大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  07

『法華玄義』現代語訳  07

 

第一章 標章(ひょうしょう)

(注:これより章・節・項・目などの見出しで段落を着けていくが、この区切りは必ずしも伝統的な分け方ではなく、その都度、適宜にわかりやすいと思われる流れに従って分けたものである。さらに目以下にも多くの段落に分けられるが、あまり細かく分けてもかえってわかりにくくなるので、それも適宜に分けたり分けなかったりした。なお目次には、見やすさを優先させて、記したものもあれば記さなかったものもある)。

 

第一節 標名(標章釈名)

まず五重玄義の第一である「釈名」を、七番共解の「標章」をもって述べる。ここに、四つの項目を設ける。一つめは、立名(りつみょう)であり、二つめは、分別(ぶんべつ)であり、三つめは、結(けつ)であり、四つめは、譬(ゆ)である。

第一項 立名

立名(りつみょう)とは、すべての根元である聖なる真理に名称をつけることである。まさしく、人には知られない深い真理を開くことから始まり、それを見て聴き、次にすべての人々が共に見て聴くことができるようにし、さらにその先に進み、最後に極みに至ることができるようにするためである。そのために、もともと名称のない真理に名称を付け、それを教えとして人々に知らしめるのである。

このように、五重玄義の釈名は、経典にあるすべての名称というところに注目しながら、経典を解釈する方法である。

 

第二項 分別

では、その名称にはどのような働きがあるだろうか。それは、分別(ぶんべつ)するということである。名称には、すでにそこに、その教えが真理をどのように表現しているかが表わされている。真理を名称化して教えとして表現したとしても、それらはすべて同じではなく、未だに洗練されていない粗雑な教えと、玄妙な教えがある。たとえば、「隔歴の三諦(かくりゃくのさんたい・後に詳しく述べられることになるが、空諦、仮諦、中諦の三諦を順番に修していく教え)」は粗雑な教えであり、「円融の三諦(えんゆうのさんたい・三諦を順番ではなく、三諦の真理に一度に入るという教え。天台教学の中心を形成する教義)」は玄妙な教えである。この玄妙な教えこそ、永遠に変わらない真理である。

法華経』に「この教えは真理であり、この世は永遠に変わらない真理の表現そのものである。それはただ仏である私だけが、その真理の表現を直接知ることができる。そしてあらゆる方角におられる仏もまた同じである」とある通りである。仏のみが知るとあるように、究極的真理は、もうこの世に生まれ変わることがなくなった大乗仏教の求道者(=不退の菩薩・ふたいのぼさつ)や、大乗以前の仏の弟子や一人で修行して悟った者(=入証の二乗・にっしょうのにじょう)でも知ることができない。ましてや、一般の人間や多くの天の存在(=人天群萌・にんでんぐんみょう)は知ることができないのは当然である。

しかし仏は、その究極的真理を教えとして、すぐにそれを直接説くかといえば、そうではない。これも『法華経』に「もしすべての人々がみな仏になれるのだという教えを説いても、人々は苦しみに埋没しているのだから、この教えを信じることはできないだろう。そうなれば、かえって教えを受けていながら、その教えを捨ててしまうという罪を犯させることになり、その人々は地獄や餓鬼や畜生の世界(=三悪道・さんなくどう)に堕ちてしまうであろう」とある通りである。このため、「初めの教え」においては、釈迦は、究極的な教えと、相対的な教えを明確に区別することなく語られたので、能力の劣った者にとっては全くわからなかった。

(注:ここに「初めの教え」とあり、この後も「次の教え」と続くが、これは後の章で説かれる「五時(ごじ)」の各教えのことである。釈迦が各経典の教えを説いた順番について、天台大師が五段階に分けて説明した教えを「五時教判(ごじきょうはん)」という。しかしあくまでもここでは、単に経典の順番を述べるために語られているのであり、詳しくは後の章で述べられるので、今は「初めの教え」、「次の教え」、「その次の教え」というように理解していればじゅうぶんである。なお繰り返すが、現在の仏教学では、大乗経典のすべては歴史的釈迦の教えではないことが証明されている。したがって、この「五時教判」の教えは、歴史的な見地に立てば誤りである。しかし、天台大師は自らの悟りによって、各経典の内容を判別して、従来の経典の分類(=教相判釈・教判)を訂正して独自の教判を立てた。そしてそれは、各経典の内容を実に正確に分類しているため、各経典で説こうとしている教えの面では誤りではない。このため、それ以降、宗派の違いを越えて、天台大師の教判が広く用いられていった)。

このため、釈迦は「次の教え」では究極的な教えは説かず、能力の高い人は対象としなかった。さらに「その次の教え」では、究極的な教えと相対的な教えを共に説き、究極的な教えをもって相対的な教えを退け、能力の劣った者が相対的な教えを恥じて、究極的な教えを慕うようにした。さらに「その次の教え」でも究極的な教えと相対的な教えを共に説き、能力の劣った者が究極的な教えを受けつつ、相対的な教えの悟りに向かうようにし、能力の高い者は相対的な教えを受けても、究極的な悟りへと向かうようにした。このように、あらゆる教えを説いて衆生に施すといっても、ただ相手の能力に応じて説くのであって、それは仏の本心ではない。このために、『法華経』の経文の中に、「あえて急いで究極的真理を説くことはしなかった」とある。しかし、この『法華経』では、相対的真理を明確に退けて、ただ究極的真理を説くのみであり、その聴衆すべてに同じ真理を聞くということを味わわせたのである。すなわち、如来がこの世に出現された本当の理由を述べられたのである。このために、この『法華経妙法蓮華経)』の名称に「妙」という文字があるのである。

 

第三項 結

まとめるならば、まさに知るべきである。「華厳(けごん)」と名づけられる「初めの教え」は、究極的教えと相対的教えを兼ね備えており、「三蔵(さんぞう)」と名づけられる「次の教え」は、ただ相対的教えのみであり、「方等(ほうとう)」と名づけられる「次の教え」は、究極的教えと相対的教えが相対しており、「般若(はんにゃ)」と名づけられる「次の教え」は、究極的教えと相対的真理が互いに交わっているのである。

しかしこの『法華経』は、二つを兼ね備えている教えでもなく、ただ一つのみの教えでもなく、二つの教えが相対している教えでもなく、二つが互いに交わっている教えでもない。もっぱらこの上ない道を明らかにする教えなのである。そのために、「妙法(妙なる教え)」という名称がつけられているのである。

(注:天台大師の教判が、後世の仏教に多大な影響を与えたと上に述べたが、そのわかりやすい具体的な例が、関東の日光の山に見られる。日光の山は、奈良時代に勝道(しょうどう)上人という人物によって、仏教の修行の山として開かれた。そして、やがてその山の中にある数多くの滝に、この天台大師の教判に由来する名前が付けられた。中禅寺湖から最初に流れ出る荘厳な滝に「華厳」という名がつけられ、それに続く滝に、それぞれ、「三蔵=阿含」「方等」「般若」などの名がつけられている)。

 

第四項 譬(=譬喩)

上に述べた教えが「蓮華」に喩えられている理由は、蓮華には、麁(そ・粗雑なものという意味。妙に相対する言葉として、これから無数に用いられる用語である)もあれば、妙もあるからである。

麁とは何か。実に何も入っていないものもあり、あるいは花びらが一つしかないのに、たくさん実があるものもあれば、たくさん花びらがあるのに、一つしか実が入っていないものもあれば、花びらが一つで実も一つのものもあれば、実が先にできて、後から花びらが出るものもあれば、先に花びらが出て、後に実がつくものもある。

「実に何も入っていないもの」とは、仏教以外の教えである外道の清浄を目的とする修行をして、結局何も得るところがない人を喩え、「花びらがひとつしかないのに、たくさん実があるもの」とは、出家していない凡夫(ぼんふ)が、父母を供養して、梵天(ぼんてん・梵天が住む天)に報いを積むことを喩え、「たくさん花びらがあるのに、一つしか実が入っていないもの」とは、声聞(しょうもん・歴史的釈迦の弟子を指す)がさまざまに難行苦行して、ただその人だけの悟りである涅槃(ねはん)を得ることに喩え、「花びらが一つで実もひとつのもの」とは、釈迦の弟子でないが、ひとりで修行して悟りを開く人に喩え、「実が先にできて、後から花びらが出るもの」とは、聖者の位に上ってから、さらに修行を積む人に喩え、「先に花びらが出て、後に実がつくもの」とは、大乗の教えを修行する菩薩が、まず相対的な修行をして、後に真実の修行に入ることを喩える。これらはみな、粗雑な麁の蓮華であり、『法華経』の喩えにはならない。

蓮華にはさまざまな様相がある。実をつけるために花があるのだと見ることができるが、それは、花と実が共に備わり、実(じつ)がそのまま権(ごん)であることを喩えることができる。また、花が開いて実が現われる様子は、権がそのまま実であることの喩えとなり、また花が落ちて実がなり、あるいは実が熟して花が落ちる様子は、権でもなく実でもないという真理の喩えである。このように、あらゆる表現をするために蓮華は便利である。そのために、蓮華をもって「妙法」を喩えるのである。