大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  38

『法華玄義』現代語訳  38

 

第二目 法について

(注:妙について概略的に述べられたので、それに続いて、法について概略的に述べられる。仏教において法とは、法律というような意味はなく、真理、事実、実在、ある事柄についての教えなど、大変広い意味で用いられる。つまり法とは、すべての実在の真実の在り方という意味である。したがって解釈する時は、その前後の文に応じてその意味を理解しなければならない。ここでは、天台大師の師である南嶽慧思の説に従って、法を衆生法・仏法・心法の三法とし、それぞれについて述べる形が取られている)。

 

南嶽慧思(なんがくえし・中国南北朝時代の僧侶で、天台大師の師。中国天台宗の第二祖とされる)は、法について衆生法(しゅじょうほう)・仏法(ぶっぽう)・心法(しんぽう)の三つに分類している。これより法の解釈に当たっては、この衆生法・仏法・心法の三法によって述べる。

まず、法、つまり三法が妙であることについて、概略的に述べる。

法華経』に「(『法華経』を説くことは)衆生を仏の知見に開示悟入(かいじごにゅう・開いて示して悟らせ入らせること)させようとするためである」とあるが、もし衆生がもともと仏の知見を持っていなければ、どうしてそれを開くことができようか。まさに知るべきである。仏の知見は衆生に備わっているのである。たとえば『法華経』に「ただ父母から生じた眼をもって見る」とあるのは、すなわち肉の眼のことである。内外の弥楼山(みるせん・仏教の世界観で最も高い山のひとつ)を見通すことのできるのは、天眼(てんげん・霊的な眼のこと)である。あらゆるものを見ても全く執着を生じないのは、慧眼(えげん)である。色形を誤りなく見るのは法眼(ほうげん)である。まだ完全に煩悩を消滅させていないままで、このような清らかな眼を得ることができる。眼にこのような働きを具備することは仏眼(ぶつげん)である。以上は『法華経』に衆生法がいかに妙であるかを明らかにする文である。

大智度論』に「大乗を学べば、肉の眼のままであっても、それを仏眼と名付けられるのだ。耳も鼻などの五根(ごこん・眼、耳、鼻、舌、身の肉体の感覚器官のこと)もまたこれと同じである」とある。また『殃掘経(おうくつきょう)』に「いわゆる眼根はあらゆる如来において、常に完全に機能し、すべてを完全に明らかに見る。これは、他の五根、および意根(いこん・人間の感覚器官の一つであるが、肉体的というより精神的感覚器官として理解される。精神も感覚器官であり、心とは全く別である。たとえば、記憶が呼び覚まされることは、精神的感覚器官の一つであり、それによって、人間の次の行動が決定されることも多い。そして意根と他の五根と合わせて六根という)においても同様である」とある。また『般若経』に「六根は、その本性は清浄である」とあり、また「人間にとって、すべての法は眼を拠り所としており、眼で見ること以上のことはない。しかし眼は実在としてとらえることができないので、ましてや拠り所になる所やならない所などがあろうか。さらにすべての法が人間の感覚器官を拠り所としているということも、これに同じである」とある。これらの文はすなわち、あらゆる経典に衆生法が妙であることを明らかにしているのである。

(注:「衆生」とは、多くの場合、「人々」という意味である。しかし、次の「詳細に述べる」の箇所に、「衆生法は、あらゆる修行と悟り、およびすべての教えに共通することであり、仏法は悟りについてのことであり、心法は修行の本体のこと」と明記されている。つまり衆生法とは、修行する人における行とその結果、さらにその教えについての現実的なことという意味となる。現代的には、人間は肉体という単なる物質に過ぎないとなるが、もちろん仏教ではそのようには見ない。ここでは、肉体的人間を「六根」、つまり六つの感覚器官の総合体として理解している。その感覚器官によって作り出された認識が、人間そのものなのである)。

次に仏法が妙であるとは、『法華経』に「やめよ、やめよ。説くことはしない方が良い。私が説く法は妙であり、人間の思慮で理解することはできない」とある通りである。仏法を権と実の二つによって見るならば、『法華経』に「この法は非常に深く妙であり、見ることも理解することも難しい。すべての衆生に仏を知る者はない」とあるのは、実の仏の智慧が妙であることである。そして「および仏の他の法もまた知る者はない」とあるのは、すなわち真理が方便をもって姿を変えて権である他の法として表われても、それを知る者はなく、そのことは権の仏の智慧が妙であることである。さらにこの二つについては、『法華経』に「ただ仏と仏のみがよくあらゆる存在の真実の姿を究め尽くす」とあり、これによって仏法が妙であることが明らかである。

次に心法が妙であるとは、『法華経』の「安楽行品(あんらくぎょうほうん)」の中に、心を良く修め、すべての実在を観察すれば、真理において動かず退くこともないことが記されている通りである。また「法師品(ほっしほん)」に「一瞬の心の動きに真理を喜ぶ」とある通りである。また『観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)』には「私の心は自ら空であり、罪も福もその対象とはならない」とあり、「心を観察すれば心はなく、法は法にあることはない」とある。また、心はもっぱら法そのものであることについては、『維摩経』に「身体を観察すれば、それは真理の姿となる。仏を観察しても同じである。諸仏の悟りによる解脱は、まさに衆生の心の働きにおいて求めるべきである」とある。『華厳経』に「心と仏と衆生の三つに違いはない。非常に小さな心の動きを破って、そこから全世界の経典が出て来る」とある。これによって心法が妙であるということが明らかである。