大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

報恩抄 その2

問う人が言います。華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏、そして弘法・慈覚・智証などを、仏の敵とおっしゃるのですか。

答えます。これは大いなる難問です。仏法に入って以来、第一の大事です。愚かな眼をもって経文を見ると、『法華経』より勝れた経典があると言う人は、たとい、いかなる人であっても、謗法(ひょうぼう・教えをそしること)の罪は免れないことがわかります。このことを経文の通りに言うならば、どうしてこの人たちが、仏の敵でないことがありましょうか。もしまたそれを指摘しなければ、すべての経典の勝劣が空しくなってしまいます。またこの人々を恐れて、その末の人々を仏敵と言えば、それぞれの宗派の末の人たちは、「『法華経』よりも『大日経』が勝っているということは、私たちが言ったのではありません。お祖師様の教義です。戒行を保つことも破ることも、智慧の勝劣も、その身分の上下はあっても、みな、学ぶ教えは同じです」と言われてしまえば、その人々には咎はないことになります。また、日蓮がこれを知りながら、人々を恐れて言わなければ、「むしろ身命を失うとしても、教えを隠してはならない」という仏陀の明らかな戒めを用いない者となってしまいます。どうしたらよいでしょうか。言おうとすれば、世間が恐ろしく思えて、黙っていようとすれば、仏の明らかな戒めから逃れることは困難です。進退窮まれり、とはこのことです。しかしこれは当然なのです。『法華経』の経文に、「しかもこの経は、如来の現在ですらなお敵が多い。ましてや、仏が滅度(めつど・仏がその世界から姿を消すこと)の後はなおさらである」とあります。また、「すべての世に敵が多く、信じることが難しい」とあります。

摩耶夫人が釈迦を懐妊した時、第六天(欲界の六欲天の最高位)の魔王は、摩耶夫人のお腹を透視して、我らの大怨敵が『法華経』という鋭い剣をはらんだ。このことが成就する前に、どうにかしてこれを消さねばならない、と言って、この第六天の魔王は、名のある医者となって父の浄飯王の宮に入り、安産のための良薬をお持ちしました医者ですと言って、強い毒を后に差し上げました。また、出生の時には石を降らし、乳に毒を混ぜ、出家して城をお出になる時は、黒い毒蛇となって道に立ちふさがり、そして、提婆達多やその弟子の瞿伽梨・波瑠璃王(はるりおう・釈迦の出身のシャーキャ族に対して虐殺を行なった)・阿闍世王(あじゃせおう・父を殺して母親を幽閉した。釈迦に対しても、狂った象を差し向けるなどした)などの悪人の身に入って、時には大石を釈迦に投げつけて仏の御身より血を流させ、ある時には、僧侶を殺し、ある時には、釈迦の弟子を殺しました。これら大難は、みなその原因は『法華経』を仏世尊に説かせまいとすることであり、如来の現在における多くの大難です。そしてこれらは、昔の難です。それ以降には、舎利弗・目連・諸大菩薩たちにおいては、『法華経』が説かれる前の約四十年間は、『法華経』の大怨敵の内にいたことになります。さらに、仏の滅度の後ということは、未来の世にはまたこの大難よりも大きな恐ろしい大難があるであろう、ということです。仏でさえも忍び難い大難を、凡夫はどうやって忍ぶべきでしょうか。それは、仏が世におられた時よりも、ひどい大難でしょう。それはどのような大難でしょうか。提婆達多が投げつけた長さ三丈、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の狂った象よりひどいことだとは思いませんが、あくまでもそれに過ぎるものだというならば、その者が悪くなくても、大難がたびたび降りかかってくる人をこそ、仏の滅度後の『法華経』の行者ということになりましょう。釈迦から教えの継承をゆだねられた人々は、人々が寄り頼むべき菩薩であり、仏の御使いです。その中で、提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、仏陀蜜多・竜樹菩薩などは、七年から十二年間、赤い旗を掲げて、外道や邪教に敵対しました。馬鳴菩薩は金銭三億で敵国に売り渡され、如意論師は外道に負けたと断言されて、悩んだ末に死んでしまいました。これらは正法一千年のことです。像法に入って五百年間、仏滅後一千五百年という時、中国に一人の智人が出ました。最初は智顗、後には智者大師と呼ばれました。『法華経』の義をありのままに広めようと思われて、天台大師以前の百千万の智者の教えを細かく調べられました。それによれば、釈迦一代の経典に対するランク付け(教判)においては、中国の南に三流、北に七流の十流がありましたが、その中で、一つの説が最も有力視されていました。それが、南の三流の中の第三である光宅寺の法雲法師が立てたものです。この光宅寺の法雲は、釈迦一代の経典を五つに分けました。そしてその五つの中に三経を選び出しました。それは『華厳経』・『涅槃経』・『法華経』です。法雲は、「すべての経典の中において、『華厳経』は第一であり、大王のようである。『涅槃経』は第二であり、摂政関白のようである。第三は『法華経』であり、公卿たちのようである。それより以下は、万民のようである」と言っています。この人はもともと智慧の賢い上に、慧観・慧厳・僧柔・慧次という大智者から学んだばかりではなく、南北の諸師の義を責め破り、静かな山林の中に住んで、『法華経』・『涅槃経』・『華厳経』を研究し、その結果、梁の武帝が召し出して、内裏の内に寺を建て、光宅寺と名付けて、法師を崇められました。『法華経』を講じれば、まるで釈迦在世の時のように天から花が降ったといいます。天監五年に大旱魃がありましたが、この法雲法師を招いて『法華経』を講じさせられました。そして「薬草喩品」の「その雨は遍く等しく、四方共に降る」という二句を講じられた時、天より甘雨が降り始めたので、その天子は感動のあまり、法師を僧正に任命され、諸天が帝釈に仕え、万民が国王を畏れるように、自ら仕えられました。そして、ある人が、「この人は過去の灯明仏の時より『法華経』を講じた人である」という夢を見たそうです。この法雲法師には『法華経』の疏(そ:注釈書のこと)が四巻あります。その疏に「この経はまだ真理を明確に表していない」とあり、「異なるの方便」などとある。これは、『法華経』は未だに仏の真理を極めていない経典だという意味である。この人の解釈が仏の真意に適っているからこそ、天から花も降り雨も降ったということでしょう。このような不思議なことがあるので、中国の人々は、『法華経』は『華厳経』・『涅槃経』に劣るものであると思った上に、新羅百済・高麗・日本までこの疏は広まって、すべてほぼ同じ解釈を取られたのですが、法雲法師が亡くなってしばらくして、梁の末、陳の始めに、智顗法師という若い僧が世に出ました。南岳大師いう人の弟子でありましたが、その師の教えにも不審を感じられたのでしょうか、一切経蔵(すべての経典を収めた蔵)に入って繰り返し研究されましたが、『華厳経』・『涅槃経』・『法華経』の三経を選び出して、この三経の中では特に『華厳経』を講じられました。そして別に文章を作って、日々、『華厳経』を研究していましたので、世間の人は、この人も『華厳経』を第一とするのかと思っていましたが、法雲法師が、すべての経典の中で『華厳経』は第一であり、『涅槃経』は第二であり、『法華経』は第三と立てたことに対して、余りにも疑問を感じるために、特に『華厳経』を深く読んでおられたのです。こうして、すべての経典の中で、『法華経』は第一であり、『涅槃経』は第二であり、『華厳経』は第三であると見定められました。そして、「如来の聖教は中国に渡って来たが、人を利益(りやく)することはなかった。かえって、すべての人々を悪道に導くことをしてしまったが、それは師とされた人の誤りによるのだ。たとえば、国の長となった人が、東を西と言って、天を地と言い出せば、万民もそのように思うはずである。後に、身分の低い者が出て来て、あなたたちが思っている西は実は東であり、あなたたちが思っている天は地のことであると言えば、人々が受け入れないばかりではなく、私たちの指導者に従わない者だとして、その人を罵り迫害するのである。どうしたらよいのだろう」と思われました。しかし、黙っているべきでないと判断され、「光宅寺の法雲法師は教えを謗(そし)ったために、地獄に堕ちる」と批判されました(注:日蓮上人の書には、このような文献的証拠がない創作話が多く、現代人から見たら、行き過ぎと思われるが、これも当時よく行われていた論法と理解すべきであろう)。その時、南北の諸師は蜂のように騒ぎ出し、烏のように集まって来ました。智顗法師の頭を割るべきか、国から追放するか、などと言い出しました。陳の王はこれを聞き、南北の数人を招集し、自らもその座について、話を聞かれました。法雲法師の弟子たち、慧栄・法歳・慧曠・慧という僧正・僧都以上の身分の人々が百人ほどでした。それぞれ悪口を先とし、眉を上げ眼をいからし手を上げたたきました。しかし、智顗法師は身分が低いために末座に坐して、顔色を変ぜず言葉を誤らず威儀静かに、諸僧の言葉をひとつひとつを取り上げ、それらすべてを責め返しました。その反論として、法雲法師の解釈に、第一に『華厳経』・第二に『涅槃経』・第三に『法華経』と立てられているが、その証文はどの経典にあるか、確かな証文を出されよと語られれば、諸僧は顔をうつ伏せ、色を失って、一言の返事もありませんでした。さらに重ねて責めて語られ、『無量義経』にまさしく「次に方等十二部経と摩訶般若華厳海空を説く」とあり、仏は自ら『華厳経』の名をあげて、『無量義経』に対して未だ真実を顕わしていない経典だとおっしゃった。『法華経』より劣っている『無量義経』に『華厳経』は責められている。どのように解釈して、『華厳経』が釈迦一代の経典のうち第一だとおっしゃるのか。あなたがたもその説の肩を持とうとするならば、この経文を破るところのさらに勝れた経文を取り出だして、法雲師の解釈を助けたらどうか、と責められました。また、『涅槃経』を『法華経』に勝ると言っているのは、どの経文なのか。『涅槃経』第十四巻には、『華厳経』・『阿含経』・「方等経(おもな大乗経典を指す)」・『般若経』をあげて、『涅槃経』に対して勝劣が説かれているが、全く『法華経』と『涅槃経』との勝劣は見えない。それより前の『涅槃経』第九巻に、『法華経』と『涅槃経』との勝劣は明らかにされている。その経文に、「この経が世に出たのは、『法華経』の中の八千人の声聞が授記を受けて、大いなる果実を結んだようなものである。秋に収穫して冬に蔵に収め、さらにそれ以上なすべきことがないようなものである」とある。経文には、明らかに他の経典を春と夏に相当させ、『涅槃経』と『法華経』とを実を結ぶ時期に相当させているが、さらに『法華経』を秋に収穫し冬に蔵に収める大収穫に当て、『涅槃経』を秋の末冬の始め、落穂拾いの程度と定められた。この経文は、まさしく『法華経』に対しては、『涅槃経』は劣ると承服していることである。『法華経』の文には、「すでに説き、今説き、これからも説くであろう」とあり、この『法華経』は以前あるいは同時に語られている諸経典に勝れているばかりではなく、これからも説かれる諸経典よりも勝れていると、仏は定められているのである。すでに教主釈尊がこのように定められたことは疑うべきではないが、自らの滅後はどうであろうかと考えられ、東方の宝浄世界の多宝仏を証人に立てられたところ、多宝仏は大地より出現されて、「妙法蓮華経はみな真実である」と証され、あらゆる方角におられる釈迦の分身の諸仏も重ねて集められ、広長舌を大梵天にまで付け、また教主釈尊も付けられた。そしてその後、多宝仏は宝浄世界に帰られ、あらゆる方角の諸仏もそれぞれの本土に帰られた後、多宝仏や分身の諸仏もおられないところで、もし教主釈尊が『涅槃経』を説いて『法華経』より勝るとおっしゃっても、釈尊の弟子たちは信じるであろうか、と語られれば、まるで、太陽や月の大光明が阿修羅の眼を照らすように、漢王の剣が諸侯の首に当てられたかのように、みな両眼を閉じ、頭を垂れてしまいました。

天台大師のお姿は、まるで師子王が狐兎の前で吠えているようであり、鷹鷲が鳩雉を責めているようでした。このようなことがあり、『法華経』は『華厳経』・『涅槃経』よりも勝れていると中国一国に流布しただけではなく、逆に、インド西域まで知られるようになり、月氏国の大小の諸論も智者大師の解釈には勝てず、教主釈尊が再度出現されたのであろうか、仏教が再び現われたのであろうかと称賛されたのです。そして、天台大師も入滅なさいました。

 

(つづく)