大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  19

『法華玄義』現代語訳  19

 

第七章 会異(えい)

七番共解の第七は、「会異」である。

(注:会異とは、異なったものを合わせるという意味である。見た目には名称や内容が異なっていても、真理に立てば、それらはみな同じ真理の表現として一つにすることができる、ということである。ここでは、『大智度論』に説かれる「四悉檀」が、五重玄義と本質的に同じことであるとして、その「四悉檀」を用いて五重玄義についての総論の一つとしている。そして、その「四悉檀」の説明とそれに関する記述が非常に長く、実際、七番共解の約半分の分量が、この第七の会異が占めている。なお原文には細かい段落分けはないが、わかりやすくするため、適宜に見出しを用いて分類して見ていく)。

 

問う:『大智度論』には、「仏の教えはさまざまであるが、すべて四悉檀(ししったん)に分類できる」とある。この五重玄義と四悉檀は一致するのか。

(注:「四悉檀」は、すべての経典の教えを「①世界悉檀(せかいしったん)」、「②各各為人悉檀(かくかくいにんしったん)」、「③対治悉檀(たいじしったん)」、「④第一義悉檀(だいいちぎしったん)」の四つに分類するものである。ここでは、「五重玄義」と「四悉檀」と、項目の数も名称も異なっているが(異)、同じ意味なのだ(会)、ということを説く。「四悉檀」は仏教教理において基礎的な経典分類法なので、ここで「五重玄義」と対応させているわけである)。

答える:このことを、まさにここで述べよう。まず、五重玄義と四悉檀を対応させて、その次に四悉檀の各項目について述べることにする。

 

第一節 五重玄義と四悉檀

第一項 釈名と世界悉檀

釈名は、『妙法蓮華経』という題名を解釈することである。その題名にすべて真理が含まれているのであるから、釈名に五重玄義のすべてが含まれる。そのため、五重玄義の最初に位置する。世界悉檀とは、この世の次元に応じて説かれた仏の教えという意味である。そもそも、仏はこの世のすべての人々を悟りに導くために教えを説いているのであるから、この世界悉檀という名称に四悉檀のすべてが含まれる。そのため、世界悉檀は、四悉檀の最初に位置する。このように、世界悉檀と釈名は対応する。

第二項 弁体と第一義悉檀

弁体は、経典の正体を論じるものであるが、その正体とはもちろん真理であり、第一義である。そのため、最も究極的な真理が説かれた仏の教えという意味の第一義悉檀と弁体は対応する。

第三項 明宗と各各為人悉檀

明宗は、経典が説かれた目的を明らかにするものであるが、それは人々に教えを説き、修行に導き、悟りを得させるためである。そのため、人々を導くために人それぞれの能力に応じて説かれた仏の教えという意味の各各為人悉檀と明宗は対応する。

第四項 論用と対治悉檀

論用は、経典の働きを論じるものであるが、まさにそれは、疑う心を破って悟りに導くことである。そのため、医者が病気を治すように、煩悩や業を破って悟りに向かわせるために説かれた仏の教えという意味の対治悉檀と論用は対応する。

第五項 判教について

このように、四悉檀を分類すること自体が判教に対応する。判教によって明らかにされる教相については、後にも述べる。

 

問う:やはり、五重玄義と四悉檀の順序は一致していないではないか。

答える:四悉檀は仏の智慧を基準として分類したものである。さまざまの能力の高い者や低い者に応じて説かれると、それは四悉檀の四つの項目に分けられるようになる。しかし、能力の高い者は、世界悉檀に分類される教えを聞いただけで、第一義悉檀に分類された教えと同じ悟りを得るのである。これは、釈名を聞いただけで明宗を悟るようなものである。また、能力の低い人は、このようには悟れないので、各各為人悉檀と対治悉檀を経て、第一義悉檀の教えに至るのである。このように、四悉檀のすべての項目を用いるのである。五重玄義は、能力の高い人と低い人すべてに応じており、四悉檀の教えはもっぱら能力の低い人のためである。五重玄義と四悉檀の教えの内容は同じであるが、順番は異なるのである。

問う:『大智度論』は『大品般若経』を注釈したものであり、『法華経』とは関係ない。なぜ、『大智度論』に記されている四悉檀が五重玄義と同じなのか。これに対して『中論(ちゅうろん・『大智度論』と同じ龍樹の著作。中観を説くのでこの名がある)』はあらゆる経典に共通する内容である。なぜこれを用いないのか。

答える:『大智度論』には、「四悉檀はすべての教え、十二部経(じゅうにぶきょう・すべての経典を十二部に分類したもの。後の箇所でも詳しく述べられる)を摂取する」とある。なぜ『法華経』がその中にないことがあろうか。『中論』はすべてに通じる真理を述べているものなので、そのように用いるべきであるが、真理が具現化されたものとして見るならば、その表現においてはじゅうぶんではない。この『中論』に説かれる中観(ちゅうがん・空にも、仮(すべての実在は空という在り方においてあるという見方)にも執着しない見方)について、五重玄義によって解釈するならば、中という名称はこの教えの正体であり、観という名称は教えの目的であり、論という名称は教えの働きのことである。『瓔珞経(ようらくきょう)』には、「誤った考えを破るという方便(ほうべん・巧みな教えという意味)、正しい真理を教えるという方便、悟りを与えるという方便」と、方便の三つの働きを述べているが、『中論』には「教えの真理によって執着を破り、釈迦の説かれた教えを立て、聖者の悟りを得る」とある。これによって、論という名称は教えの働きのことであることが明らかである。

中観で教える真理は、人間の知恵が及ばない不思議であるので妙であり、中観の対象である境は権と実であるので法であり、中観の智慧は教えである因とその果である悟りによるので蓮華に喩えに相当し、観ということは教えそのものであるから経に相当し、「妙法蓮華経」が成り立つ。このように中・観・論という三文字は、四悉檀と同様に五重玄義によってその共通する意義が明らかになるのである。

さらに、『中論』に記されている「衆因縁生法、我説即是無、亦為是仮名、亦是中道義」すなわち、「衆因縁生法は、我すなわちこれ無なりと説き、またこれ仮名となし、またこれ中道の義と名づく」の四句をもって、あらゆる経典を分別するならば、次の通りである。衆因縁生法は、三蔵経であり、我説即是無は、通教であり、亦為是仮名は別教であり、亦是中道義は、円教である。『法華経』は第四句で述べるところである。どうして『大智度論』と『中論』の二つだけが五重玄義を説くのであろうか。他のあらゆる経論に共通して用いることができるのである。