大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  02

『法華玄義』現代語訳  02

 

2.序王

(注:ここからは、天台大師の序の箇所となる)

 

この『妙法蓮華経』(=『法華経』)の「妙」とは、不可思議すなわち、人間の思考では理解することができない、という意味によって名付けられる。「法」とは、十界(じゅっかい・十種類の世界)と、十如是(じゅにょぜ・存在の在り方を十種類に分類した教え)と、権(ごん・人々を真理に導くため、真理が仮に別のものとして表わされたという意味)と実(じつ・真理そのものという意味)のことである。

「蓮華」とは、この権と実の法を喩えたものである。まこと妙法は理解することが難しいので、喩えをもってわかりやすく表現するのである。喩えの意義(注:本文の中、「義」という言葉は非常に多く用いられるが、翻訳する場合、「意義」とした方が自然な場合と、「意味」とした方が良いと思われる場合などがあり、適宜にこの二つの訳語を用いることにする)は多いが、大きく『法華経』の前半である迹門(しゃくもん・迹とは足跡という意味の言葉であり、真理そのものを直接表現するのではなく、わかりやすく別の表現が用いられているという意味で使用される。したがって迹門とは、真理をわかりやすく別の表現をもって説かれた教えという意味である)と後半である本門(ほんもん・本とは真理そのものという意味で使用される単語であり、本門とは真理をそのまま表現した教えという意味である)に分け、迹門に三つ、本門に三つ、合わせて六種類の喩えがあることを次に述べることにする。

(注:天台大師はこの迹門を重要なものとして、本文の中でも非常に詳しく解き明かしている。『法華玄義』全体から見て、迹門を解釈した箇所は、本門のそれと比較にならないほどの分量である)。

〇迹門の三つの蓮華の喩え

(注:以降も、原文は段落分けがされていないが、見出しを付けた方が良いと思われる場合は、適宜に段落を分けて見出しをつけていくことにする)

第一に、蓮華という植物を観察すると、まず蓮の実(み・原文では「蓮」とだけあるが、意味的には実を指す言葉である)のために花(注:原文では「華」とあるが、わかりやすく「花」とする。他の箇所では「花びら」とした方がわかりやすい場合もある)があるという見方ができるが、これは実(じつ)である真理(注:原文には「実(じつ)」とだけあるが、この言葉も、「真理」「実相」「真実」あるいは「権」に対す「実」など、多様に翻訳できる言葉であるので、やはり適宜にその都度、言葉を選んで訳したり言葉を付け加えたりなどして訳す)を表わすために、権(ごん)である方便(ほうべん・人々を真理に導くための巧みな手段という意味。『法華経』の解釈において重要な用語の一つ)ということを喩えているのである。『法華経』に、「私は第一の寂滅(じゃくめつ・煩悩が断じ尽くされた平安な状態を意味する)を知ったが、それをわかりやすく表現するため、方便の力を用いてさまざまな教えを説く。しかし、それは真理にたくさんの種類があるわけではなく、ただ唯一の仏の教えのためなのである」とある通りである。

第二に、蓮の花びらが開くと、中にある蓮の実が現われるが、それは、方便である権を解き明かして真理を表わすことの喩えとなる。『法華経』に、「方便の門を開いて真実そのものの姿(注:原文は「真実相」である。現代語ではこの「相」という言葉は、目に見える姿という意味が強いと思われるが、仏典ではそのような意味に限られてはいない。したがって、これも現代語に翻訳することが難しい言葉の一つである。そのためこれもその都度、適宜な言葉を選んで訳す。ここでは「姿」としたが、目に見える姿があるわけではない)を示す」とある通りである。

(注:この「開く」ということも、『法華経』の解釈において非常に重要な概念となる。「権」として表現されたものは、表面的に見れば真理そのものの姿とは異なったものに見えるが、それは真理つまり「実」を表わすためのものなのだ、ということを解き明かすことを「開(かい)」といい、「開く」と訳される。この「開く」ということは、本文中で非常に多く用いられる。そして、この概念は、このように蓮の花と実の関係の喩えからきている)。

第三に、蓮の花びらが落ちると実が熟すが、それは、最後には方便を捨てて真理を明らかにすることの喩えとなる。『法華経』に、「まさに今こそ、方便を捨てて、ただこの上ない道を説くだけである」とある通りである。

〇本門の三つの蓮華の喩え

また第一に、蓮の実を本門に喩え、花を迹門に喩えることができる。『法華経』に、「私が仏となってから、このように久遠(くおん・測り知れないほど遠い昔という意味)である。ただ人々を教化するために『私は若い時に出家して、最高の悟り(=阿耨多羅三藐三菩提・あのくたらさんみゃくさんぼだい。略して三菩提という)を得た』と説く」とある通りである。

第二に、花が開くということは、迹門の教えを解き明かす(=上に述べたように、これが開くと表現される)ということの喩えであり、花が開けば実が現われるということは、迹門の教えが開かれれば、本門の教えが表わされることの喩えである。『法華経』に、「すべての世の人々は、私がこの世で初めて悟りを開いたと見ているが、実は、私が仏になってから、無量無辺那由多劫(むりょうむへんなゆたこう・測り知れないほどの非常に長い歳月をこのように表現している。各単語に分けて意味を見ることもできるが、むしろ一つの熟語として理解すべきものである)がたっているのである」とある通りである。

第三に、花が散るということは、迹門の「権」を取り除けることを喩え、蓮の実だけが残るということは、本門の真理のみを明らかにすることを喩えている。『法華経』に、「諸仏如来の教えは、みな同じくこの通りである。衆生(しゅじょう・人々のこと)を悟りに導くためであり、すべてが真実であり虚偽ではない」とある通りである。

〇蓮華の喩えの極意

以上のように、まず『妙法蓮華経』の「妙」と「法」について説き、それに続いて、「蓮華」の喩えについて述べる。『法華経』の「化城喩品」に説かれところの、旅の途中で人々を休めるために仮に設けられた町(注:経典では「城」とある。中国の城は城壁に囲まれた町であったため)にいつまでも留まっていたいと思うような中途半端な達成感による執着を取り除き、「信解品」に説かれるところの、粗末な住居に満足しているような貧しい思いを捨てさせ、方便の仮の教えを解き明かして、真実の妙なる真理を示し、多くの小さな修行を開いて、広大な一乗(いちじょう・すべての人が仏になれるというただ一つの真理の教え)に導き、上根、中根、下根(じょうこん、ちゅうこん、げこん・能力の高い者、中ほどの者、低い者という意味)の人々にみな平等に授記(じゅき・将来仏になるという約束)を与える。また『法華経』は、あらゆる人々は、真実の姿は仏なのだ、と解き明かし、本地(ほんじ・真理そのものの次元という意味)の幽玄であり微妙な真実を顕わす(原文も「顕」とあるが、これはもちろん表わすという意味である。しかし、特に見た目にはそうでないが、真実の姿はこのようである、と表現する意味で「顕」という単語が本文中で非常に多く用いられているので、その場合は「顕わす」という言葉に翻訳する)。これにより、悟りを増して転生(てんしょう・業があるために数多くのさまざまな世界に生まれ変わること)を減らし、ついにその悟りの段階は、大いなる悟りを開いた仏となる。この世における釈迦一代の教えと導きは、事象的なことも理法的なことも、共に円満である。蓮華の喩えの意味はここにあるのである。

(注:これは根本的に認識しておかねばならないことであるが、天台大師当時は、『法華経』をはじめ、すべての大乗経典は、歴史的釈迦が説いたものだと考えられていた。しかし、明治以降の仏教学による研究により、大乗経典は歴史的釈迦の説いたものではなく、紀元前後に大乗仏教の仏教宗教改革運動の中で創作されていったものである、ということが明らかとなっている。しかし、明治以前の中国や日本の仏教者たちが、その点では誤った認識を持っていた、という事実は、決して彼らの経典解釈に誤りを生じさせるものではない。なぜなら祖師たちは、自分の悟りを基に経典を解釈しているのであり、その悟りは真理に目覚めることであるので、その悟りに基づく解釈は誤りでないどころか、経典の言葉を用いて、さらに深い真理を余すところなく明らかにしているのである)。

そして「経」とは、原語である古代インド語では「修多羅(しゅたら・古代インド語の「スートラ」の音写)」という。聖なる経典のことである。この経典の翻訳にあたって、そもそも翻訳が可能だという場合と、不可能だという場合などについては後に述べる。

(注:ここまでが天台大師の「序」であり、この「序」に対して、この後、数行を使って章安灌頂が短く注釈を記す)。

記者である私が解釈すると次の通りである。天台大師はこの「序王」を通して、『法華経』で示されている幽玄な意義を述べている。その幽玄な意義は、『法華経』の経文の心である。その経文の心は、迹門と本門を越えることはない。この主旨を尊び深く理解するならば、他のあらゆる意義も明らかとなる。「妙法蓮華」はすなわち①名(みょう)を述べている。真実の妙なる理法を示すことは、②体(たい)を述べることである。広大な一乗に導くことは、③宗(しゅう)を述べることである。仮に設けられた町に対する執着に喩えられる中途半端な達成感を排除することは、④用(ゆう)を述べることである。釈迦一代の教えが円満であることは、⑤教(きょう)を述べることである。六通りの喩えは、迹門と本門の真理を述べることである。このように、文章は簡略であるけれども、そこに示される意味は実に深く広いのである。

(注:以上記されている①名、②体、③宗、④用、⑤教の五つは、これから述べられる天台大師の経典解釈の五つのパターンである。これを「五重玄義(ごじゅうげんぎ)」という)。

(注:ここまでの現代語訳において、一つ一つの単語についての解釈や意味をできるだけ付け加えているが、これ以降、同じ単語などが繰り返し用いられる場合、その都度同じ解釈や意味を付け加えて記すことは煩瑣となるので避ける。そのため、文が進めば進むほど、説明や注釈が加えられていない専門用語が次第に増えることになる。それは初出で説明されていることとしているためである。したがって、最初から見ることなしに途中から見る場合など、非常に理解しにくくなるはずである。しかし重要な単語や文章だと思われるものや箇所については、説明や注釈を繰り返すこともある。また、その文中で重要と思われる専門用語は「(かっこ)」で囲うこともあるが、あくまでも便宜上のことであり、統一された基準があるわけではない。また、専門用語ではない場合も、囲った方がわかりやすいと判断される場合も、そのようにする。なお、経論名は『(二重かっこ)』で囲うことにする)。