大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  17

『法華玄義』現代語訳  17

 

第五章 料簡(りょうけん)

七番共解の第五は、料簡である。

(注:「料簡」とは「検討する」という意味であり、ここでは五重玄義についての検討が問答形式で進められる。この問答は、五重玄義の五つの項目の一つ一つに対して述べられているのではなく、一つの項目についてであったり、全体に対しての論述であったりする。なお「問う」という言葉が原文にない箇所は、それを補って記す)。

問う:釈名に説かれていたところの、「蓮の実のために花がある」ということならば、蓮の花と実は必ず共にあるということになり、仏教からは異端と見られる思想、すなわち、因と果は本来同一であるという因中有果(いんちゅううか)の思想にならないか。

答える:因中有果は、昔の医者の誤った考え方(注:ある医者があらゆる病気に同じ薬を投与していたという『涅槃経』に記されている喩えを指す)である。すでに、釈迦の弟子たちに対する初期の教えにおいて、それは破られている。さらにそれは、程度の低い教え(麁)における権と実の意義にもならない。ましてや究極的教え(妙)における妙因妙果、新しく来た医者の真実の薬であるわけがない。

問う:蓮華の花は権を喩えているという。権は小乗の教えならば、『法華経』の中の小乗を表わす草庵(化城)は破るべきであり、確かに、その草庵は真実の目的地に出発する時に消されている。では、花をもって権の教えを喩える理由は何か。

答える:小乗は、仏が人々を教え導くために語った権の教えである。したがって、真実の悟りに向かうならば排除させるべきものである。それに対して、自らの修行の権を表わすために、花を喩えに用いるのである。

問う:『法華経』には、「火宅の喩え(=三車火宅・さんしゃかたく)」から「医者とその子の喩え(=良医病子・ろういびょうし)」まで七つの譬喩があるが、すべて蓮華を用いていない。それなのになぜ、蓮華を題名としているのだろうか。

答える:七つの譬喩は各論であり、蓮華の譬喩は総論である。総論を挙げて各論を包括するために、『法華経』の題名となっているのである。

問う:すべての法はすべて仏の法である。なぜ、権を捨て実を取って『法華経』の体とするのか。

答える:もし権を開いて実を顕わせば、すべての法はみな『法華経』の体となるのである。もし権を排除し実を顕わせば、『法華経』以前に説かれた教えとなる。

問う:なぜ因と果を相対的に並べ用いて、『法華経』が説かれた目的(宗)とするのか。

答える:因によって果が表われ、果は因が何であるかを表現するものとなる。もし、表現する側に立つならば、因が経典の目的となり、表現される側に立つならば、果が経典の目的となる。この二つの意義は本来、二つ相対してこそ成り立っているので、片方だけを取るということは不可能である。また『法華経』の前半の迹門と後半の本門の両方においては、共に因果が説かれている。

問う:経典の説かれた目的である宗を論じる場合は、仏が人々を教化する因果を捨て、経典の働きである用を論じる場合は、自らの修行の因果と人々を教化する因果の権と実を取る理由は何か。

答える:『法華経』の説かれた目的である宗とは、自らの修行と悟りの境地を明らかにするためのものなので、他の人々を教化するためではない。そして、『法華経』の働きである用は、他の人々を導くものである。したがって、その両方を並べて述べるのである。

問う:経典の働きである用が他の人々を教化するものであるならば、自らの修行と悟りの境地の権と実を説く必要はないのではないか。

答える:それは、仏は自らの修行と悟りの境地をもって、人々に利益(りやく)を与えようとするからである。

問う:重ねて質問するが、この経典が説かれた目的である宗についても、また同様なことが言えるではないか。宗も他の人々を教化する因果についてのものである。

答える:他の人々を教化する因果によっては、仏の究極的な悟りは成就しない。そのために、宗においてこれを取らないのである。

問う:また重ねて質問するが、『法華経』の働きである用の他の人々を教化する権と実においても、同様に、他の人々を教化する因果によっては、仏の究極的な悟りは成就しないことになる。それならば、これも用いる必要はないではないか。

答える:人々を教化するということは、人々の状況に応じて適宜に行なって、人々に利益を与えるものである。そのためにこれを用いるのである。

問う:経典の目的である宗と、その働きである用は、共に智慧によって煩悩を断じることを説くのであるから、なぜこれらを区別するのか。

答える:自らの修行と悟りの境地においては、智慧の徳をもって宗とし、煩悩を断じる徳をもって用とする。一方、人々を教化することは、自らの修行と人々を教化することの両方における、智慧の徳と煩悩を断じる徳を共に宗とし、人々を教化することにおける智慧の徳と煩悩を断じる徳を共に用とする。

問う:そもそも五重玄義は、なぜ四つでもなく、六つでもなく、五つなのか。

答える:たとえ四つや六つの項目を立てても、また同じようになぜ四つなのか六つなのか、という疑問が生じるであろう。このような質問はきりがない。

問う:各経典はそれぞれ内容が異なっている。なぜ五つの項目が共通して各経典を解釈することができるのか。

答える:もし各経典を別々に解釈したら、ただ別々の解釈を得るだけで、そこに共通する真理を得ることはできない。共に五重玄義をもって解釈すれば、共通する真理を得られて、なおかつ各解釈も得られるのである。

(注:しかし、『法華玄義』では、あくまでも『法華経』だけを対象として五重玄義によって解釈されている)。