撰時抄 その17

問う
二つめにあげた文永八年九月十二日の時は、どうして、日蓮を失えば自国でも他国からも、戦いが起こるとわかったのか。
答える
『大集経』に「もしまたあらゆる国の支配階級である国王が、あらゆる非法をなし、釈迦の声聞の弟子を悩まし乱し、あるいは罵倒し、刀や杖をもって打ち、および衣鉢や生活の道具を奪い、または布施をする者を妨害する者があれば、私たちは、彼に対して自然に速やかに、他方の怨敵を起させ、および自らの国土にも兵が起り、飢餓や疫病や異常気象や争いごとを起こさせ、またその王の国を間もなく滅ぼすであろう」とある。
このような文はあらゆる経典に多いとはいえ、この経文は身に当たり時に臨んで特に尊く思えるので、引用するのである。この経文に「私たちは」とあるのは、梵天王と帝釈天と第六天の魔王と日天子月天子と四天王などのこの世のすべての天竜などである。
これらの天の上主が、仏前に進み出て言うには、「仏の滅後、正法と像法と末代の時代において、正しい教えを行なおうとする者を邪法の僧侶たちが国主に訴えれば、王の側近や王に取り入っている者たちは、自分たちが尊いと思っている僧侶たちの言うことだから、それについて確認などせず、その智慧者をさんざん辱めるでしょう。そうなれば、何の理由もなく、その国に突然、大兵乱が起き、その後には他国に攻められるでしょう。その国主も失せ、その国も滅びるでしょう」とある。このような経文が成就してしまえば辛いことであり、成就しなければ、私の述べていることが嘘になるので、それもあり得ないことだ。
私にとっては、今生(こんじょう・今の一生という意味)においては、それほど失うものはない。ただ、自分が生まれた国であるから、その恩に報いようとして、この日本を助けようとするまでのこと。そのことが用いられないということは、もちろん本意ではない。その上、文永八年九月十二日の時は、懐に入れていた『法華経』の第五の巻を取り出して、さんざんに打ち、挙句の果てには、町の中を引きずり回すなどした。その時私は、「日天子と月天子はここにいながら、日蓮が災難にあっているのに助けないということは、日蓮が『法華経』の行者ではないからか。もしそうならば、私の邪見を改めてほしい。もし日蓮が『法華経』の行者ならば、すぐに国にその兆候を見せてほしい。もしそうしなければ、今の日天子月天子などは、釈迦仏や多宝仏や十方の仏を騙している大妄語の者となる。提婆達多の嘘偽りの罪や、倶伽利(くぎゃり)の大妄語よりも百千万億倍もの大妄語の天となるぞ」と大声を上げて言ったのだ。すると、たちまち国の中に反逆が起こる災難が起きた。このように国土が大いに乱れたので、私は単なる凡夫ではあるが、『法華経』を持っているので、この世においては日本第一の者であると言うのである。

問う
高慢の煩悩には七慢と九慢と八慢がある。あなたの大慢は、仏教で説く大慢よりも、百千万億倍大きいではないか。徳光論師は弥勒菩薩を礼拝せず、大慢婆羅門は四人の聖人を椅子の足とした。大天は凡夫にも関わらず阿羅漢であると名乗った。無垢論師は自分こそ、五天の第一であると言った。これらの人たちは、みな地獄の底に堕ちた罪人である。あなたはなぜ自分がこの世における第一の智慧者だというのか。地獄に堕ちないとでも言うのか。恐ろしいことである。
答える
あなたは、七慢、九慢、八慢などを本当に知っているのか。釈迦は、自らこの世で第一であると名乗られた。しかし、すべての外道はそれを聞いて、すぐに天に罰せられて、大地が割れて落ち込むだろうと言ったのだ。また日本の奈良七寺の三百人あまりが、最澄は昔の聖人の生まれ変わりか、などと言った。しかし、天も罰することなく、かえって左右を守護し、大地も割れず金剛のようにしっかりと支えた。伝教大師比叡山を立て、すべての人々の眼目となり、結局、奈良の七大寺の方は、最澄に屈服して弟子となり、日本中は比叡山の檀家となった。
このように、実際に優れた者を優れていると言うことは、高慢ではなく大きな功徳である。伝教大師は、「天台法華宗が他の諸宗よりも優れている理由は、拠り所としている経典によるためである。自賛して他を貶めているわけではない」と言っている。また、『法華経』に「多くの山の中で須弥山が第一である。この『法華経』もそれと同じである。諸経の中で最もこれ第一である」とある。この経文は、『法華経』以前に説かれた『華厳経』や『般若経』や『大日経』など、そして今説かれたばかりの『無量義経』、そしてこれから説かれる『涅槃経』などの五千七千巻の経典、および、インドや竜宮や四王天や忉利天や日天月天の中にあるすべての経典は、土山、黒山、小鉄囲山、大鉄囲山のようであって、日本に伝えられた『法華経』は須弥山のようだという意味である。また「この経典を受け保つ者も、またこれと同じである。すべての人々の中で、最も第一の者である」とある。この経文をもって考えるに、『華厳経』を持つ普賢菩薩、解脱月菩薩など、また竜樹菩薩、馬鳴菩薩、法蔵大師、清涼国師、則天皇后、審祥大徳、良弁僧正、聖武天皇、そして『深密般若経』を持つ勝義生菩薩、須菩提尊者、嘉祥大師、玄奘三蔵、太宗、高宗、観勒、道昭、孝徳天皇、そして真言宗の『大日経』を持つ金剛薩埵、竜猛菩薩、竜智菩薩、印生王、善無畏三蔵、金剛智三蔵、不空三蔵、玄宗、代宗、慧果、弘法大師、慈覚大師、そして『涅槃経』を持つ迦葉童子菩薩、五十二類、曇無懺三蔵、光宅寺の法雲、南三北七の十師などよりも、末代悪世の凡夫であり、戒律の一つも持たず、仏になれないような者に見えるけれども、経文の通り、過去現在未来において、『法華経』より他は仏になる道はないと強く信じて、それ以外は何も知らない者の方が、これらの大聖人よりも百千万億倍勝っているという経文である。この聖人の中には、あるいは『法華経』に移ろうと考えている人もおり、あるいはその経典に執着して『法華経』に入らない人もおり、あるいはその経典に留まっているばかりか、深く執着するために、『法華経』はその経典よりも劣っているという人もいる。
そうであるから、今、『法華経』の行者は心得なければならない。たとえば、「すべての河川の水の中で、海が第一のように、『法華経』を持つ者もまたこれと同じだ」とある通りに考えるべきである。今の日本にいる智慧者たちが星のようならば、日蓮は満月のようである。

 

つづく

 

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