大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  16

『法華玄義』現代語訳  16

 

第四章 開合(かいごう)

七番共解の第四は、開合である。

(注:開合の「開」とは、教えの究極的真理を見抜いて明らかにすることである。隠された真理を明らかにすることなので、開くという意味の言葉を用いる。そして、究極的真理は本来一つなので、明らかにされた究極的真理は、一見全く異なったものに見える他の教えにも同様にある。「合」とは、その究極的真理において、さまざまな教えも結局は一つなのだ、ということを明らかにすることであり、一つに合わせるという意味の言葉が用いられているのである)。

五重玄義に、種々に分別して理解しやすくするための三種の開合がある。すなわち、五種と、十種と、譬喩の三種である。

 

第一節 五種

五種とは、事理、教行、因果、自行化他、説黙の五つのことである。

第一項 事理(注:「事」とは具体的な事象を指し、「理」とは抽象的な理法を指す)

名称を解釈すること(釈名)は、共通して事象と理法を論じることであり、体を顕わすこと(弁体)は、もっぱら理法を論じることであり、宗(明宗)と用(論用)は、ただ事象を論じることであり、教相は、事象と理法を分別することである。

第二項 教行(注:教えと、それに基づく修行を指す)

名称を解釈することは、共通して教えと修行を説くことであり、体を顕わすことは、教えでもなく修行でもなく、宗と用はただ修行だけであり、教相は、ただ教えについてのみである。

第三項 因果(注:「因」とは、悟りの原因となる教えや修行を指し、「果」とは、その教えや修行の結果である悟りを指す)

名称を解釈することは、共通して教えや修行と悟りを説くことであり、体を顕わすことは、教えや修行でもなく悟りでもなく、宗は自分自身が悟りを求めることにおける教えや修行や悟りのことであり、用は他を教化する教えや修行や悟りのことであり、教相は、以上のすべてを分別するのである。

第四項 自行化他(注:「自行(じぎょう)」とは自らの悟りを求めることであり、「化他(けた)」とは他の人々を教化することである)

名称を解釈することは、共通して自らの悟りを求めることと、他の人々を教化することを論じることであり、体は、自らの悟りを求めることとでもなく、他の人々を教化することでもなく、宗は自らの悟りを求めることであり、用は他の人々を教化することであり、教相は、自らの悟りを求めることと、他の人々を教化することを分別するのである。

第五項 説黙(注:「説(せつ)」とは、教えを音声として表わすことを指し、「黙(もく)」とは、音声を使わずに教えを示すことを指す)。

名称を解釈することは、共通して、教えを音声として表わすことと、音声を使わずに教えを示すことを論じ、体は、教えを音声として表わすことでもなく、音声を使わずに教えを示すことでもなく、宗は音声を使わずに教えを示すことであり、用は教えを音声として表わすことであり、教相は、教えを音声として表わすことと、音声を使わずに教えを示すことを分別する。

第二節 十種(注:十種類ある「三法」が五重玄義の五項目において、どのように述べられているか、ということである。まず、その十種の三法とは、三道・三識・三仏性・三涅槃・三菩提・三大乗・三身・三涅槃・三宝・三徳のことである。しかし、この十種は、後に詳しく述べられることであるので、ここでは一つ一つの説明はしない。そしてこの個所でも、最初の三道と最後の三徳だけが挙げられているのみである。さらに天台大師は、この十種は、その真理においては、三つの軌範という意味の「三軌(さんき)」に対応すると説き、まずこの三軌と五重玄義の五つの項目の対応について述べられる。この三軌も、後の段落で繰り返し詳しく説かれるが、真理そのものを指す「真性軌(しんしょうき)」と、その真理の智慧の働きを指す「観性軌(かんしょうき)」と、その智慧を成就させるすべての修行や教えを指す「資成軌(しじょうき)」の三つのことである)。

名称を解釈することは、総合して三軌を論じ、体と宗と用はそれぞれの真理において三軌に対応し、教相は三軌を分別する。したがって、次のように説くことができる。すなわち、名称を解釈することは、総合して三道を論じ、体と宗と用はそれぞれの真理において三道に対応し、教相は三道を分別する。同様に、最後の三徳についても、名称を解釈することは、総合して三徳を論じ、体と宗と用はそれぞれの真理において三徳に対応し、教相は三徳を分別するのである。

第三節 譬喩

たとえば、人間の体全体を人身(じんしん)と名づけても、その身体をさまざまに分別すれば、認識作用があり、生命があり、体温があり、また人間の姿を分別すれば、貴賤、賢愚そしてあらゆる身分の違いなどがある。したがって、名称とは、人間全体を人身と呼ぶようなものであり、体は人間の認識作用のようなものであり、宗とは生命のようなものであり、用は体温のようなものであり、教相は人間をさまざまな種類に分けるようなものである。