。また会三帰一をしていない。また二乗を責め、一乗を褒めたりなどしていないと言っている。

しかしこれは理解できない。もし無相と言うならば、どうして無常を退けないのか。無常という相があるならば、どうして無相というのか。もし仏性・法身の常住を明かさないと言えば、無相を説く般若は常住とは関係ない教えとなる。それでは、三乗が共に学ぶ共般若は仏性・法身の常住などではないことになる。ましてや菩薩だけが悟る不共般若は、どうして仏性でないのであろうか。

『涅槃経』に「仏性に五種の名称がある。また首楞厳(しゅりょうごん)とも名付け、般若とも名付ける」とある。般若はすなわち仏性の異名である。どうして仏性でないと言えようか。彼は擁護して「経典に仏性と称し、また般若と名付けるのは、三徳の般若である。なぜ無相の般若に関係するだろうか」と言っている。もしそうならば、『涅槃経』の第八巻にどのような意味で「私は先に摩訶般若の中において、我と無我と、その性は不二であると説いた。不二の性は、すなわち実性、実性の性は、すなわち仏性である」と言っているのか。このように広く経文を見れば意味は明らかである。何の意味で仏性ではないと言うのか。

また、『涅槃経』の仏性は、ただ法性常住であり、変易(へんにゃく)しない。『般若経』に実相・実際(実相の異名)は不来不去であるということは、仏の無生の法であり、無生の法はすなわち仏であると明らかにする。この般若と仏性の二義はどうして異なるだろうか。このために知る。法性・実相は、すなわち正因仏性(衆生に誰でも本来そなわっている仏の因)である。般若の観照は、すなわち了因仏性(悟りを開く智慧)である。般若以外の五波羅蜜が般若を助け発することは、すなわち縁因仏性(智慧を助け悟りの縁となる行)である。この三般若(実相般若、観照般若、文字般若)と『涅槃経』に説かれる三因仏性と、何が異なるだろうか。『金剛般若論』に「有漏の業である福は悟りに導かない。経の受持と読誦は悟りに導く。相好の仏を生じる因となり、法身の仏を悟る因となる」とある。実相の了因は、よく悟りに導く。どうして仏性でないだろうか。

ただ名称は異なっているが、意義は同じであることは、前に分別した通りである。なぜ釈提婆那民(しゃくだいばなみん・帝釈天の異名)を聞いて、帝釈天ではないと言えるだろうか。この誤りはこれに似ている。

もし無常の八十歳で亡くなる仏の教えは、仏性・常住ではないと言えば、『涅槃経』に「八十歳の仏は背中の痛みという病があった。沙羅双樹の下で入滅した」とある。なぜこれで常住を讃嘆し、仏性を説くだろうか。『大智度論』に「仏に生身と法身がある。生身は人の常識に同じく、寒い暑いがあり、病気を患い、馬の麦を食べ、乳を乞食しなければならないなどの苦難がある。法性身の仏は、その光明は無辺であり、その姿も無辺である。尊く優れた身体は、虚空のようである。その仏は法性身の菩薩のために教えを説く。聴衆は生死の身ではない」とある。ましてや仏は生死の身ではない。また『大智度論』に「また、生身の仏の寿命は有限であり、法身の仏の寿命は無量である」とある。どうして無常の八十歳で亡くなる身をもって、法身に加えることができようか。小乗の中に、法身はやはり滅びないという。舎利弗の弟子の均提沙弥(きんだいしゃみ)が憂い悩んだようなものである。均提沙弥に仏は「あなたの師である舎利弗の戒身(戒律、禅定、智慧、解脱、解脱知見の五分法身の一つ)は滅びるか」と問うと、「いいえ」と答えた。そして最後の「解脱知見は滅びるか」と問うと、「いいえ」と答えた。どうして般若は法身であって同時に無常であると言うのか。

もし『般若経』に三乗を開会することがないと言うならば、どうして「問住品」に「あらゆる天子が、まだ最高の悟りを求める心を起こしていなければ、まさに起こすべきである」というのか。また「もし声聞の正式な位に入るならば、この人は最高の悟りを求める心を起こすことはできない。どうしてか。生死のために妨げとなってしまうからである。しかし、この人が最高の悟りを求める心を起こせば、私もまた随喜する。どうしてか。上を目指す人はさらに上の教えを求めるべきである。私は終わりまで、その功徳を断じない」とある。もし声聞が上の教えを求めなければ、どうして随喜するのだろうか。すでに上の教えを随喜するならば、これは三乗を開会することである。

もし『般若経』に二乗の人を責めることはないと言えば、『大品般若経』に「二乗の智慧は、なお蛍の光のようである。菩薩が一日、智慧を学ぶことは、太陽が天下の四つの大陸を照らすようなものである」とある。また第十三巻に「たとえば、犬が立派な家に行って食べ物を求めず、かえって労働者に近づいて求めるようなものである。来世の善男善女は、深い般若を捨てて、枝葉に登り、声聞と縁覚の行なう経を取る」とある。また「象を見ようとしてその足跡を見るのは愚か者と名付ける」とある。攻めの言葉がこれよりひどいものがあろうか。どうして責めることがないと言うのか。

もし『般若経』は第二時の教えであると言い、その論拠として、多くの天子が仏に「第二の法輪が転じるのを見る」という文を引用するならば、他の経典には「第二の法輪」ということがないはずである。しかし、どうして『般若経』だけが第二の法輪であろうか。たとえば『維摩経』に「最初、仏は道場の樹の下に座って、力をもって魔を降し、甘露の滅を得て、悟りを成就した。そして説法は有でもなく、また無でもない」とある。このように二つの説法が相対するならば、また第二の法輪が説かれたはずである。『法華経』には「昔、鹿野苑において四諦の法輪を転じた。今またさらに最上の法輪を転じる」とある。また『涅槃経』に「昔、鹿野苑において、初めて法輪を転じると、八万の天人は、須陀洹果を得た。今、拘尸那掲羅(クシナガラ)において、法輪を転じる時、八十万億の人は不退転を得た」とある。各経典にはみなこの主旨がある。これらはみな第二の法輪であるはずである。どうして『般若経』だけであろうか。

もし十二年の後に無相教を説くと言えば、なぜ悟りを得た夜と入滅の夜に、同様に『般若経』を説くことができるだろうか。このために知る。無相教の誤りも大変多い。