大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  10

『法華玄義』現代語訳  10

 

第四節 標用(標章論用)

 

経典の働きを表わす名称の解釈にあたって、三つの項目を立てある。一つめは、示(じ)、二つめは、簡(けん)、三つめは、益(やく)である。

 

第一項 示(言葉の意味を示す)

経典の霊的働きを「用」という。その働きということにおいては、働く力である「力(りき)」と、その力が働いた結果の「用」とに分かれる。そして、次に述べる三種類の仏の権と実の二つの智慧は、みなこの力と用という観点から見ることができる。

 

第二項 簡(究極的な教えを述べる)

力と用を分けて見るならば、自らの修行における権と実の二つの智慧をもって真理を照らせば、その真理は明らかに表わされることを力とする。人々を教えることと修行することが同時に人々を教えることにおける権と実の二つの智慧をもって、対象となる人々を見れば、そのすべての人々に及ぶことになることを、用とする。だた、仏においては、自らの修行おける権と実の二つの智慧が、そのまま人々を教える権と実の二つの智慧であることであり、人々を教える権と実の二つの智慧が、そのまま自らの修行の権と実の二つの智慧となるだけである。真理を照らすのは、そのまま対象となる人々を見ることであり、対象となる人々を見ることは、そのまま真理を照らすことである。

たとえば、釈迦が王子であった時、父親の王の弓を引く力を「力」といい、その放たれた矢が地の果てまで届いたということを「用」というのであり、その力と用は、他の王子がはるかに及ばないものであった。『法華経』以外の教えは、力・用ともに弱く、普通の人が弓矢を引くようなものである。なぜなら、『法華経』以前の教えにおいては、人々を教える権と実の二つの智慧を受けても、真理を広く照らすものではない。信心を生じさせても、深いものではない。疑いを除いても、徹底的に除くものではない。しかし、『法華経』の教えは、仏自らの修行の智慧を受けて、仏の世界を極め、法界(ほうかい・仏の真理である法が及ぶ世界、すなわちすべての世界を指す言葉)に対する信心を起こし、円満な妙なる道を進めさせ、根本的な煩悩を断じ、究極的な世界に生まれ変わるまでの、その生まれ変わりの回数を減らすのである。

 

第三項 益(やく・経典の利益)

法華経』は、ただ三界にいる身体を持った菩薩、およびその菩薩の中でも、さらに無生法忍(むしょうぼうにん・すべては不生不滅であることを悟ること。この忍は忍耐という意味ではなく、認めるという意味)を悟った菩薩に共に利益を与えるばかりではなく、三界の外にある法身(ほっしん・肉体の身体ではなく、真理そのままが人格化した身体を体とする仏や菩薩を指す言葉)、および法身の後心(究極的な悟りの段階=等覚位に至った仏や菩薩を指す)の両種の菩薩にもまた共に利益を与える。他を教化する功徳は広大であり、利益の潤いは広く深い。これが、この『法華経』の力用である。