大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  04

『法華玄義』現代語訳  04

 

4.譚玄本序(たんげんほんじょ)

(注:これ以降、天台大師の二番目の「序」となる。最初の天台大師の「序」は、『妙法蓮華経』という題目についての論述であったが、今回の序は、この『法華経』で説かれる内容そのものについての序文となる)。

 

この『妙法蓮華経』は、絶対的次元についての非常に深い奥義が秘められた経典である。その経典の中に「この教えは目に見える形で示すことはできない」「この世は常に移り変わっているように見えるが、実は、この世の真実の姿は常に変わらない」「(この経典の教えは)過去現在未来の三世(さんぜ)の如来が悟った内容である」とある通りである。さらに「これは最も根本的な寂滅(じゃくめつ・悟りの境地を表わす言葉)の真理であり、私は修行の道場においてこれを悟ったのである」「仏は、人々を悟りに導き、みな仏となるようにするという最も究極的な目的のために世にその姿を現わすのである。その究極的な仏である私の姿を見て、その仏の悟りの智慧を得る者もいれば、まだ悟ることができない者のためには、四十年間さまざまな教えを説くという巧みな方法である方便を用いて、第一義(だいいちぎ・究極的な真理という意味)をさまざまに顕わしてきた」「今まさにこの方便を捨てて、ただこの上ない道を説くのである」とある通りである。

妙とは、人の思考によっては理解できず、言葉で表現できない不可思議の法(ほう・法には非常に多くの意味が含まれる。その時々の前後の文の流れから、そこでの意味を読み取る必要があるので、以降適宜に、法という言葉をそのまま使用したり、最初から他の言葉に翻訳するなどして記す)を褒め称える言葉である。

また妙とは、十界(じっかい・十法界ともいう)と十如是(じゅにょぜ)として表わされるこの世の在り方そのものである(注:十界と十如是については前述した通りであるが、これからも繰り返し述べられる重要な用語なので、ここでは言葉のみが挙げられている)。この在り方そのものが妙であり、この妙そのものがこの世の在り方であり、二つあるわけではなく区別がない。このために妙というのである。

また妙とは、仏自らの行為における法妙(ほうみょう・ここでは仏の妙なる働きすべてを指す言葉と解釈される)の権と実であり、そのため蓮華の喩えをもって表現される。

また妙においては(注:究極的な次元をそのまま表現すれば、という意味)、迹門がそのまま本門であり、本門がそのまま迹門である。すなわち、本門でなければ迹門でもなく、したがって、迹門を開いて本門を顕わす必要もなく、迹門を廃して本門を立てる必要もない。

また妙とは、最も優れた修多羅(しゅたら・古代インド語で「経」を意味する「スートラ」の音写)の甘露の法門であるので妙というのである。

さらに「五重玄義」によって、つまり「名(みょう)」「体(たい)」「宗(しゅう)」「用(ゆう)」「教(きょう)」によってこの妙を解釈するならば次の通りである。まず妙というものに、別の目に見える教えそのものである体があるわけではない。目に見える教えを褒め称えることは、妙の目に見える名称である名を述べることである。妙はそのまま法界(ほうかい・これも非常に広い意味を持つ仏教用語であり、仏教的観点から見た世界全体という意味である)であり、法界はそのまま妙であるということは、体を述べることである。仏自らの行為の権と実とは、経典の目的である宗を述べることである。本門と迹門の合計六つの譬喩とは、経典の働きである用を述べるのである。甘露の門とは、『法華経』が諸経典の中で第一であるという教を述べることである。