大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  26

『法華玄義』現代語訳  26

 

第二目 教え起こす起教について

大智度論』には、「仏は常に黙っていることを願うのであって、説法は願っていない」とあり、『維摩経』には、真理は言葉にできないので黙っていたということが記されており、『法華経』には、「言葉をもって述べるべきではない」とあり、『涅槃経』には、「生生(しょうしょう・「生生」「生不生」「不生生」「不生不生」の四句の最初。この四句については、後の境妙の四諦を説く所で詳しく述べられる。「56」参照)から不生不生まで、すべて言葉で表現できない」とある。しかし、この文に続いて、「また説くことはできる。十因縁(じゅういんねん)は、現在の生の因となる」とある。この十因縁とは、十二因縁における無明(むみょう)から有(う)に至るまでの過去から現在の十種の因縁のことであり、この十の因縁によって人が生じているのである。

(注:「十二因縁」とは、①無明(むみょう・過去世から続いている真理から離れた業の働き)、②行(ぎょう・一方方向に動き出す最初の動き)、③識(しき・動き出した動きが分化する段階)、④名色(みょうしき・分化した動きが形となる段階。形を「色」とし、名称が付けられる形という意味)、⑤六処(ろくしょ・六入(ろくにゅう)ともいう。眼耳鼻舌身意の六つの感受機能が生じること)、⑥触(そく・六つの感受機が他のものと接触して感覚が生じること)、⑦受(じゅ・感覚を感受すること)、⑧愛(あい・感受した物事を求める働き)、⑨取(しゅ・執着を生じること)、⑩有(う・自分を含めたすべての実在が生じること)、⑪生(しょう・未来の生を指す)、⑫老死(ろうし・未来の生も当然老いて死ぬということ)の十二項目である。現在の生の因を十二因縁の中で見るならば、⑪生と⑫老死を除いた十種となる)。

そして人は、これから述べる四種類の能力それぞれをもって、四種類の仏の教えを受けるのである。

十二因縁の十因縁によって生きている人々は、下品(げぼん・「品」とはもともと位階の意味がある言葉。中品(ちゅうぼん)、上品(じょうぼん)、上上品(じょうじょうぼん)の四つがある。したがって、下品はもっとも劣った能力という意味である)の悟りを得たいという願いを持つならば、三界の中における事象的な行を修す。未熟ながらも迷いを破り、すべての実在に対する分析的な空観(=析空観・しゃっくうがん)によって空(くう)の境地に入る。このような因縁を備える者には、如来は生滅の四諦を説いて三蔵教(さんぞうきょう)を起こす。

この十因縁によって生きるようになった人の中で、中品の悟りを得たいという願いを持つならば、三界の中における理法的な行を修し、巧みに迷いを断じ、直観的に空を体得し(=体空観・たいくうがん)空の境地に入る。このような因縁を備える者には、如来は無生の四諦を説いて通教(つうぎょう)を起こす。

この十因縁によって生きるようになった人の中で、上品の悟りを得たいという願いを持つならば、三界の外の事象的な行を修し、段階的に迷いを断じ(=歴別・りゃくべつ)、次第に空から仮を経て中(ちゅう・空にも、また空という在り方によってあるという見方にも偏らない智慧)の境地に入る。このような因縁を備える者には、如来は無量の四諦を説いて別教(べっきょう)を起こす。

この十因縁によって生きるようになった人の中で、上上品の悟りを得たいという願いを持つならば、三界の外の理法的な行を修し、ひとたび迷いを断じれば、すべての迷いを断じたことになり、空や仮を経ずして、瞬時に完全な(=円頓・えんどん)の中(ちゅう)の境地に入る。このような因縁を備える者には、如来は無作の四諦を説いて円教(えんぎょう)を起こす。