大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  03

『法華玄義』現代語訳  03

 

3.私序王

(注:天台大師の「序」の箇所に続いて、章安灌頂の二番目の「序」が続く。最初の灌頂の「序」は、この『法華玄義』を記述した経緯が記されていたが、ここに記される灌頂の「序」は、灌頂自身の悟りの体験から、『法華玄義』で説かれている真理を彼自身の言葉で表わした箇所である。原文は格調高い名文であり、章安灌頂は文学においても高い才能を持っていたことがわかる。もちろん現代語訳にするとその格調の高さは失われるが、ここでは何よりもわかりやすさを優先する)。

 

そもそも真理は、偏っているとか円満だとか、そのような相対的な区別は超越しているけれども、『法華経』の「五百弟子授記品」では、欠けたところのない完全な宝珠に喩えて理法を表わし、絶対的究極的次元は、遠くにあるとか近くにあるとか、そのような相対的な区別は超越しているけれども、その次元を求める過程を、『法華経』の「化城喩品」では、宝のある場所を目指して進む旅路に喩えて論じる。絶対的次元に到達すると、事象と理法は共にその相対的な形や言葉が消える。しかし、まだその次元を体験したことのない者は、まさに宝珠の喩えにあるように、迷いという酒に酔って、実際は衣の裏に無限の価値のある宝珠が縫い付けられているにもかかわらず、そのことを知らないために、最高の悟りに向かう道をしっかりと認識できず、実際はその道から遠いわけではないのに、その道のりは余りにも長いと嘆いている。聖なる教主である世尊(せそん・釈迦のことを世で尊い方という意味でこのように呼ぶ)は、このような真理に迷う者たちを哀れみ、「序品」に記されている通り、天から四種類の花を降らせ、地を六通りに振動させ、方便の教えを開き、「見宝塔品」に記されている通り、三度もこの汚れた世を聖なる浄土に変化させ、「従地涌出品」に記されている通り、地の中から数知れない多くの地涌(じゆ)の菩薩たちを出させられた。このようにして、すべての人々が同じように真理を見て聴くようにされたのである。

秘められた究極的真理を示すということを「妙」と名付ける。権(ごん)と実(じつ)についての正しい教えを「法」と名付ける。久遠の昔の本果(ほんか・いわゆる絶対的永遠の到達点であると同時に、すべてがそこから発する大本である)を指し示し、これを蓮の実に喩える。さまざまに異なりを見せるあらゆる教えを、たった一つの円満な道に帰すことを、蓮の花に喩える。音声や文字をもって仏の教えを説くことを「経」という。完全な教えの最初の部分を「序」と名付ける。その「序」からはじまって、同類の内容をまとめることを「品(ほん/ぼん/ぽん・いわゆる章にあたる)という。その順序から見て、その最初を「第一」というのである。

これを「五重玄義(ごじゅうげんぎ・注:前回も各名称は記されていたが、天台大師の経典解釈の五つのパターンのこと)」に当てはめて解釈するならば、真理について語ったり記したりすることが「名(みょう・目に見える言葉という名称という意味)」であり、あらゆる教えを究極的真理に帰一されることが「体(たい・目に見える教えそのもの)」であり、完全な宝のような真理を直接示すことが「宗(しゅう・経典の目的)」であり、事象と理法を共に絶対的な次元へ導くことが、「用(ゆう・経典の働き)」であり、天から四種類の花が降り、地が六通りに振動したということは、『法華経』が釈迦一代で説かれた経典の中で最高の経典であることを証するものであるから、「教判(きょうはん・判教ともいう。すべての経典の中におけるその経典の位置を示すこと)である。なお本門と迹門については、自然とよく理解できるようになるであろう。