大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  18

『法華玄義』現代語訳  18

 

第六章 観心(かんじん)

七番共解の第六は、観心である(注:「観心」とは心を観察するという意味)。

同じく七番共解の標章・引証・生起・開合・料簡の五つにおいて、それぞれ観心が明らかにされているのである。

(注:ここまでの五項目では、五重玄義に対して、その五つの項目によって解説されてきたが、この観心では、これまでの五項目によって、観心における五重玄義の項目を見出すという形となっている)。

 

第一節 観心標章

心は、幻術師が作り出した炎のようなものである。ただ名称として表現できるだけである。これを名付けて「心」という。心があると言っても、色形があるわけではない。では、心などないと言っても、やはり想念は起きる。あるとかないとか言えないために、心を「妙」と名付けるのである。そして、この妙なる心の法則を「法」と名付ける。心の法則は本来、教えや修行ではなく、悟りでもない。しかし、理法として見るならば、これにより教えや修行や悟りを論じることができる。これを「蓮華」と名付ける。その時々の心が心を観じることによって、かえって他の人の心に真理を教えることができるのである。これを「経」とする。以上が釈名(名)である。

心には、本来、名称もなくまた名称がないわけでもない。心は生じることもなく滅びることもない。すなわち心とは不生不滅の実相(体)である。

最初に心を観察することが因である修行である。その観心が成就することが果である悟りである(宗)。

心を観察するならば、悪い感覚は起こることはない。これが観心の働き(用)である。

心から起るさまざまな思いは、同じようなものもあれば異なっているものもあるが、観心において、それぞれにふさわしい教えによって教化される。これが観心そのもの(教)である。以上、標章は終わる。

 

第二節 観心引証

大智度論(だいちどろん・大乗仏教の空思想の大成者である龍樹の代表的著作)』に、「五陰(ごおん・五蘊(ごうん)ともいう。認識が起こる過程を色・受・想・行・識の五つに分けたもの。色(しき)は、まず自分という主体がいて、その周りに認識すべきものや事柄があるという状態を指す。つまり自分という主体と主体以外のものとが相対しているという状態。次の受(じゅ)は、主体以外のものを感受しようとする心の動き。想(そう)は、感受したものが何であるか判断する心の動き。行(ぎょう)は、その判断によって生じる意志のこと。識(しき)は、ここまでの心の動きを認識すること。つまりここで認識を認識する)の第一を色と名づけ、残りの四つの心の動きを名(みょう)と名付ける」とある。したがって、心はただ名称として表現できるだけである。これが観心という名称(名)の経論の文による引証である。

『涅槃経』に、「正しく心の本性を観察することが最上の禅定である」とある。最上の禅定とは、第一義の禅定である。ここから、心が観心の正体(体)であることが明らかである。

『涅槃経』に、「心がある者は、みな最高の悟りを得る」とある。ここから、心が観心の目的(宗)であることが明らかである。

『遺教経』に、「心をひとつのところに制御すれば、すべての事象について論じることができる」とある。ここから、心が観心の働き(用)であることが明らかである。

大智度論』に、「三界に別の法はない。ただ心が作り出すだけである」とある(注:『大智度論』にあるとあるが、実際、『大智度論』には、似た内容の言葉はあるが、これと同じ言葉はない。また『華厳経』にも大変良く似た言葉があり、天台大師は『華厳経』からの引用として述べることもある)。心は地獄から天に至るまで、また心は凡夫から賢人、聖人と呼ばれる者まで作り出す。また心の動きそのものは言葉の本(もと)となる。すなわち、心をもって心を分別するのであるから、心が観心の教相(教)そのものである。

 

第三節 観心生起

心をもって心を観察することによって起るために、観心と名付けたのである(名)。そしてこの観察する心により、観察される心がある(体)。心が正しく観察されることによって解脱を得る(宗)。心の中の一部が解脱されることによって、他の心の部分も解脱されるようになる(用)。心の主体と、その主体から表わされた心が同時に起ること、あるいは片方だけ起ることなどを分別することは、教相である(教)。

 

第四節 観心開合

心は諸法の本であるので、心のすべての名称の総称である(名)。

心には三種類ある。「十二因縁(じゅうにいんねん・すべての在り方が生じる縁起を十二項目で表わしたもの)」によってその三種を分類すると以下の通りである。まず一つめは「煩悩の心」であり、十二因縁の無明・愛・取の三つが相当する。二つめは「苦果の心」であり、十二因縁の識・名色・六入・触・受・生・老死の七つが相当する。三つめは「業の心」であり、行・有の二つが相当する。しかし苦の心はそのまま法身であり、これが心の体(体)である。煩悩の心はそのまま悟りの智慧である般若であり、これが心の目的(宗)である。業の心がそのまま解脱となることが心の働き(用)である。このように、心を開いて三つに分別するのである。また十二因縁によって心の苦がどのように生じるか分別すれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の差別があり、反対に、心が悟りに向かってどのように寂滅するか分別すれば、声聞、縁覚、菩薩、そして仏の四つの聖者の区別がある。これらを教相(教)とし、開合を兼ねるのである。

 

第五節 観心料簡(注:観心に関する問答である。しかし、問いは一つだけであり、後の箇所は答えが占める)

問う:教学の理解で十分ではないか。なぜ煩わしく心を観察する必要があるのか。

答える:『大智度論』に「仏は教学を好む人には植物を喩えに用い、修行を好む人には人体を喩えに用いる」とあることと同じである。教学を好む人のためには、教理をもって解釈し、座禅を好む人のためには、観心の解釈を示す。

また、同じく『大智度論』には、四つの場合について次のように記している。「修行をして智慧を得ても、教えを聞かなければ実相を知ることができない。たとえば、暗闇の中で目を開いても、何も見えないようなものである。教えをよく聞いても、智慧がなければ実相を知ることはできない。たとえば、明るい場所に灯があっても、その灯に照らされることがないようなものである。教えをよく聞いて、かつ優れた智慧があれば、教えを受けるに値する。教えも聞かず、智慧もなければ、人であっても牛のようなものである」。ここでは、教理を聞くことと修行して智慧を得ることの両方を修めさせよとして、教義と観心を並べてあげるのである。

『百論(ひゃくろん・インドの空思想家である提婆(だいば)の著作)』に盲人と足なえの人が助け合って歩く喩えがあり、牟子(ぼうし・中国の思想家)も、説くことと行なうことの重要性を語っている。

また『華厳経』に「貧しい人が毎日他人の宝を数えても、何ら利益がない」とあることは、教理を聞いてばかりいる人を批判するものであり、『法華経』に、「まだ得ていないものをすでに得たと言い、まだ悟っていないものをすでに悟ったと言う」とあるのは、観心ばかりしている人を批判するものである。なぜならば、教理だけや観心だけということならば、風の中の灯が揺れ動いて物をはっきり照らさないようなものであり、少し学んだだけなのに、すぐにそれを口にすることを好み、自分の心を治めず、自分は正しいとして人を蔑み、間違った見解を増し加えてしまうのである。それは、刃物で自らを傷つけるようなものである。正しく理解しないのは、この観心を習わないためなのである。

また、観心だけを行なう人が、その心の状態でいいのだとし、すでに仏と等しいといい、全く経論を学ぼうとせずに高慢になるならば、これは松明を抱いて自ら焼かれるようなものである。正しく修行をしないのは、教えを聞くことをしないからである。

修行が欠けて霊的に貧しい状態にならないようにするためには、三観(さんがん・天台教学で重要な観心の方法。ここでは名前だけをあげているので説明はしない)を行なうべきである。学びが欠けた状態で高慢にならないようにするためには、六即(ろくそく・円教における六種の位。続いてこの説明となる①~⑥)を学ぶべきである。『法華経』に、「この世のあり方は常に変わらない」とあるのは、①「理即(りそく・真理そのものであるがそれに気づいていない状態)」であり、「過去の仏のもとにおいて、この『法華経』の一句をも聞いたことがある」とあるのは、②「名字即(みょうじそく・教えを聞いただけの状態)」であり、「深く信じて喜ぶ」とは、③「観行即(かんぎょうそく・教えを受けて、身をもって修行しようとする状態)」であり、「『法華経』を聞けば、すべての感覚器官はきよめられる」とあるのは、④「相似即(そうじそく・迷いから離れ、六根が清浄となり、真理に進んでいる状態)」である。「真実の智慧の中に安住する」とあるのは、⑤「分証即(ぶんしょうそく・完全ではないが真理と一体となり始めた状態。分真即ともいう)」であり、「ただ仏と仏だけが真実の姿を見極める」とあるのは、⑥「究竟即(くきょうそく・完全に真理と一体となった状態)」である。

このように、観心を行ない、内なる心を観察すれば、真理の財宝はそこにあるのである。正しく信じて教えを聞けば、高慢になることはない。智慧の目と明らかに聞く耳の徳を得ることができる。どうして、観心をし、かつ教えを理解するということをしないことがあろうか。