大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  05

『法華玄義』現代語訳  05

 

序章 五重玄義

(注:これから『法華玄義』の本文となるが、まず序章である。ここでは、五重玄義について簡潔に説明がなされている)。

 

釈名第一(しゃくみょう・経典の名称を解釈する)

弁体第二(べんたい・経典の教義について述べる)

明宗第三(みょうしゅう・経典が記された目的を明かす)

論用第四(ろんゆう・経典の働きを論じる)

判教第五(はんきょう・対象となる経典の全経典における位置を判断する)

 

この五重玄義の五つの項目を理解するにあたって、「通(つう)」ということと「別(べつ)」ということがある。

通とは、同という意味である。別とは、異という意味である。あらゆる経典を、同じくこの五つの項目で解釈するので同という。しかし、名称を解釈するにあたっては、その名称は各経典で異なっている。そして五つめの判教による解釈も、教えが異なっている。この異なっているということを別という。

たとえば、すべての経典は、「如是我聞一時仏住若干人(注:ほとんどの大乗経典はこのような言葉によって始まっている。意味は、「このように私は聞いた。ある時、仏はどこそこに、だれだれと共におられた」である)」という言葉で始まっているということは、同ということである。しかし、「如是(是の如く・かくのごとく)」といっても、それがどのようなものか、ということは当然、経典によって異なっている。「我聞(我聞けり・われきけり)」といっても、聞いた人は異なっている。「一時(いちじ)」といっても、その時に仏がどのような霊的な状態から説法されたか、また聴衆がどのような霊的状態で聞いたか、ということは異なっている。「仏住(どこそこに仏がおられたという意味)」といっても、その場所は異なっている。「若干人(そこにどのような人が何人いたかという意味)」といっても、聴衆とその人数も異なっている。これはすなわち別ということである。

また、通とは共という意味であり、別とは各という意味である。このような通と別は、一つの経典に備わっている。そして通とは七番共解(しちばんぐうげ・これについては後説)によって解き明かし、別の解釈とは、五重玄義の各説ことである。なぜこのような二通りの解釈をするのかといえば、たとえば、五重玄義について、すぐに理解できる者と、なかなか理解できない者とがいるために、概略に説いたり詳細に説いたりするようなものである。

他の経典についての通別は、今は論じることはない。ただ『法華経』のみを通別によって解釈するのである。

(注:五重玄義という経典解釈方法は、すべての経典に適応されるべきものであるが、ここではそれをせず、もっぱら『法華経』を対象とするということである。この五重玄義は別である。しかしその前に、他の経典すべてに共通する事柄を論述する七番共解によって、この五重玄義が解釈される。これは「通」である。ところが、ここに述べられているように、『法華玄義』の五重玄義は、『法華経』のみを扱うものであることが明記されている。すると、この七番共解も、『法華経』のみを対象とする五重玄義の各項目を解釈するわけであるから、やはり『法華経』のみを対象とすることとなる。そして、その後に詳しく五重玄義の各項目を用いて、『法華経』を対象として述べていく。これが「別」である。もちろん、「別」の方がはるかに多い。そして、繰り返すが、五重玄義も『法華経』を対象としているわけであるから、「通」の七番共解であっても、「別」の五重玄義であっても、かなりの内容が重なる。さらにまた、五重玄義の五つの項目も、完全に別々なものではなく、たとえば、「釈名」によって名称を解釈すれば、その名称の中に、その経典の働きも本体も、また経典の目的も含まれているものである。このように、「通」の解釈と「別」の解釈が重なり、五重玄義の各項目も互いに重なるわけであるから、同じような内容が『法華玄義』の中で繰り返されることとなる。

このような論述の進め方は、現代人にとっては煩瑣であり、無駄に重複が繰り返されていると考えられても仕方がない。しかしこのようなことは、当時の中国仏教の学者や修行者には違和感がなかったと考えれば、納得せざるを得ないところである。また、結局重要なことは繰り返し学べる、という利点がないわけではない。

また、『法華玄義』の最後の箇所に、天台大師がこの論述に対する言葉として、「若し能く七義(=七番共解)を尋ね、次に十妙に通じ、別体の七(=七番共解)を研ぎ、余の五(=五重玄義)の鉤瑣相承(こうさそうじょう)し、宛宛(おんおん)として繍(しゅう)の如し」とある。訳せば、「先に七番共解を学び、次に十妙を通じて学び、次に五重玄義の各段落にある七番共解を研鑽するならば、それによって五重玄義は鎖が複雑に絡み合うようにつながり、刺繍のように途切れることがない」となる。これを見れば、まるで鎖が複雑に交わり、刺繍の糸は途切れることなくさまざま模様を描き出すように、この『法華玄義』の内容も、天台大師自身、意図的にそのように複雑にすることによって、もともと言葉で表現することのできない真理を述べているのだ、ということなのであろう。

それならば、この『法華玄義』は、現代人が何かの論文などを理解するように読むのではなく、とにかくその文が表現している真理を理解していけばそれでよい、ということであり、重要なことは、読者の心に刻み込まれるように、何度も何度も記されるということだ、ということになる)。