大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  08

『法華玄義』現代語訳  08

 

第二節 標体(標章弁体)

次に五重玄義の第二である「弁体」は、経典の教えの真実の体(たい・本体という意味)について述べられるが、その「標章」として四つの項目を立てる。一つめは、釈字(しゃくじ)、二つめは、引同(いんどう)、三つめは、簡非(けんぴ)、四つめは、結正(けっしょう)である。

 

第一項 釈字

「体」という文字は「體」であり、「礼」という文字の「禮」と「つくり」が同じである。礼とは法である。親を親とし、子を子とし、君子と臣下を区別する。もし法に礼がなければ法ではない。この世から救われることである出世(しゅっせ)の教えの真実の体も、これと同じである。善と悪、凡夫と聖人、菩薩や仏の区別がある。これらの区別はすべて、真理の本性である法性(ほっしょう)から出ることはない。正しく真実の姿である実相(じっそう)を指しており、それを正体とするのである。

(注:現在では、「正体」というと、「正体を暴く」というように、あまり良い意味で使われないようであるが、この言葉の意味は、真実の本体、という意味であり、もちろんここでもその意味で使われている)。

 

第二項 引同(証拠となる文献を引用する)

法華経』の「如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)」に「仏は、迷いの世界である三界(さんがい・欲界、色界、無色界の三つ)が三界を見るようなことはない。三界の真実の正体は、同じこともなく、異なることもない」とある通りである。三界の人は、三界を見て、さまざまな異なった形があると思い、大乗仏教以前の声聞と縁覚の二乗(にじょう・声聞と縁覚を指す)の人は、三界を見て、その本質は空(くう)として同じだとする。大乗仏教の求道者である菩薩は、三界を見て、その本質は空として同じでもあり、仮(け・仮りという意味)の姿として異なってもいるとする。そして仏は三界を見て、その本質は同じでもなく異なってもおらず、同時に同じであり異なっていると智慧をもって照らす。ここでは、この仏の智慧によって見るところの真理を正体とするのである。

華厳経』の「十地品」において、「十地」について述べる金剛蔵菩薩(こんごうぞうぼさつ)が、仏の非常に微妙な智慧を説くことは、言葉は異なっているが意義は同じである。その言葉として「空と有(う・明らかにあるという意味。空に対する言葉)は、不二、不異、不尽である」とある。空とは滅ぼし尽くして無ということではないので、空であって有であると説くのである。有はそのままで空であり、空はそのままで有であるので、「不二(ふに)」という。空と有を離れて、別に中道(ちゅうどう・空と有の両方にもとらわれていない境地)があるのではないので「不異(ふい)」という。この真理はすべてのところに偏在するので「不尽(ふじん)」という。これも龍樹(りゅうじゅ・ナガールジュナ。2~3世紀のインドの仏教思想家。特に空思想の大成者である)も同じことを言っている。『中論(ちゅうろん・龍樹の代表的著作)』には「因縁によって生じる法(ほう・法という言葉は多くの意味で使われるが、ここでは実在するものという意味)は、即ち空であり即ち仮であり即ち中である」とある。「因縁によって生じる法は即ち空」とは、滅ぼし尽くして無であるということではない。「すなわち仮」とは、「不二」のことであり、「即ち中」とは、「不異」のことである。したがって、「因縁によって生じる法」は、すべてのところに遍在するのである(注:遍在するとは、場所的なことを言っているのではなく、すべてが真理そのもの、という意味である)。

 

第三項 簡非(誤った解釈を排除する)

ここで、「実相の体」ということは、権がそのまま実であるということであるので、滅ぼし尽くして無であるという誤った解釈を離れることができる。実がそのまま権であれば、勝手に教えを作っているという誤った解釈を離れることができる。権と実はそのまま権でもなく実でもないので、真理は複数あるという誤った解釈を離れることができる。権と実を同時に仏の智慧によって照らし、その真理がすべてのところに遍在していることを知るので、真理と真理でないものがあるという誤った解釈を離れることができる。

 

第四項 結正(結論)

このように、『法華経』の迹門と本門の優れたところを合わせ、「十地品」を解釈した世親(せしん・4世紀のインドの仏教思想家)の『十地経論』と龍樹の『中論』と天台の教えとを比較し、その教えが合致していることによって、この『法華経』の正体を明らかにした。

 

○灌頂私記

(注:灌頂の解釈がここに記されている)

 

私、灌頂が解釈するに、実相の法は、「滅ぼし尽くして無である」、また「勝手に言葉を作り出すこと」、また「真理は複数ある」、また「真理と真理でないものがある」などという凡夫の一般的な誤った執着を破り、また、悟りの段階から見れば、聖人の位における三つの教え、つまり三蔵教・通教・別教の不完全な悟りの見解を破るのである。この凡夫の誤った見解を破るということは理解しやすい。聖人(しょうにん・単に悟りを開いた人という意味であり、その悟りにも段階があるので、必ずしも究極的な真理を悟った人という意味ではない)の位における不完全な悟りを破るということについて、ここで述べることにする。

まず、三蔵教(さんぞうきょう・略して蔵教ともいう)の声聞と縁覚の二乗は、すべてのものは実体がない、つまりすべてはただ空であるということを究極的な悟りとしている。それはまるで、ガラス玉が水晶に似ていても、再び磨けば偽物だとわかるようなものである。『法華経』において、舎利弗(しゃりほつ・釈迦の弟子の筆頭)が、「私たちは悟ったと思っていましたが、如来の無量の智慧と見解は得ていませんでした」と言っている通りである。空と有の意義は、正しく二乗の誤った見解を破るのである。次に、大乗仏教の最初の段階である通教(つうぎょう)の人は、すべては空であり同時に空でないという悟りを究極的な悟りとしている。これは、水晶を色のついたもので包めば、光を水晶に当てても、その包んだ色に応じて、水晶の色も変わるようなものである。つまり、その色によって本来の水晶の輝きを失い、黒い色や黄色い色などを追い求めて、結局は大乗仏教の教えから退いてしまうのである。『涅槃経(ねはんきょう)』に、「大乗以前の釈迦の弟子たちである声聞は、ただ空であることを見て、空でないものを見ない。大乗仏教の求道者である菩薩は、ただ空を見るのではなく、空でないものを見る」とある通りである。このように、見る所はすでに異なるので、不二という意義は正しくこの偏った証を破るのである。さらに別教の人は、ただ空のみではないということをもって究極的な悟りだとしている。空と不空の二辺を出ることは、雲の上に輝く月のようなものである。二辺を離れて、中道(ちゅうどう)を取るということは、空ということを捨てて空ということを求めるようなものである。不異という意義は正しくこの偏った証を破るのである。もし、こちらにあって、あちらにない、などということであれば、真理は偏りがない、ということは成り立たない。不尽の意義も、またこの偏った証を破るのである。

(注:「空」という言葉が繰り返し出ているが、厳密に言えば、「空」という思想は、大乗仏教になって初めて出てきた思想であり、大乗仏教以前の釈迦の弟子たちの段階では、すべてのものに実体がない、というような思想は「無常」と表記すべきである。しかし、天台大師当時は、大乗仏教が、釈迦の弟子たちの時代より約四百年以上たった時代に成立したということは知られておらず、また何より、すべての大乗経典においては、大乗経典の教えを説いた教主も歴史的釈迦であるとされているため、「無常」という思想を指す場合も、「空」という言葉が用いられてしまっている。この段落では、「無常」という教えを、「ただ空である」、あるいは「空に執着すること(但空)」と表現されている。本来、ただすべてのものは移り変わる、何一つ不変なものはない、という「無常」の教えと、大乗仏教の「空」の思想は本質的に異なっているので、混同してはならないものである。このような問題は、大乗経典が歴史的釈迦の説いたものではない、ということが明らかとなっている現在において、非常に大きな障害となるのも事実である。しかし、これからの『法華玄義』の論述全体を見れば、この混同も大きな問題を生じることはない)。

以上見た、誤った、あるいは不十分な見解や偏った証は、みな、仏の深く不思議な智慧を言い表したものではないので、金剛蔵菩薩が述べた意味とは同じではない。仏の証得(しょうとく)した本有(ほんう・永遠の昔から永遠の未来まで変わらずあるということ)であり常住(じょうじゅう・常に存在するということ)という真理ではないので、『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」で説かれている内容とも異なっている。また誤った不十分な見解や証は、真理はすべてに遍在しているということでないので、「寿量品(じゅりょうほん)」で説かれている内容とも異なっている。このように、『法華経』の正体に一致していないので、どの法に摂取されるのであろうか。ただ空を説くことは、他人を教化することの実(じつ)であり、ただ空であるということとただ空ではない、という教えは、自らの修行と他の人々を教化するにあたっての実(じつ)であり、ただ空であることとただ空ではない、という二辺を出る中道の教えは、自らの修行の権(ごん)である。これはすべて他の経典で説く所であり、『法華経』の正体ではない。

この『法華経』の正体は、他の人々を教化する権と実は、そのまま自らの修行の権と実であるということである。『法華経』に記されているところの、ぼろ布を着ても、中身は長者のままだ、ということである。自らの修行と他の人々を教化する権と実は、そのまま自らの修行の権と実であるということである。これも『法華経』に記されているところの、自分が着ている衣の裏に、知らない間に非常に価値のある宝珠が縫い付けられていた、ということである。そして自らの修行の権はそのまま仏自らの修行の実である。世間のあらゆる文学や経済などの文明文化も、すべてそのまま実相と相違ないのである。一つの色形も一つの香りも、中道でないことはない。ましてや自らの修行の実は実でないことがあろうか。