大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  11

『法華玄義』現代語訳  11

 

第五節 標教(標章判教)

 

教相(きょうそう)を述べることの名称について、三つの項目を立てる。一つめは、根性の融不融の相、二つめは、化道の始終不始終の相、三つめは、師弟の遠近不遠近の相である。

教相の「教」とは、悟りを開いた聖人が、それを修行中の者に伝えることであり、「相」とは、各教えの違いを分別することである。

教えを分別すると次の通りである。

 

第一項 根性の融不融の相(こんしょうのゆうふゆうのそう)

(注:「根性」とは、聴衆の各人の能力のことである。各人の能力は当然それぞれ違う。そのことを「融不融」と表現している。釈迦はそれぞれの能力に応じて教えを説いたため、各教えに違いが生じたとする。この経典の分類方法として、ここでは、「化儀(けぎ)の四教」に『法華経』を加えた五つと、その五つの分類を、さらに牛の乳から乳製品が精製されていく過程で生じる五つの味である「五味(ごみ)」に当てはめて述べられている。「化儀の四教」は、これから述べられる頓教・漸教・顕露不定教・秘密不定教の四つであり、『法華経』はこの四つには入らないとする。しかし、すでに名称や簡単な説明が出ている三蔵教(=蔵教)、通教、別教、円教の「化法(けほう)の四教」には『法華経』は入るので、「化儀の四教」と「化法の四教」を比較すると、理解するまで混乱を覚える。さらに、五味の喩えは、不定教・秘密不定教には当てはまらず、頓教と、漸教の中の三つと、『法華経』に当てはまる。このように構成自体は複雑である)。

 

第一目 頓教(とんぎょう)

まず、太陽が出ると、初めに高山を照らす。そのように、釈迦は最初、聞く者の能力の差は考慮に入れず、悟りの境地をそのまま語ったのであり、この教えは能力の高い者には理解できた。しかし、もともと能力の劣った者のためのものではないために、能力の劣った者はその聴衆の座についていても、まるで耳の聞こえない人や言葉を発することのできない人のようであった。能力の劣った者は、その悟りの境地をそのまま語った教えに堪えられず、まさにその能力に隔たりがあったのである。これは、たとえば『華厳経』の教えである。その教えを名付けるならば、能力の高い者にとっては、即座に大いなる利益(りやく)を得られるために、即座という意味の「頓(とん)」という言葉を用いて、頓教(とんぎょう)の相とし、その教えを順序の面から見るならば、しぼりたての生乳のようなので、乳味(にゅうみ)と名付ける。

第二目 漸教と酪味

太陽が昇り、高山の次に照らされるのが幽谷である。幽谷が狭く浅いように、釈迦が次に説いた教えは、能力の劣った者にもわかりやすいものであり、次第に幽谷のすみずみまで光が届いて行くように、聞く者は次第にそれぞれ理解していった。これは、大乗以前の釈迦の弟子たちが、教えである教と、戒律である律と、教えを解釈した論をまとめた教・律・論の三蔵教(=蔵教)である。この三蔵教は、本来、大乗のためではない。大乗の教えを求める者たちは、その聴衆の中にはいたとしても、その者たちにとっては幼児の言葉のようである。すなわち、大乗以前の小乗は、あくまでも大乗の教えとは根本的に違っており、大乗の教えは、小乗の教えを完全に覆い隠してしまう。この教えを形体から見れば、聞く者が次第に理解していくものなので、漸教(ぜんきょう)と名付け、教えの順序から見れば、生乳を分離して得られるクリームに喩えられるので、酪味(らくみ)と名づける。

第三目 漸教と生蘇味

幽谷を照らした太陽は、次に平地を照らし始める。あらゆる影は長く伸びて水に映り、さまざまな形が波の動きに従って現われる。仏の世界は本来一つであるのに、その清らかさに違いが現われ、仏の身は本来一つであるのに、その大きさはさまざまに見える。仏の声は一つなのに、その教えは聞く人によって理解が違う。ある人は畏れ、ある人は歓喜し、ある人はうようになり、ある人は疑いを断ち切る。その仏の神通力も異なって現われる。そのために、仏の世界にも清らかさが異なって見え、教えを聞いても違いが生じ、香木の香りも違い、花を美しいと感じても、執着を生じる者もいれば生じない者もいる。智慧にも完全なものと不完全なものもある。これらは、『維摩経(ゆいまきょう)』などの大乗経典の教えが相当する。この教えを形体から見れば、やはり、聞く者によって理解が異なるので、これも漸教(ぜんきょう)であり、教えの順序から見れば、生乳を分離して得られたクリームを発酵させたものに喩えられるので、生蘇味(しょうそみ)と名づける。

第四目 漸教と熟蘇味

また、さらに太陽が昇ると、平地では人々がそれぞれ違った行動を始める。成人はこの光を効率的に用いるが、子供はいたずらに太陽を見ては目を傷める。そして夜遊びする者は、この光を見て部屋に籠り、働く者は仕事を始める。『法華経』に、「仏は菩薩たちのために教えの真髄を説かれたが、聞く能力のない私のためには、理解できるようには説かれなかった」とある通りである。声聞と縁覚と菩薩は共に学ぶが、声聞と縁覚の二乗はそれに相当する悟りを得る。具体的には、『大品般若経』にある通りである。この教えを釈迦の教えの形体から見れば、やはり、聞く者によって理解が異なるので、これも漸教(ぜんきょう)であり、教えの順序から見れば、クリームを発酵させて脂肪分を固めたものに喩えられるので、熟蘇味(じゅくそみ)と名づける。

第五目 漸円教と醍醐味

また、さらに太陽が高く昇ると、次第に影は短くなる。日時計の影も短くもなく長くもなく、それほど違いがみられなくなる。このように、『法華経』に、仏を礼拝する時、少ししか頭を下げていない者も、小さな声で祈っただけの者も、心が散ったままで祈った者も、少ししか修行をしていない者も、みなすべて、やがて悟りを開いて仏になるのだ、とある通りである。仏は自分だけが滅度(めつど・涅槃のこと)するのではなく、如来が滅度する姿を見せて、人々を同じく滅度に導くのである。具体的には『法華経』に記されている通りである。この教えを釈迦の教えの形体から見れば、漸教から完全な教えである円教に導くものなので、漸円教(ぜんえんぎょう・この用語は、上に述べた化儀の四教には入らない。むしろ「円教」として化法の四教に入るべきものである。この箇所では、五味と相対させるために、このような用語を用いたと考えられる)と名付け、教えの順序から見れば、クリームを発酵させて脂肪分を固め、さらに熟成させたものに喩えられるので、醍醐味(だいごみ)と名づける。

(注:現在でも、最高に味わいのあるものごとに対して、「醍醐味」という言葉を使うが、これはこの天台教学からきている。醍醐とは牛乳から作った乳製品であることは明らかだが、それが実際に何であり、どのような作り方かということは、現在では不明となっている。チーズ、ヨーグルト、熟成バターなどと諸説ある。ここでは、それが熟成バターだと仮定して記した)。

まさに知るべきである。以上述べた太陽が照らすことの喩えは『華厳経』に記されており、乳製品の味の喩えは『涅槃経』にあるが、この二つの喩えは意味が同じなのである。『涅槃経』にはその他、三人の子供の喩えや、三種類の田畑の喩えや、三頭の馬の喩えなどがあるが、みな、まず大乗仏教の菩薩を先にして、次に声聞と縁覚の二乗および、後に凡夫と小乗の聖人を平等に教える。

問う:五味の喩えで五つに分別しているなら、なぜそこに同じ漸教があるのか。

答える:漸教は次第に悟りが深まるように導く教えという意味なので、同じ漸教と言っても、そこに程度の差がある。もし、優れた教えが説かれても、それがわからない人がいるならば、その教えは漸教ではなく頓教である。もし、優れた教えを理解できる人が、劣った教えを用いないならば、その劣った教えは漸教である。もし、優れた教えを用いて劣った教えを論破するならば、頓教と漸教が両方とも述べられているということになり、もし、劣った教えを用いて優れた教えを明らかにするならば、これは頓教と漸教が互いに補い合っているということになる。もし、『法華経』によって、劣った教えと優れた教えが統一されるならば、これは頓教と漸教が合わさったことである。したがって、『無量義経』に「教えに頓教と漸教の二つがあり、声聞と縁覚と菩薩の三つの道があり、声聞には四つの果(預流果、一来果、不還果、阿羅漢果)があって、どれも異なっている」とある。しかしそれらも以上のように一つになるのである。

問う:頓教と漸教が互いに補い合っているということとは何か。

答える:劣った教えを受けていた人が、優れた教えを聞くと、劣った教えばかり聞いてきたことを恥じて、優れた教えを求めるようになる。これは、頓教が劣った教えを導いたということである。また『大品般若経』に、釈迦の弟子である須菩提(しゅぼだい)が、釈迦に命じられて、菩薩に向かって説法をして、菩薩たちが大いに悟ったということは、漸教が優れた教えとして用いられた、ということである。