大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

一切如來心祕密全身舍利寶篋印陀羅尼経 その2

その時、仏は金剛手菩薩に次のように語られた。
「この塔は、数えきれないほどのすべての如来の舎利(しゃり・仏の遺骨)が、まるで胡麻のように集まってできている。まさに、真理である心陀羅尼(しんだらに)の教えの要(かなめ)が、今この中にある。
金剛手菩薩よ。その教えの要がこの中にあるので、この塔は、すなわち無量百千の如来の身体が胡麻のように集まったものなのだ。また、無量百千の如来の全身の舎利が胡麻のように集まったものなのだ。さらに、八万四千もある仏の教えのすべてがこの中にあるのだ。すなわちこれこそ、九十九を百千倍してさらに十の七乗倍した数の如来の頂相(ちょうそう・仏の智慧の象徴として如来の頭を指している)が、この中にあるのだ。この塔は、すべての如来によって証されている。この塔のある場所には、大いなる功徳が具わっており、大いなる威徳が満ちており、すべての吉慶(きっきょう・=祝福)があるのだ。
その時、大衆はこの仏の言葉を聞き、数多くの穢れから離れ、煩悩を断って清らかな法眼(ほうげん・悟りによって見る力)を得た。こうして、大衆の中には、須陀洹果(しゅうだおんか・釈迦の弟子として、悟りへ向かう修行に入った段階)を得る者や、斯陀含果(しだごんか・もう一度人間の世界に生まれて悟りを得る段階)を得る者や、阿那含果(あなごんか・再び人間の世界に生まれる必要が亡くなった段階)を得る者や、阿羅漢果(あらかんか・釈迦の弟子としての悟りの完成。以上四つは、釈迦の弟子としての修行の段階、いわゆる小乗仏教における四つの段階であり、四向四果と名付けられる)を得る者や、あるいは、辟支佛(びゃくしぶつ・釈迦の弟子とはならず、一人で修行して悟りを開く者)となった者や、菩薩(ぼさつ・大乗仏教において悟りを求める者の意味)の位に入った者や、阿鞞跋致(あびばっち・大乗仏教の悟りへ向かって退くことがなくなった段階)を得る者や、あるいは菩提授記(ぼだいじゅき・最高の悟りを開いて仏になると言う約束)を得た者や、あるいは初地(しょじ・菩薩の悟りへの最初の段階)や二地から十地(つまり初地から始まって十の段階まで、という意味)を得る者や、六波羅蜜(ろくはらみつ・菩薩の修行で必要な六つの項目)を満たす者がいた。そして妙光婆羅門は穢れを離れ、五つの神通力を得たのであった。

(注:ここまで、さまざまな悟りの段階についての言葉が並べられていたが、つまり、大乗仏教小乗仏教の区別なく、それぞれの者がそれぞれの立場において、またそれぞれの能力に応じて、悟りへの道を進めることができた、ということである)。

その時、金剛手菩薩はこの奇特希有(きとくけう)なことを見て、仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。これは非常に奇特希有なことです。ただこの塔について聞いただけでも、これほどの優れた功徳があるのですから、ましてやこの教えの要を行なうならば、あらゆる善根(ぜんこん・良い結果を生じさせる要因)と大いなる福を得るでしょう」。
仏は次のように語られた。
「金剛手菩薩よ。よく聞きなさい。もし良き男子や良き女人あるいは僧侶や尼僧や男女の信者たちがいて、この経典を書写したとする。このような者たちはすなわち、九十九を百千倍してさらに十の七乗倍した胡麻のような数多くの如来の教えを書写したことになるのだ。またすなわち、九十九を百千倍してさらに十の七乗倍した胡麻のような数多くの如来の御前で、善根を植えたことになるのだ。またすなわち、それらの如来に守られ、受け入れられるのである。またもし、この経典を読誦するならば、すなわち過去のすべての仏が説いた経典を読誦したことになるのだ。またもし、この経典を保つならば、すなわち、九十九を百千倍してさらに十の七乗倍した胡麻のような数多くの如来が、その者をどこにいても守り、昼夜を問わず姿を現わすのである。またもし、この経典を花や香や塗香や花飾りや衣服や厳かな法具をもって供養するならば、すなわちその者は、あらゆる方角の九十九を百千倍してさらに十の七乗倍した数の如来の御前で、天の妙なる花や妙なる香や衣服や厳かな法具や七つの宝を須弥山(しゅみせん・仏教の世界観で最も高い山)のように積んで供養したことになるのだ。この経典によって植えられる善根は、このようなものなのだ。
その時、天龍八部衆たちは、この奇瑞を見て、その教えを聞き、互いに次のように言った。「この朽ちた土に埋もれた塔のこの威徳の奇瑞は、如来の神力による神変であることがわかりました」。
その時、金剛手菩薩は、仏に次のように申し上げた。
「世尊よ。何の因縁によって、本来、七つの宝でできているはずのこの塔は、このように土に埋もれているのですか」。
仏は金剛手菩薩に次のように語られた。
「これは土の塊ではなく、あくまでも七つの宝でできている大宝塔なのだ。
そして金剛手菩薩よ。あらゆる衆生の業の結果、それが隠されているだけなのだ。如来の全身が壊れてしまったのではない。如来の金剛の蔵のような身がどうして壊れるだろうか。ただ、衆生の業の結果によって、真実の塔の示現が隠されているだけなのである。
またそして金剛手菩薩よ。後の世で末法(まっぽう・仏教の歴史認識における最後の悪い世の中)が迫ってきた時、多くの衆生は間違った教えを習い行ない、まさに地獄に堕ちるであろう。仏を信ぜず、仏の教えを求めず、僧侶を軽んじ、善根を植えようとしない。このために、まさに正しい教えが隠されてしまうであろう。しかしこの塔だけは、すべての如来の神力によって、このままここにあるであろう。このような理由から、今私は涙を流し、またあらゆる如来もまたこのことのためにみな、涙を流すのである」。

(注:紀元直後から起こった大乗仏教運動は、仏教における生き生きとした宗教活動を復興しようとする運動と言える。この大乗仏教は、歴史的釈迦の遺骨を安置した仏塔を守っていた人たちが起こしたという説が有力である。つまり、今は亡き釈迦の霊的力を、仏塔が引き続き保っているという信仰が、彼らの力となっていたのである。この経典に記されている、土に埋もれ蔓や棘に覆われた仏塔も、釈迦の生き生きとした霊的力が仏教教団から失われ、教えや教団があったとしても形骸化してしまっているということを、象徴的に表わしていると見ることができる。大乗仏教の人々は、このような形骸化してしまっている仏教教団を、小乗仏教と呼んで批判しているのである)。

 

つづく

 

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