大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『観心本尊抄』 2

観心本尊抄』解説および現代語訳 2

 

疑って問う:『法華玄義』第二巻には「また一法界に九法界を備えれば百法界に千如是となる」とあり、また『法華文句』第一巻には「一入に十法界を備えれば、一法界は十界となる。その十界の各々に十如是があるので、一千となる」とある。また『観音玄義(かんのんげんぎ・天台大師の『法華経』「観世音菩薩普門品」の講述を記録したもの)』に「十法界が互いに交われば百法界となる。千種の本性と形は心に含まれ、目の前に表われないとしても変わらず備わっている」とある。(補足:これは「一念三千」を説いていることではないのか)。

(注:この問いに対する答えは記されていない。その理由は不明である。もちろんここにあげられた書には、「一念三千」という言葉はないが、意義的には「一念三千」と全く同じことが述べられているのである)。

問う:『摩訶止観』の前四巻に「一念三千」の名目が説かれているのか。

答える:妙楽大師は「説かれていない」と言っている。

問う:それについての解釈はどうか。

答える:『止観輔行伝弘決』の第五巻に「『摩訶止観』の第七「正修止観章」までは、全く修行について述べてない。また第六「方便章」の「二十五方便」は具体的な事柄をもって解説している。したがってこれは「正修(しょうしゅう・最も中心的な修行のこと)の方便である。このために、『摩訶止観』第四巻の第六までは前段階の解説に属する」とある。

また「このために、第七「正修止観章」至って、この「三千」の教えをもって指南としているのである。すなわちこれが最も究極的な教えである。したがって、『摩訶止観』の序の中で、講述筆記者である章安灌頂は、「ここに記されている内容が天台大師自身の心の中で行じた教えである」と記している。このようなことであるから、読む者は心に異なった教えを持ち込まないように願うのである。

天台大師が教えを広めたのは三十年間であったが、二十九年の間は『法華玄義』『法華文句』などの諸義を説いて、「五時八教(ごじはっきょう・すべての経典の教えを説かれた時や程度の違いによって分類したもの)」「百界」「千如」などを説き、それまでの中国での経典解釈の誤ったところを責め、またインドの論師がまだ述べていない教えを明らかにした。弟子の章安大師は「インドの大いなる論師も及ばず、ましてや中国の人についてはどうして語る必要があるだろうか。これは高慢から言うのではなく、その教えそのものが明らかにしていることである」と言っている。しかし情けないことに、その天台宗の学者たちは、華厳宗真言宗の盗人のような元祖に「一念三千」の重宝を盗み取られて、かえって彼らがその教えを扱う者となっている。章安大師はこのことを予見していて「この言葉が地に落ちてしまえば、将来に希望はない」と言っている。

問う:「百界千如」(十法界×十法界×十如是)と「一念三千」との違いは何か。

答える:「百界千如」は生きとし生けるものの世界に限り、「一念三千」は生きているものをはじめ森羅万象に及ぶ。

(注:「百界千如」は、すべての実在について、いわゆる客観的に表現した言葉である。一方、「一念三千」は、「百界千如」に、人間の存在を意味する「三世間」を掛けて、それが「一念」という一瞬の心にすべて備わっているとするものである。人間は認識的存在であり、人間の認識がすべてである。つまり、人間の認識が神羅万象そのものである。したがって、「一念三千」は森羅万象に及ぶのである)。

不審に思って問う:「十如是」が森羅万象に渡るなら、草木にも心があって人間のように成仏するのか。

(注:「十如是」とあるが、確かに「十如是」はすべての存在のあり方を分析したものなので、意味は同じであるが、「一念三千」としたほうが、もちろん読者にとっても読みやすい。しかし日蓮上人はこの後の箇所で、「十如是」の因果について述べているので、そこにつなげるために、ここであえて「十如是」という用語を用いていると考えられる)。

答える:このことは信じがたく理解しがたいことである。天台の教えにこの難信難解が二つある。ひとつは教門の難信難解、二つには観門(修行である観心のこと)の難信難解である。まず、教門の難信難解であるが、仏の一代の教えにおいて、『法華経』以前の諸経典には、声聞(しょうもん・歴史的釈迦の弟子のこと。釈迦の声を聞いているのでこの名称がある)と縁覚(えんがく・釈迦の弟子ではないが、一人で修行して釈迦と同じ悟りを開いた者。因縁の真理を悟っていることからこの名称がある)の二乗(にじょう)と一闡提(いっせんだい・古代インド語のイッチャンティカの音写文字。もともと仏になることができない者のこと)は未来永劫に成仏できないことになっている。『法華経』の前半の迹門(しゃくもん)では、他の経典と同じく、釈迦仏がこの世ではじめて悟りを開いた仏として登場しているが、それでも二乗も一闡提も仏になることができると説いており、永遠の釈迦を説く本門(ほんもん)はなおさらである。しかしこれでは、同じ釈迦が異なった教え、まるで水と火のように相容れない教えを説いたことになり、このようなことをいったい誰が信じるだろうか。これが教門の難信難解である。

(注:このようなことは今現在では問題ではない。現在伝わっているほとんどの経典、特に大乗仏教の経典は歴史的釈迦の説いた教えではなく、紀元直後から大乗仏教を興したあらゆるグループが、それぞれの主張を釈迦が説いたように経典に記したまでのことである。そのため、さまざまな教えがあるのは当然である。『法華経』ももちろん歴史的釈迦の説いた教えではない。しかし、『法華経』が説く教えは他の経典とは大きく異なっていることも確かである)。

次に観門の難信難解とは、観心についての「百界千如」「一念三千」の教えのことであり、森羅万象にも認識の対象である「色(しき)」があり、認識の主体である「心(しん)」の二つがあるとし、「十如是」があるとすることである。これが難信難解だとしても、一般的に木像や絵画などを本尊として崇めることは、仏教以外でも仏教でも行なわれており、このことは、天台の教えから出ていると言える。草木の上に「色」と「心」の因果を認めなければ、木画の像を本尊とすることは意味がない。

疑って問う:草木国土の上の「十如是」の因果の教えは、どの文に記されているのか。

答える:『摩訶止観』第五に「国土世間はまた十種の在り方(=十如是)を備えている。いわゆる悪国土には悪なる相・性・体・力があるのだ」とある。また『法華玄義釈籤』第六に「相はただ認識の対象であり、性はただ認識主体の心であり、体・力・作・縁の意義は認識対象と心を兼ね、因・果はただ心、報はただ認識対象である」とある。また同じく湛然の『金錍論(こんぺいろん)』に「一草・一木・一礫・一塵・それぞれに仏性があり、それぞれに因果あがり、縁因仏性(えんいんぶっしょう)と了因仏性(りょういんぶっしょう)を備えている」とある。

(注:正因仏性(しょういんぶっしょう)・縁因仏性・了因仏性の三つを三因仏性という。仏になる可能性である仏性を更に三つに分けたもの。正因仏性はいわゆる仏性そのもの。縁因仏性は正因仏性を発するための条件であり、了因仏性は仏性を発するための智慧のこと)。

(つづく)