大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 203

『法華玄義』現代語訳 203

 

第二目 無量義経からの引証

経文に「私は仏の眼をもってすべての法を観じれば、説くべきではないと思った。それはなぜか。あらゆる衆生の能力や願いは同じではない。能力や願いが同じでないならば、さまざまに教えを説いても、文は同じで一つであっても、意義は別となり異なる。意義が異なるために、衆生の理解も異なる。理解が異なるために、得る法も、得る果も、得る道もまた異なる。最初に四諦を説き、声聞を求める人のために教えた。そして八億の諸天が降りて来て教えを聞き、悟りを求める心を起こした。中ごろには、あらゆる場所において、非常に深い十二因縁を説き、縁覚を求める人のために教えた。次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説き、菩薩が劫を経て修行することについて述べた。そして百千の比丘と無量の衆生は、悟りを求める心を起こし、ある者は声聞に住んだ。万億の人天は、須陀洹を得て、阿羅漢に至り、縁覚に住んだ」とある。

「仏の眼をもってすべての法を観じる」とは、すなわち頓教の経典である『華厳経』が前にあることである。四諦・十二因縁は、次の漸教の三蔵教のことである。もしこの経文によるならば、三蔵教を説き終わって、次に方等教の十二部経を説く。

小乗の次に大乗を説く理由は、仏はもともと大乗を授けようとしているのだが、衆生はそれに耐えられないので、大乗を隠して小乗を出し、煩悩を断じ聖者となるようにさせる。この利益があるといっても、それは仏の本懐ではない。

次に方等教の『維摩経』・『思益経』・『殃掘摩羅経』を説いて、小乗の果を保っている縁覚を非難して、三蔵教の断じ滅する誤りを指摘する。このために舎利弗須菩提は、教えにおいては小乗をもっぱらとする。最初、大乗の威徳を聞いていないので、維摩詰の言葉によって茫然として鉢を置いて去ろうとしたり、あるいは体についてしまった華を取り除こうとしたりする。これは維摩詰の言葉の意味がわからず、どうやって答えていいかわからないのである。しかし、方等教における小乗への非難は、教え自体は三蔵教の後にあるが、非難された時は、三蔵教が説かれた前の十二年にあるべきである。なぜそれを知ることができるのだろうか。みな過去のことを語っているので、前のことであることを確認できる。なぜなら、前にすでに教えを受けて道を得て、無学を証したからである。仏の恩の深さに心の底で信じ、また怒ることはしない。

昔から今に至るまで、『殃掘摩羅経』のそしりをそのままにし、維摩詰の排斥に任せることは、小乗を恥じ、大乗を慕うという利益を与える。たとえば、酪を煮て生蘇を作るようなものである。すなわちこの意義である。『無量義経』を調べれば、方等教は三蔵教の後であり、第三時の教えとすることがわかる。

無量義経』に「次に摩訶般若、華厳海空を説き、菩薩が劫を経て修行することについて述べた」とあることを見れば、これは方等教の後に、『大品般若経』を説いたことである。『大品般若経』に、無常・無我を説き、あるいは空を説き、あるいは不生不滅を説く。みな認識対象や心を経て、一切種智に至る。言葉を駆使して修行の法を明らかにする。すなわちこれが、菩薩が劫を経て修行することである。また「百千の比丘、万億の人天は、須陀洹を得て、阿羅漢に至り、縁覚に住んだ」とあるのは、共般若であることを証明するのである。

そして、「華厳海空」というのは、もし寂滅道場の『華厳経』とするならば、これでは次第が成り立たない。今、『法性論』のいうところに依る。「能力の劣った菩薩は、三つの場所において法界に入る。最初は『般若経』であり、次はすなわち『華厳経』、後はすなわち『涅槃経』である」とある。『般若経』によって法界に入るのは、すなわちこれが「華厳海空」である。また『華厳経』が説かれた期間は長い。昔、小乗の者たちは入ることができなかった。耳が聞こえず言葉が話せない人のようであった。今、『般若経』を聞いて、すなわち入ることができた。この意義である。

大品般若経』は、三乗の人に共通すれば、四果の位があるべきである。『華厳経』は小乗を隔てるので、この意義はない。このために方等教の後に、次に『般若経』を説くことを第四時の教えとするのである。また熟蘇味の教えと言うのは、声聞に命じて、声聞から菩薩に転換させて、多くの者を知らせて、心を次第に安定させる。自ら、蛍の光が日光に及ばないことを知れば、敬伏の情はますます熟す。生蘇から転換して熟蘇となるようなものである。

また解釈する。『般若経』の後に華厳海空を明らかにすることは、円頓の『法華経』の教えである。なぜならば、初めて悟りを開く時、もっぱら円頓を説くのである。理解できない者の大乗の能力がまだ細やかではないので、三蔵教・方等教・『般若経』をもって淘汰し成熟させる。能力が高まり、妨げがなくなり、円頓を聞くに堪えるようになれば、すなわち『法華経』を説いて、仏の知見を開き、法界に入ることができるようになる。『華厳経』と等しい。『法性論』にある中ごろに入る者というのは、これである。

このために、経文に「初めて私の身を見て、如来智慧に入り、今、この経を聞いて、仏の智慧に入る」とある。最初と後の仏の智慧と円頓の意義は同じである。このために『般若経』の後に続いて、華厳海空を説くことは、『法華経』に等しいのである。またこれは第五時の教えである。

また醍醐というのは、これはあらゆる味の最後である。『涅槃経』には醍醐として、『法華経』では「大王の膳」とある。このために知る。『涅槃経』と『法華経』は共に醍醐である。

また、灯明仏は『法華経』を説き終わって、中夜において涅槃に入ると述べた。その仏の一代の教化は、最初に『華厳経』を説き、後に『法華経』を説いた。迦葉仏の時もまた同じである。すべてにおいて『涅槃経』を明らかにしていない。みな『法華経』をもって、最後の教え、後の味とする。今の仏は、前の教えの人々を成熟させる場合、『法華経』をもって醍醐とする。さらに後の教えの人々を成熟させる場合、重ねて『般若経』をもって淘汰し、『涅槃経』に入る。また『涅槃経』をもって、最後の教え、後の味とする。たとえば、農夫が先に種を蒔いたものは先に熟して先に収め、晩に蒔いたものは後に熟して後に収めるようなものである。

法華経』の八千人の声聞と、生まれ変わりを減らした無量の菩薩は、前に果実を熟し、『法華経』の中において収めて、もうそれ以上することはない。五千人は去ってしまい、人天も移さなかった、ということは、みなこれは後に熟し、『涅槃経』の中で収める。この意義のために、「摩訶般若より大涅槃を出す」というのである。すなわち後の次第である。『無量義経』に「摩訶般若の次に華厳海空」とあることを見れば、すなわち前の『法華経』の中の次第であることがわかる。

問う:なぜ能力の劣った者は、『法華経』において入らず、さらに『般若経』をもって淘汰するということがわかるのか。

答える:『大智度論』に「須菩提は、どうしてさらに、菩薩は成仏が決定しているのかしていないのかを問うのか。それに答えるに、須菩提法華経の中において、あらゆる菩薩に対して授記が与えられたことを聞いた。今、般若経の中において、さらに成仏の決定について質問したのである」とある。まさに知るべきである。『法華経』の後に、さらに『般若経』を明らかにしたのである。

法華玄義 現代語訳 202

『法華玄義』現代語訳 202

 

第二項 三箇所からの引証

三箇所とは、『法華経』の「方便品」と、『無量義経』と、『法華経』の「信解品」である。

 

第一目 方便品からの引証

「方便品」に「私が初めて道場に坐って、菩提樹を見て歩み、二十一日間の中において、このようなことを考えた。『私が得た智慧は、微妙であり最も第一である。衆生の能力は劣っている。どのようにして悟りに導くべきか。私はむしろ教えを説かず、速やかに涅槃に入るのがいいだろう』と。そして、過去の仏の行じるところの方便を思い、『私が今得たところの道も、三乗の教えとして説くべきだろう』と考えた」とある。「私が初めて道場に坐る」とは、すなわち頓教を指す。なぜなら、釈迦が兜率天から下って来た時、その法身の仏の眷属は、曇りの日の雲が月を囲むようである。共に母胎に入り、そこでは虚空のように、常に妙法を説く。そして、やがて寂滅道場で初めて悟りを開き、あらゆる菩薩のために、もっぱら大乗を説く。太陽が出て、まず高山を照らすようである。これは釈迦が最初に頓教を説いたことを明らかにするのである。

「序品」に「仏は眉間から光を放ち、遍く東方の一万八千の国土を照らし、聖なる主の獅子のように経の教えを説くのを見ると、それは微妙であり第一であり、あらゆる菩薩を教える」とある。次に「もし人に会えば、そのために涅槃を説いて、あらゆる苦しみから救う」とある。これは現在の仏が頓教を先にして、漸教を後にしたことである。

また文殊菩薩が疑いから発せられた質問を解き明かす時に、昔の仏もこのようだったということを引用している。その経文に「またあらゆる如来が自然に仏の道を成就するのを見る。世尊は大衆の中にあって、深い方の意義を説く」とある。次に「各諸仏の国土に、声聞の数は無数である」とある。これはすなわち、昔の仏も、頓教を先にして、漸教を後にしたことである。

また『法華経』に記されているところの、地涌の菩薩が釈迦に挨拶した時、「その通りである。その通りである。衆生は導きやすい。最初に私の身を見て、私の説く教えを聞き、すぐにみな信じ受け入れ、如来智慧に入る。先に小乗を学び修した者たちは除く。しかしこのような人々も、私は今、この経を説いて仏の智慧に入らせる」とある。すなわち釈迦は頓教を始めに説き、漸教を後にするのである。

このように、最初に頓教を説いたということは、必ずしももっぱら法身の菩薩を教えるのみならず、また凡夫であっても大乗の能力のある者たちもいた。ここに二つの意義がある。この大乗の体を離れず悟りを得る者にとっては、醍醐味の教えとなる。初心の人が、大乗の教えを聞いても最初の十信の位に入るならば、最も初めの乳味の教えとなる。最初のものは後のものを生じるのであり、また乳味においてこれは起こる。なぜなら、頓教であるといっても、ある人は教えにも戒律にも熱心であれば、ある人は教えには緩く戒律は熱心である。このような業による生は、自分ではどうしようもない。必ずそれに応じた生を受けるのを待って、さまざまな教えの場に導かれるのである。大乗にふさわしい人を仏が起こすことは、牛が忍辱草を食べることに喩えられ、円教に応じる頓教の教えは醍醐を出すことに喩えられる。また頓教の最初に初めて内凡(自らの内に真理を求める凡夫という意味)に入ることは、なお乳味の教えする。それは味が薄いという意味ではなく、最初であり本であるからである。

牛が子牛を産めば、血が乳に変わって、純粋清浄に親の身の中にあり、子牛が吸えば牛はすぐに乳を出す。仏もこのようなものである。初めて道場に坐って新たに悟りを成就すれば、無明などの血は智慧となる。八万の法蔵、十二部経などはすべて法身にある。大乗の能力の子牛は、先に乳を感得する。乳味の教えを最初とするのは、あらゆる頓教の教えの最初にあることを喩える。このために『華厳経』をもって乳味の教えとするのである。頓教・漸教・不定教の三教をもって分別すれば、頓教である。またすなわち醍醐である。五味の教えをもって分別すれば、乳味の教えとなる。

また行について述べれば、大乗の能力の者が頓教を受けて、無明を破り、無生法忍を得れば、行は醍醐のようである。またこの頓教を受けるといっても、まだ悟りに入ることはできない。初めて行を立てるために、この行は乳のようである。もし小乗の能力の人が受ければ、行はまた乳のようである。なぜならば、大乗の教えを与えて、受け入れられるか探ると、相手は耳の聞こえない人や言葉を話せない人のようである。自分の智慧の分ではなかったのであり、行は凡夫の段階であった。全く乳のように生の状態であった。この意義をもって、頓教は最初にある。また醍醐と名付け、乳味の教えとする。この意義は知られるであろう。

次に、漸教を開くことについて述べる。仏はもともと大乗をもって、衆生を悟りに導こうとする。それに耐えられない者は方便をもって鹿野苑に行き、一乗の道において、分別して三乗を説く。すなわち三蔵教を開くのである。ただ釈迦は、その無量の神徳を隠して、この漸教における教化をするだけではなく、過去と現在の諸仏もまた同様である。前に引用した通りである。まさに知るべきである。最初の頓教の後に続いて漸教を開くのである。

このために『涅槃経』に「仏より十二部経が出て、十二部経より修多羅が出る」とある。正しくこの意義と応じている。たとえば、牛から乳が出て、乳より酪が出るようなものである。この喩えは異なってない。漸教にふさわしい能力の者は頓教においてまだ教えを受けることができないことは、乳のように全く生の状態である。三蔵教の中で教えを受け、凡夫をあらため聖者となることを、乳が変わって酪となることに喩える。すなわちこれは次第において第二時の教えとする。濃淡優劣で喩えとしているのではない。

「方便品」の経文を引用することは、これで終わる。

法華玄義 現代語訳 201

『法華玄義』現代語訳 201

 

第五節 教相を判ず

教相を判別するにあたって、六つの項目を立てる。一つめは大綱を挙げ、二つめは三箇所からの文を引用して証し、三つめは五味半満相成であり、四つめは合不合を明らかにし、五つめは通別料簡し、六つめは増数に教えを明らかにする。

(注:ここまでは、他の教判について述べられてきたが、ここからは天台大師の立てた教判についての説明となる)。

 

第一項 大綱を挙げる

この大綱を挙げるにあたって、三種ある。一つは頓教であり、二つは漸教であり、三つは不定教である。この三つの名称は昔から使われてきた用語と同じであるが、意義は異なる。

ここで、この三つの教えを解釈するにあたって、二種の解釈をする。一つは、a.教門について解釈し、二つは、b.観門について解釈する。教門は信行の人のためにし、また教えを聞く意義を成就する。観門は法行の人のためにし、また智慧の意義を成就する。この聞く意義と智慧の意義が具足するということは、人の目の前に日光が明らかに照らせば、あらゆる色形を見ることができるようなものである。具体的には『大智度論』の偈(注:『大智度論』第五巻にある偈を指す)の通りである。

 

第一目 教門について

Ⅰ.頓教

先ず教門について解釈すると、『華厳経』に記されているところの、あらゆる場所(七処八会)において説かれた教えは、たとえば、太陽が出て先ず高山を照らすようなものである。『維摩経』の中には、ただ強い匂いのする木の林に入れば、その匂いしかしないようなものだとある。『大品般若経』には、不共般若を説く。『法華経』に「ただ無上の道を説くのみ」とある。また「初めて私の身を見て、私の説く教えを聞いて、すぐにみな信じ受け入れ、如来智慧に入る」とある。また「もし衆生に会えば、すべて仏道を教える」とある。『涅槃経』の第二十七巻に「雪山に草がある。忍辱という名前である。牛がこれを食べれば、醍醐を出す」とある。また「私が初めて悟りを得た時、大河の砂の数ほどの菩薩たちが来て、その意義を質問した。今のあなたのようだ」とある。あらゆる大乗経典のこのような経文の意味は、みな頓教の相を表わしているのである。しかし、その経典そのものは、頓教の部類ではない。

Ⅱ.漸教

『涅槃経』の第十三巻に「仏から十二部経が出て、十二部経より修多羅が出て、修多羅より方便経が出て、方便経から般若が出て、般若より涅槃が出る」とある。このような意義は、漸教の相である。また初め人天より二乗、菩薩、仏道まで段階的に進むことも、また漸教である。またその中間に次第が入ることも、また漸教である。

Ⅲ.不定

不定教には特定な教えはない。ただ頓教と漸教の中において、それは見られる。今、『涅槃経』の第二十七巻にある文によって見れば、「毒を乳の中に入れれば、その乳は人を殺す。酪、蘇、醍醐に毒を入れても、また人を殺す」とある。これは過去の仏の所において、かつて大乗の実相の教えを聞くことを、毒をもって喩えているのである。

今生において、釈迦の声による教えに会う。するとその毒はすなわち発して煩悩の人を殺す。『提謂波利経』においては、ただ五戒を聞くだけで、無生法忍を得る者もあり、また三百人は信忍を得て、また四天王は柔順忍を得て、みな長い楽しみの薬を服し、長生きの札を帯びて、戒律の中に住んで、諸仏の母を見る。すなわちこれが、乳の中の毒が人を殺すことである。

大智度論』に「教えに二種類ある。一つは顕露教、二つは秘密教である。顕露教においては、初転法輪に、五人の比丘および八万の諸天は、法眼浄を得る。秘密教においては、無量の菩薩たちが無生法忍を得る」とある。これは酪の中の毒が人を殺すことである。

生蘇の中の毒が人を殺すとは、「あらゆる菩薩が、方等大乗の教えにおいて、仏性を見ることができ、大涅槃に住む」とあり、まさにこの意義である。

熟蘇の中の毒が人を殺すとは、「あらゆる菩薩が、『摩訶般若』の教えにおいて、仏性を見ることができる」とあり、まさにこの意義である。

醍醐の中の毒が人を殺すとは、『涅槃経』の教えの中にあるように、能力の劣った声聞は、智慧の眼を開いて発し、仏性を見ることができる。そして、能力の劣った縁覚、菩薩、七種の方便の人も、みな究竟の涅槃に入る。まさにこの意義である。

以上を不定教の相と名付ける。不定教の経典という意味ではない。

(注:不定教とは、同じ教えを聞いても、人によってその得るところは異なる、ということであるが、この箇所の記述は非常に簡潔であり、この文だけでは予備知識がない限り到底理解できない。さらに不定教には、顕露不定教と秘密不定教があることになる。詳しくは、第一章第五節の標教の箇所に記されている)。

 

第二目 観門について

Ⅰ.円頓観

初発心から即座に実相を観じて、常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種三昧を修して、八正道を行じる。すなわち道場において、仏の知見を開き、無生法忍を得る。牛が忍草を食べて、醍醐を出すようなものである。この意義は、詳しくは『摩訶止観』に記されている。

Ⅱ.漸次観

初発心から円満な悟りを求めて、数息観・四禅・四無量心・四空定の十二禅門を修す。すなわちこれは根本の行(定聖行の中の根本味禅)である。このために、「凡夫は血の混じった乳のようである」という。次に数息門・随息門・止門・観門・還門・浄門の六妙門、十六特勝(十六種の優れた観心)(以上が定聖行の中の根本浄禅)、観禅(かんぜん)、練禅(れんぜん)、熏禅(くんぜん)、修禅(しゅぜん)(以上が定聖行の中の出世間禅)など、そして三十七道品(すべての行に含まれるとする)・四聖諦観(=慧聖行)などを修行する。これらは声聞の法である。清浄の乳のような行である。次に十二因縁観を修す。これは縁覚である。酪のような行である。次に四弘誓願六波羅蜜を修す。これは蔵教・通教の菩薩の修行する事象と理法の法である。みな生蘇のような行である。次に別教の菩薩の行を修行する。みな熟蘇のようである。このために「菩薩は熟蘇のようである」とある。次に(出世間上上禅の中の九種大禅の中の)自性禅を修して一切禅に入り、最後の清浄浄禅である。このあらゆる法門は、よく仏性を見て、大涅槃に住み、真身・応身が具足する。このために醍醐の行と名付けるのである。

もしまさしく菩薩の位について、五味の意義を述べれば、前に説いた行妙の項目のところで記したとおりである。また『次第禅門』に説く通りである。以上を漸次観と名付ける。

Ⅲ.不定

過去の仏に従って深く善根を植え、今生で十二門禅を修して証し、明確に悟りを開き、無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が乳の中にあって、人を殺すことである。また、座って不浄観・九想・十想・八背捨・八勝処(以上は観禅の中の行)、有作の四聖諦観などを修し、この禅定によって、明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が酪の中にあって、人を殺すことである。また、四弘誓願を発し、六波羅蜜を修し、仮を体得して空に入り、無生の四聖諦観をもって明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が生蘇の中にあって、人を殺すことである。また、六波羅蜜を修行し、従空出仮を修し、無量の四聖諦観をもって明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が熟蘇の中にあって、人を殺すことである。また、坐禅して中道の自性などの禅定の正しい観法を修し、無作の四聖諦観を学び、法華三昧(=半行半坐三昧)・般舟三昧(=常行三昧)などの四種三昧を行じて明確に悟りを開き、心に理解し無生法忍を得る。すなわちこれは、毒が醍醐の行の中にあって、人を殺すことである。

ここで、信行と法行の二つの行において仏法を述べるにあたって、三つの意義がある。前に述べたあらゆる教えにおいては、一つとして他の法師たちの教えに相違するものはない。もし禅定を修して道を学ぼうとするならば、前に述べたあらゆる修行においては、法行の人のために、心が安らかになる法を説く。一つとして世間の禅師と同じものはない。

以上が概略的に教門と観門の大意を述べて、仏法を包括した。

法華玄義 現代語訳 200

『法華玄義』現代語訳 200

 

第四節 研詳去取

研詳去取(けんしょうこしゅ)とは、実を詳しく調べることを「研」といい、権を詳しく調べることを「詳」といい、法相に適うために「去取(取捨選択のこと)」をすることである。

もし五時をもって教えを明らかにしようとすれば、五味の方便の文を用いることができるが、一つの真理の道は捨てることになる。この方便の文を用いることができるといっても、五時に対応する教えに分配することはできない。この方便の文は共通して用いることができても、五時の教えに対応させることは、適宜にやめるべきである。

もし前の十二年に有相教を明らかにするといえば、これは小乗の四門(有門・空門・亦有亦空門・非空非有門)の中の有門の一門を得ることができるが、他の三門を失う。なぜなら、三蔵教にすでに四門の悟りがあって、あるいは有を見て悟りを得るのは『阿毘曇論』の通りであり、あるいは空を見て悟りを得るのは『成実論』の通りであり、あるいは亦有亦空を見て悟りを得るのは『昆弥論』の通りであり、あるいは非空非有を見て悟りを得るのは悪口車匿(あっくしゃのく・釈迦が出家する時の従者であり後に出家したが、釈迦の従者であったという高慢からたびたび他の比丘たちに悪口を言うなどした。しかし、釈迦の入滅後、心を入れ替え悟りを開いた)のようである。このために知る。『成実論』に「涅槃の真の法宝は、衆生がそれぞれの門をもって入る」とある通りである。もし有門の一つの門を挙げて名付けるならば、総合的に三蔵教と言うべきである。もし詳しく明らかにしようとすれば、具体的に四門を立てるべきである。何の意義をもってただ有相だけを残して、他の三つを失うのか。後の人々に疑いを起こして、空と有の争いを起こしてしまうだけである。三蔵教の菩薩の場合は、詳しく四門を学び、あらゆる方便に通じるべきである。そして、後に仏の悟りを得る時、正遍知と名付けられるのである。もしただ有相の教えだけをあげれば、ただ有相を見て悟りを得る有門の一門を得るのみである。声聞は全く三門の涅槃に入る道を失っているので、小乗においても意義を欠く。もしただ有相のみならば、偏って一門を知って三門を理解しないことになる。これは正遍知ではない。菩薩において意義を欠く。この欠落は多いために、すべて捨てるべきである。そこで得るものは少なく、ただ一門を残すのみである。

もし十二年の後に無相教を明らかにすれば、無相とは三乗に共通の共般若であるとすることはできても、不共般若を捨てることになる。共般若に四門ある。幻の如く化の如くとするのは、すなわち有門であり、幻や化はないとするのはすなわち空門であり、幻や化はあってあるのではないとするのは、すなわち亦空亦有門であり、幻や化はないということはないとするのは、すなわち非空非有門である。もし『般若経』は無相であるというならば、ただ共般若の空門の一門であるとすることはできるが、他の三門は捨てることになる。また不共般若の四門を捨てることになるので、合計すると七門を失う。なお、これは修行である因の正遍知ではない。どうして悟りである果の正遍知であろうか。ただ捨てることになるところは捨て去り、得るところは得ているのみである。

もし、第三時は小乗の声聞を抑え、大乗の菩薩を褒めるというならば、これは小乗の一つの声聞を退けるが、有門以外の三門と通教の四門の合計七種の声聞を失う。大乗を顕わすという一つの意義はあるが、全く他の偏った教えの菩薩を抑え、円満を究めた菩薩を褒めることができない。またあらゆる菩薩を抑えて、実の菩薩を得ることができない。また偏と円・権と実の四門を知らない。得るところは少なく、得られないところは多い。

もし、第四時は同帰教だとするならば、ただ万善同帰・一乗という名称だけを得るのみであり、万善同帰・一乗の「所」を得ることはできない。「所」とは、すなわち仏性が同じく常住に、また一乗に帰一することなどである。ただ会三帰一を得て、会五(三乗に人天の二乗を加える)帰一を得ない。会七(この七は不明)帰一を得ない。ただ「帰一」という名称を得るだけであり、仏性・常住に帰するわけではない。このような欠点がある。

第五時の常住教が、二諦によって常住を論じるものならば、すなわちそれは常住ではない。もし二諦によらなければ、非難するところはない。常住を明らかにするといっても、全くそれは常住でもなければ無常でもなく、また共に常住と無常を用いるところを失っている。ただ常・楽・我・浄の四術の中の一つを得るだけであり、他の三術と無常・苦・無我・不浄の四術を合わせた七術を失っている。またその正しい体を得ない。

四時教の同帰教と、三時教の褒貶抑揚教は、証拠となる経文がなく、実としてよるべきものがなく、進むにしろ退くにしろ取るべきところはない。

北地の五時教もまた、証拠となる経文はなく、また実の意義を失っている。その中からの取捨選択は前に述べた通りである。

半満教は、実の意義を得て、方便の意義を失っている。四宗教は五味の方便の意義を失い、また実の意義を失っている。五宗教・六宗教も四宗教と同様である。有相と無相の二種の大乗教は、権と実が全く別であり、父母が全く別であり子が生まれないようなものである。導師はどのように弟子を導くのであろうか。権がもし実を離れれば、実相の印はなく、これは魔の説くところである。実がもし権を離れれば、説いて示すことができない。一音教は実を得て権を失っている。男女のやもめは生活することができず、子を持つことはできない。あらゆる宗家の教えを理解する方法は、さまざまであって同じものはない。みな今の世の師である。それぞれ自ら深いところに至ったと言う。しかし時が移れば、また新たな意義が加えられる。このごろの賢者は争いに暇がない。このために、ここまで詳しく調べ非難し、取捨選択を論じて、ほぼ大意を述べた。

もしこの病を除けば、今まで述べて来た通りである。もし除かなければ、それらを用いては誤りが生じる。どうして誤りが生じるのか。有相教はすべて四門を用い、無相教は共般若・不共般若の八門を用い、褒貶抑揚教は小乗を抑えて大乗を褒め、偏った教えを抑えて円満な教えを褒め、権を抑えて実を褒めることを用い、同帰教は同じく一乗・常住・仏性・究竟円趣に帰することを用い、常住教は常ではなく、無常ではなく、ならべて常と無常を用い、二種の鳥が決して離れないように、八術が具足することを用いる。

五味を用いれば、順序は経文の通りである。後に説くであろう。『提謂波利経』を用いるのは、ただ人天乗があるからだけではない。半満を用いれば、次の五句がある。すなわち、「満」と、「満を開いて半を立てること」と、「半を破って満を明らかにすること」と、「半を帯びて満を明らかにすること」と、「半を廃して満を明らかにすること」である。因縁宗・仮名宗を用いるならば、三蔵教の有門・空門の二つとするだけである。誑相宗を用いるならば、通教の一門であるだけである。真宗を用いるならば、ただ常であるだけである。常はただ真であるだけである。法界はただ『華厳経』だけにあるのではない。円宗は、ただ『大集経』を指すだけではない。有相教・無相教を用いることは、有相について無相を明らかにし、無相について有相を明らかにし、この二つの相を離れない。一音教を用いるならば、智慧ある方便は解脱であり、方便ある智慧は解脱である。たといその名称を取っても、意義を用いることは異なる。

法華玄義 現代語訳 199

『法華玄義』現代語訳 199

 

第七目 五宗の批判

五宗に対する批判は、その中の四宗に対して非難したことは同じである。もし『華厳経』を法界宗として、『大般涅槃経』と異なり、『涅槃経』は法界宗ではなく、ただ常宗と名付けると言うならば、『大般涅槃経』に「大般涅槃は諸仏の法界である」とある。どうして『涅槃経』が『華厳経』よりも劣っているのか。もし常住は法界ではなく、法界は常住でないならば、まさに生滅があるはずである。常住は法界でなければ、法を摂取し尽くすことはできない。これはみなあり得ないことである。『大品般若経』に「一法として法性の外に出るものを見ない」とある。法性はすなわち法界である。また「すべての法は色に趣く。この趣くことを過ぎない」とある。これがどうして法界の説ではないだろうか。しかしただ『華厳経』は法界であって『涅槃経』・『大品般若経』とは異なると言うのだろうか。

 

第八目 六宗の批判

六宗に対する批判は、その中の四宗に対して非難したことは同じである。ここで、真宗と常宗の二つの宗を問う。真宗と常宗がもし同じならば、なぜ二つの宗とするのか。真宗と常宗が異なっているならば、共に妙法ではない。なぜなら、真宗がもし常宗でなければ、真宗はすなわち生滅である。常宗が真宗でなければ、常宗はすなわち虚偽である。また真宗が常宗でなければ、前の三宗とどこが異なっているのか。もし常宗は真宗でなければ、すなわち破り壊れる法である(注:ここでは、経論を引用するのではなく、もっぱらその名称についての批判である。真宗の真とは、真理という意味であり、常宗の常とは、ここまで何度も繰り返されているように常住のことである。そうすると、真宗と常宗は同じことになる。常住とは時間を超越した絶対的真理を指すからである。しかし、あくまでも異なっているものだとするならば、絶対的真理が他の何ものかと相対することはあり得ないので、真は生滅する相対的なものとなり、常ということも虚偽となり、絶対的真理である妙法とは言えない。これでは、他の三宗と異なったところはないではないか、というのである)。

 

第九目 円宗の批判

もし『大集経』の染浄円融(汚染と清浄が円融しているという教え)は、『涅槃経』と『華厳経』に異なると言うならば、これもまた誤りである。『大品般若経』に「色はすなわち空である。色が滅して空となるのではない」とある。『大智度論』にこれを解釈して「色は生死であり、空は涅槃である。生死の究極と涅槃の究極とは、一つにして二つではない」とある。これはどうして染と浄が共に円融するということでないことがあろうか。また「すべては色欲に趣き、瞋恚に趣き、愚痴や諸見などに趣く」とある。どうしてこれが共に円融する相でないことがあろうか。『維摩経』に「すべての煩悩は如来の種である。愚痴や愛を断じないまま、あらゆる解脱を起こす。道でないものを行じて仏の道に通達する」とある。この円融は何であるか。『大集経』と異なっているだろうか。

この六宗と五宗は、みな四宗によって開かれている。ただ四宗の根拠となる経文はない。あるいは「『頂王経』に出ている」と言う。ある経典には「初めに因縁の諸法が空であることを説き、次に諸子に一乗常住の法を教える」とある。「諸法が空である」ならば、まさにこれは仮名宗であるはずがない。「一乗常住」ならば、まさにこれは通教・誑相宗であるはずがない。あるいは「その経典が中国に渡って来なかったのである」と言う。四宗はすでにそうであるならば、五宗・六宗は四宗によって開かれ立てられている。みな信じて用いることはできない。

 

第十目 有相無相の大乗教の批判

有相と無相については、まさに説く必要はないのである。なぜなら、もともと真について俗を論じれば、かえって俗について真を論じることになる。すべての智者は無為法を用いるが、そこに違いがある。『華厳経』に十地を論じるといっても、それは法身を説くためのものである。『楞伽経』・『思益経』にまた空を論じるといっても、どうしてかつて無生法忍を説かなかったことがあろうか。

もしもっぱら有相を用いるならば、相はすなわち体がないものである。その教えは何を明らかにするのだろうか。また悟りも得られない。もしもっぱら無相を用いるならば、無相は真寂であり、言葉を超越して相を離れている。言語道断、心の動きが滅びれば、またすなわち教えとはならない。どうして説くことができようか。もしこれが教えだと言うならば、教えは相である。なぜ無相と言うのか。

大品般若経』に須菩提が質問して「もし諸法は畢竟してあるところがなければ、どうして一地から十地があると説かれるのか」と言っている。仏は答えて「諸法は畢竟してあるところがないことをもってのゆえに、すなわち菩薩の初地より十地に至るものがある。もし諸法に確固たる性があれば、すなわち一地から十地はない」と述べている。このために知る。有相と無相の二種の大乗教を、別々のものとして説くことは経文に背く。

 

第十一目 一音教の批判

ただ一つの大乗があるのみであり、三乗の区別がないと言えば、ただこれは実智であって、権智を見ない。もしただ大乗だけならば、『法華経』になぜ「私がもし仏乗を讃嘆するならば、衆生は苦に没する。法を破って信じないために、三悪道に堕す。すぐに方便を思えば、諸仏はみな歓喜する」と言っているのか。このために知る。ただ一つの大乗の教えがあるのではない。もしもっぱら一乗のみならば、またまさに『法華経』においても長者の身だけであろう。すでに汚れた衣があれば、また大乗小乗の相対がある。なぜ混同して一音であると判断して、方便を失うことができようか。もし仏は常に一乗を説いているが、衆生はそれを三乗と見ると言えば、教化において、衆生が主である能化になり、仏は所化になってしまう。仏はすでに能化であれば、まさによく三乗を説く。なぜ一乗を用いることがあろうか。

もし『法華経』はもっぱら一乗であると言うなら、確かにそうである。『華厳経』において、五つの天を行ったり来たりすることは、能力の劣った菩薩のために、別の方便を開いているのである。ましてや他の経典もそうである。

このために知る。一音教が正しければ、『法華経』においてもただ一つの大きな車があるのみとなり、方便を喩える従者はいないことになる。ただ智慧波羅蜜だけがあって、方便波羅蜜がないことになる。

法華玄義 現代語訳 198

『法華玄義』現代語訳 198

 

第二項 北地の批判

第一目 五時の意義の批判

もし『提謂波利経(だいはりきょう・現在では中国で作られた偽経とされている)』に五戒・十善を説くと言うならば、実際は、その経典にはただ五戒を明らかにするのみであり、十善は明らかにしてはいない。ただこれは人に対する教えであり、天に対する教えではない。たといこれを人天教としても、他のあらゆる経典ではみな五戒や十善は説かれている。これらも人天教なのであろうか。また『提謂波利経』には、「五戒を諸仏の母とする。仏道を求めようと願えば、この経を読み、阿羅漢を求めようと願えば、この経を読め」とある。また「不死の地を得ようと願えば、まさに長生きの札を着け、不死の薬を服し、長い楽しみの印を持つべきである」とある。「長生きの札」とは、すなわち三乗の法であり、「長い楽しみの印」とは涅槃の道である。どうしてこの経典だけが人天教だというのか。

また「五戒は天地の根、あらゆる霊の源である。天はこれをもって陰陽を和して、地はこれをもって万物を生じさせる。万物の母、万神の父、大いなる道の元、涅槃の本である。また四事の本、五陰、六境の本である。四事とは、すなわち地、水、火、風の四大である。四事はもともと清浄であり、五陰はもともと清浄であり、六境はもともと清浄である」とある。このような意義は、元を究め、妙の極みの教えである。どうしてこの経典が人天教であろうか。

また、『提謂波利経』に記されている提謂長者は、無生法忍を得て、三百人は信忍を得て、二百人は須陀洹を得て、四天王は柔順法忍を得て、龍王は信根を得て、阿修羅はみな阿耨多羅三藐三菩提を求める心を発している。このような道を得ることを見れば、どうしてこれが人天教なのであろうか。

また次に、『大智度論』では、それぞれの「蔵」を設けている。釈迦の最初の説法である鹿野苑から入滅の夕べに至るまで、すべて説くところの小乗の法は、まとめて三法蔵とする。最初に生まれてから沙羅双樹に至るまで、すべて説くところの大乗は摩訶衍蔵(まかえんぞう)とする。鹿野苑の前は、小乗には摂取されない。なぜならば、その時、まだ僧侶たちの僧宝はない。このために『提謂波利経』を初教とはできない。

もし『提謂波利経』は秘密教の一音異解だと言うならば、まさに顕教の最初にあるべきではない。他の有相教・無相教・同帰教・常住教は、南方の説と同じである。すでに前に論破した通りである。

 

第二目 菩提流支の半満の意義の批判

最初の鹿野苑の三蔵教からみな、半字の意義を明らかにし、『般若経』から最後の『涅槃経』に至るまでは、みな満字を明らかにすると言うが、そのようなことはない。釈迦が悟りを得た夜から、常に般若は説いている。鹿野苑以来、どうして満字ではないことがあろうか。『提謂波利経』の時、無量の天人が無生法忍を得たようなものである。悟りを得てから六年後に、すでに『殃掘摩羅経』を説く。『涅槃経』に「私は初めて悟りを得ると、大河の砂の数ほどの菩薩たちが来て、その意義を質問した。今のあなたと同じである」とある。まさに知るべきである。鹿野苑はまさにもっぱら半字ではないのである。

般若経』より以降の諸経はみな満字であるということについては、『大智度論』に「『般若経』は秘密教ではないので、阿難に託した。『法華経』は秘密教なので、あらゆる菩薩に託した」とある。もし同じく満字の教えならば、なぜ一つは秘密教で一つは秘密教ではないのか。またもしみな満字の教えならば、まさに同じく三乗を開会すべきである。またもし同じく満字の教えならば、生蘇味・熟蘇味の二つの教えはまさに、醍醐味の教えとなるはずである。醍醐味の教えは、同じく生蘇味・熟蘇味の教えとなるはずである。五味に喩えられたものは、すべて別々であり同じでないので、それによって喩えられた教えは、同じ満字とはならないはずである。

 

第三目 因縁宗の批判

次に四宗(因縁宗・仮名宗・不真宗・常宗)を批判する。まず因縁宗は、『阿毘曇論』の六つの因と四つの縁を指すという。もしそうならば、『成実論』にまた三つの因と四つの縁を明らかにしているではないか。すべての諸法は、みな因縁によって生じている。因縁の言葉はどの経論にも共通するのである。なぜ『阿毘曇論』だけなのであろうか。

また因縁宗は、次の仮名宗と異なる。このため、『成実論』に「四諦を見るということは、心を調える法である。悟りを得るためではない」とある。すでに因縁宗を立てるならば、どの悟りを得ることができるのか。もし小乗の悟りを得れば、すなわち仮名宗と同じになる。どうして別に立てる必要があるのか。もし大乗の悟りを得れば、すなわち円宗・常宗と同じになる。やはり別に立てる必要はないはずである。ここで、別に「宗」と立てるならば、小乗と大乗とは別の悟りがあるのだということになってしまう。

 

第四目 仮名宗の批判

『成実論』に、因成仮(いんじょうけ・因縁によって生じた仮)・相続仮(そうぞくけ・仮が連続して存在すること)・相待仮(そうだいけ・相対関係を生じさせる仮)の三仮は、水に浮いては消える泡のようなものであることを観じる法について述べている。すなわちこの世諦の事象的な法は、『成実論』の中心的な教えではない。『成実論』は、空を見て悟りを得ることを述べているので、まさに空をもって宗とすべきである。また『大智度論』に三蔵教の中の空門を明らかにしているが、そこに仮名門はない。もしその意義を指すならば、その意義をもって宗の名称とすべきである。すでに別に名称を立てているのならば、空を見て悟りを得ることではない。

 

第五目 不真宗の批判

大品般若経』において、諸法については、幻、焔、水中月、虚空、響、乾闥婆城(けんだつばじょう・蜃気楼のこと)、夢、影、鏡中像、化(いわゆる魔術師のわざ)の十喩を用いて、真実ではなく誤った相であるとされている。そして龍樹は大乗の中にある異端的外道を指して、「仏の十喩を取って、すべては幻の如く化の如く、生じることもなく滅びることもないと説く。それは般若の意義を失っているので外道と同じである」と述べている。どうして他から非難される意義を拾って、不真宗を立てるのか。もし文に幻化を明らかにして、仏性・常住を述べないことを不真とするならば、それは誤りである。『般若経』に仏性・常住を明らかにしているということは、前にすでに述べた通りである。なぜ『般若経』だけが幻化を明らかにしているのだろうか。『華厳経』にまた「すべては化のようであり、夢のようであり、心は巧みな魔術師のようである」などのあらゆる譬喩がある。『涅槃経』にもまた「諸法は幻化のようである。仏はその中において執着を起こさない」とある。このように、あらゆる経典では、みな幻化を明らかにしている。そうならば、これらはみな不真宗であるはずである。もしあらゆる経典の幻化が不真宗でないならば、なぜ『大品般若経』においてのみ、詳しく真実の相ではないと説いていると言えるのか。

 

第六目 常宗の批判

常宗は『涅槃経』だと言っている。しかし『涅槃経』はどうしてただ常住だけを明らかにするのだろうか。また非常非無常・能常能無常を明らかにし、並べて用いて常、楽、我、浄、無常、苦、無我、不浄の八術を具足する。どうして単に常住だけを取って宗とし、無常を取って宗としないのか。車輪が片方だけの車は走れず、片方だけの翼の鳥は飛べないようなものである。

彼が「誑相不真宗は、すなわち通教である。常宗はただ真宗であるならば、すなわち通宗である」と言っているが、宗は真と不真に共通させているではないか。不真宗は通教であると言っているが、どのような意義をもって「宗」ではなく「教」を用いるのか。真宗は、どのような意義をもって「教」ではなく「宗」を用いるのか。宗にもし教がなければ、どうして真を知ることができようか。真宗は宗がなくて教があれば、同じく通教と名付けられる。もし共に教をなくして宗を留めるならば、同じく通宗と名付けられる。もし共に教を留めるならば、同じく通宗教と名付けられる。もし不真と真を留めるならば、すなわち通不真宗教・通真宗教と名付けられる。通不真宗は、三乗が共に修するものとすることができるので、通真宗もまた三乗が共に修するものとするべきである。もしこの通は融通の通だとするならば、通教もまた通真の通であるべきである。これはすなわち両方の名称が混同しており、意義に区別がない。

彼は『楞伽経』を引用して「説は通じて無知の人を教え、宗は通じて菩薩を教える。このために真宗をもって通宗とする」と言っている。もしそうならば、これはすなわち因縁宗・仮名宗・不真宗は、みな無知の人を教えるものとなる。まさにすべてを「宗」とすべきではない。このように並べて検討すれば、四宗の名義は、非常に不便である。

法華玄義 現代語訳 197

『法華玄義』現代語訳 197

 

第五目 第五時教の批判

「第五時教」が、釈迦入滅時の仏身の常住、衆生の仏性、一闡提の作仏を説いている、と主張していることについての批判は、以下の通りである。

もしそうならば、問う。成実宗の論師は、俗諦と真諦の二諦によって理法を理解している。第五時教は二諦を摂取するのか。もし二諦を摂取するならば、他の経典と同じである。そして第五時より前の教えの二諦が無常ならば、釈迦入滅時の仏身の二諦をどうして常住とすることができようか。釈迦入滅時の仏身は二諦を出ないで、別教の理法を照らし、別教の惑を破って、常住であるとすれば、前の教えが明らかにする二諦もまた別教の理法を照らし、別教の惑を破るはずである。なぜそれが無常であろうか。衆生の仏性と一闡提の作仏も、これと同じように批判することができる。

このために知ることができる。理法を明らかにすることは、前の教えと異なりがない。なぜ前の教えも常住としないのか。

頓教に対する批判も、これと同じである。二諦においては同じであるので、何によって頓とするのか。権は別であるとしても、事象に従って大乗と小乗を区別すべきではない。これは大いに顛倒している。

 

第六目 偏方不定教の批判

不定教は、五時の順序の中にあるのではなく、別に特定の衆生の能力のために説かれるものであり、『金光明最勝王経』『勝鬘経』『楞伽経』『殃掘経』などがこれだという。

それならば、次のように問いたい。『殃掘経』の経典は、釈迦が悟りを開いて六年目で説いた教えである。順序通りに聴衆を列挙することは、他の経典より詳細である。誤りを退けて常住を明らかにすることは、他の経典より分明である。帝釈天梵天、四天王、および十大弟子、そして文殊菩薩まで、みなその誤りを指摘され、そして常住の教えを聞いている。それは自然ではないか。まさに、五時の順番に入れるべきである。しかしここでは不定教としている。

維摩経』もまた誤りを指摘する経典である。ならばどうして五時の順番に入れるのか。また『維摩経』において責められるところは昔のことである。維摩居士の見舞いに行く際、昔責められたと言って、行くことを辞退している。まさに知るべきである。前の十二年にすでに責められているという事実を記していることは、『殃掘経』と同じである。もし『殃掘経』が偏方不定教ならば、『維摩経』もそうであり、五時の順番に入らない。もし『殃掘経』に常住を明らかにすることは、別に特定の衆生の能力のためといえば、『維摩経』に「煩悩の一種は如来の種である」とあって常住を明らかにしている。どうして『維摩経』が五時の順番の中の教えなのか。

 

第七目 五味の教えの解釈の批判

『涅槃経』にある五味の教えの喩えによって五時教を判断し、牛より乳が出ることを用いて、前の十二年の三蔵教の有相教を喩え、乳から酪を出すことを、十二年の後の『般若経』の無相教を喩え、酪から生蘇を出すことを、方等教の褒貶教を喩え、生蘇から熟蘇を出すことを、万善同帰教の『法華経』の教えを喩え、熟蘇より醍醐を出すことを『涅槃経』の「常住教」を喩えているが、それについて批判する。

これは、目に見えて経文に背いており、意義理法も顛倒して、順序通りになっていない。なぜなら『涅槃経』には「牛より乳が出ることは、最初に仏から十二部経(すべての経典をその内容と形式から十二種類に分類したもの)が説かれることを喩えている」とある。どうして十二部経をもって、小乗の九部経の有相教に対応させるのか。第一に、有相教に十二部経はなく、第二に、有相教は仏の最初の説法ではない(注:歴史的には、有相教にあたる教えが、釈迦の最初の説法であるが、天台教学の五時教判においては、あくまでも『華厳経』が最初の説法である)。このために、これをもって対応させるべきではない。

彼は擁護して「小乗にも十二部経はある。『涅槃経』の経文に『雪山に忍草がある。牛がもし食べれば醍醐を出す。さらに他の草もあるが、牛が食べても醍醐を出さない』とある。このために知ることができる。大乗と小乗にはそれぞれに十二部経がある。ただ仏性があるのと仏性がないのとの違いである」と言っている。

それならば、次のように問いたい。たとい共通して十二部経があっても、どうして仏性を明らかにする十二部経を取って、乳味の教えとしないのか。『涅槃経』の第七巻に「(十二部経のうちの)九部経には仏性を明らかにしていない。この人に罪はない。大海にはただ七宝があって、八宝があるということではないというように、この人に罪はない」とある。これによって言えば、もし十二部経に仏性がなければ、この人は罪を得る。すでに十二部経を具すと言えば、どうして仏性を明らかにしないのか。すなわち罪を得る句となってしまう。どうして罪のない十二部経に合わせないのか。

もし十二部経より修多羅を取り出し、修多羅を無相教の『般若経』の教えに対すると言えば、修多羅はすなわちすべての有相教・無相教に共通することになる。五時の経典はみな修多羅である。どうして無相教の『般若経』だけに対するのか。

解釈して「『般若経』の中に仏の直説の意義がある。またこれは第二時である。このためにこれに対する」と言っている。

もし直説はまさに修多羅であると言うならば、『般若経』の中に、譬説・因縁説・授記説・論議説などがある。どうしてただ直説だと言えるのか。『般若経』はあらゆる説を兼ね備えるが、修多羅をもって名称とすれば、他の経典にも直説はある。どうして修多羅に対応しないのか。

もし第二時と言うならば、どの経典が第二時でないことがあろうか。すでに前に批判した通りである。

修多羅から方等教の経典を出すことを、褒めたり責めたりする『維摩経』などの教えに対応させれば、『維摩経』はまさに『大品般若経』の後になければならないことは、すでに前に論破した通りである。

方等教から『般若経』を取り出し、『法華経』に対応させれば、『涅槃経』の経文に「般若」と言っても、曲げて解釈して『法華経』とする。『涅槃経』の経文を曲げて自分の意義に合わせるようなことは、最も意味がない。『涅槃経』に「八千人の声聞は『法華』において授記を受ける」とある。『般若経』において授記を受けるとは言わない。どうして『法華経』を呼び寄せて『般若経』とすることができようか。経文に背き要旨を失い、順序が成り立たない。

般若経』から大涅槃を出す。彼は解釈して「『法華経』より大涅槃を出す」と言っている。これもまた『涅槃経』の経文に合わない。たとえば親の言うことを聞かない子のようであり、群れに従わない羊のようなものである。

五時教の欠点については、その誤りはこのようである。その四時教・三時教は、あえて煩わしくさらに批判する必要はない。南方の教相は、受け入れることはできない。

今、さらに三時教を用いることを批判する。理論派の一派において「十二年の後、終わりの『法華経』に至るまで、同じく無相教と名付ける」と言うことは、『法華経』に三乗を開会しているので、『般若経』もまたまさに一乗に帰すべきである。もしそうでなければ、どうして同じくこれが無相教なのか。四時もまた同様である。