大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  21

『法華玄義』現代語訳  21

 

第二項 弁相(べんそう・四悉檀の各項目を解釈し説明する)

第一目 世界悉檀(せかいしっだん)について

世界悉檀の「世界」とはこの世の次元を表わすものである。それは車に喩えられる。車はさまざまな部品がそろって車となる。その部品の集まり以外に車はない。同じように、人とは、五陰(ごおん)である色(しき・まず自分という主体がいて、その周りに認識すべきものや事柄があるということ)と受(じゅ・自分という主体以外のものを感受しようとする心の動き)と想(そう・感受したものが何であるか判断する心の動き)と行(ぎょう・その判断によって次の行為や想念が起こる心の動き)と識(しき・それまでの心の動きを認識すること)の集まりによって成り立っているに過ぎない。人というものが別に独立して存在しているわけではない。

問う:もし人というものがいるのでないのならば、すべて真実を語る仏が、なぜ「私は迷いの世界である六道(ろくどう・六つの迷いの世界)にいる人々を見る」というのだろうか。ここから、まさに人というものがいると知られるのではないか。

答える:人とは、相対的な世界があるから存在するのであり、絶対的真理である第一義悉檀(だいいちぎしっだん)に属するのではない。

問う:では、第一義悉檀は真理の実相であるから、その他の世界悉檀と各各為人悉檀(かくかくいじんしっだん)と対治悉檀(たいじしっだん)は実相ではないというのか。

答える:それぞれ実相である。絶対的真理を「如如(にょにょ)」とか「法性(ほっしょう)」とかいうが、それは世界悉檀においては説かれず、第一義悉檀において説かれることである。人ということは、第一義悉檀においては説かれず、世界悉檀において説かれることである。上にあげた五陰や十二入(じゅうににゅう・十二処(じゅうにしょ)ともいう。人間の感覚器官である眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い・心のこと)と、その対象である色(しき・ここでは物質という意味)・声(しょう・音のこと)・香(こう・においのこと)・味(み)・触(そく・触覚のこと)・法(ほう・心に思い浮かんだすべてのことを指す)を合わせた十二項目を指す)や十八界(じゅうはっかい・十二入によって生じた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つを十二入に加えて十八としたもの)などの教えによってさまざまに分析できることを世界と名付けるのである(注:ここから、「世界」という言葉は仏教用語からきていることがわかる)。真理を知らない人々は、この世界において迷い、絶対的真理に達することはない。因縁などとは関係なく世界が絶対的に存在していると思ったり、間違った因縁によって世界というものを考えたりしている。仏は、このような人々の次元に対応して、わかりやすく、さまざまに分析した教えによって正しい因縁を説いて、この世において正しい見解に導くのである。このような教えを世界悉檀と名付けるのである。

 

第二目 各各為人悉檀(かくかくいじんしっだん)について

仏は、人の能力に応じて教えを説く。人々の能力はそれぞれ違いがあるので、同じ教えでも、ある人は聞いて理解できるが、ある人は理解できないものである。たとえば、人生は一度きりだ、と思って、悪い行ないをしている人に対しては、人というものは、過去の業によって生まれ、この世でさらに業を重ねるものなのだと教える。一方『阿含経』には、この世のすべては常に存在し続けると思っている人に対して、人はこの世で何も受けることはない、と説いている。このように、人によって違いがあり、その違いに応じて教えを説いて、信心を生じさせ、正しい道に歩ませるのである。このため、各各為人悉檀と名付けるのである。

 

第三目 対治悉檀(たいじしっだん)について

間違っている状態に対処するために教えはあるが、そもそもその教え自体は存在しないのである。たとえば、この世の物事に貪欲な者には、この世の物事はすべて汚れたものであると心に観察することを教え、怒りを起こす者には慈悲の心を実践することを教え、誤った考えに陥っている者には、すべては因縁によって生じていることを心に観察することを教える。悪病のような状態に対処するために、教えの薬を説いて人々に施すのである。このために、対治悉檀と名付けるのである。

 

第四目 第一義悉檀(だいいちぎしっだん)について

これには二種類ある。ひとつは「不可説」であり、もうひとつは「可説」である。

不可説、すなわち言葉にできない第一義とは、諸仏や縁覚や阿羅漢が得た悟りの真実の法である。『大智度論』には「言葉の思索はすでに尽き、心の想念もまた終わった。生まれることもなく滅びることもなく、その真理は火が消えたような状態そのものである。目に見えるあらゆる物事の働きを世界と名付け、働きに表われないものを第一義と名付ける」とある通りである。

また可説、すなわち言葉にできる第一義とは、『大智度論』に「真理を言葉に表現するならば、すべては真実であり(一切実)、すべては真実ではなく(一切不実)、すべては真実であり真実ではなく(一切亦実亦不実)、すべては真実でなく真実ではないことはない(一切非実非不実)ということを、すべての真実の姿(諸法実相・しょほうじっそう)と名付ける」とある通り、あらゆる経典の中で、仏はこの第一義悉檀の相として説くのである。これはまた、天台教学において、四門入実(しもんにゅうじつ・有門(うもん)・空門(くうもん)・亦有亦空門(やくうやくくうもん)・非有非空門(ひうひくうもん)の四つの教えから真実に入る方法を指す。この後も繰り返し述べられる用語である)を説くのも意味は同じである。したがって『中論』には「悟りに入る者のために、この四句を説くことは、優れた馬が鞭を打たれる前に鞭の影を見ただけで正しく走るようなものである」とあるのである。もしこの四句を見て、さらに心の中であれやこれやと考えるならば、それらはすべて意味のない思索である。そんなものがなぜ第一義なのであろうか。