大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 126

『法華玄義』現代語訳 126

 

g.四悉檀によって考察する。

第七に、四悉檀によって考察するとは次の通りである。

問う:十種類の三法および他のすべての説が、みな三軌ならば、ただまさに三軌のみとなるはずではないか。なぜいろいろな説を述べるのか。

答える:衆生の能力がさまざまであるので、その能力に従って説き、四悉檀の方便をもって導くのである。俗人に従うために異なるである(注:世界悉檀を指す)。便宜に応じるために異なり、対治によって異なり(注:対治悉檀を指す)、各人を道に入らせるために異なる(注:各各為人悉檀を指す。そしてこれに続いて四つ目の「第一義悉檀」が来るように思えるが、それは方便ではないので、対機説法ではなく、この問答では用いられない)。『荘子』に記されているように、猿が木の実を朝に四粒、夜に三粒与えられることに不満だったため、朝に三粒、夜に四粒与えて納得させたようなものである。また、幼子が乳を飲んではいけないときには、乳首に苦みを塗り、飲んで良くなればそれを洗い流すようなものである。巧みに導くために、その目に見える形は場合に応じる。千の車が通っても、その轍は全く同じようなものである。どうして一つということにこだわって疑うのか。

ここで共通して四悉檀を用いて、十法において妙と妙でないものを述べる。具体的に三軌を説いて、共に大乗を成就させる。大乗の中に明らかに三法とすべての法があって、それでも混乱しないのは、すなわち世界悉檀による。資成軌は智慧が発するのを助けて、それによって善を生じさせるために、為人悉檀である。観照軌は、惑を破り、諸悪を滅ぼすために、対治悉檀である。真理の本性の理法を第一義悉檀という。一定の能力のある衆生は、すべて大乗の名をもって説けば、四悉檀のそれぞれの利益を得る。

三徳を説いて大涅槃とする。たとえば点を三つ書いて、その各点の位置が上下しても縦がなく、裏返しても横がなく、一つとして互いに混乱しない。三であるまま離れない。これは世界悉檀である。善は災いや欠点が侵すことのできないものなので、煩悩の外に出る。このために解脱は為人悉檀である。般若は、金剛に当たるものはすべて粉砕されることに喩えられる。これは対治悉檀である。法身は第一義である。一定の能力のある衆生は、三徳の名を聞けば、四悉檀の利益を得る。このように初めのところを挙げ、最後のところを挙げたので、その中間は推して知るべきである。

次に妙と妙でないものを明らかにする。『大智度論』に「三悉檀は世諦であり、心の行じるところであるので、破るべきであり壊すべきである。第一義悉檀は心の行じるところではない。諸仏聖人の心に得るところの教えであれば、破るべきでも壊すべきでもない」とある。これは真諦である。

もしそうならば、この四悉檀は、俗諦と真諦が収めるところとなる。しかしさらに中道がある。どのように収めるか。もし中道を収めなければ、蔵教と通教の意義に過ぎない。その四悉檀は麁となる。俗諦は有を論じ、真諦は無を論じるとすれば、それはそれぞれ別々のものなので、第一義悉檀のない三悉檀の心の行じるところとなり、破るべきであり壊すべきである。中道第一義諦は、有でもなく無でもない。有と無は不二であり、別々のものではない。異なるものがないということは真諦である。前の三悉檀に通じて言えることは、それらはただ『法華経』にある化城である。化城は実在ではないので、破るべきであり壊すべきである。壊すべきならば麁である。中道は異なるものがない。また進んで宝の場所に至る。行き過ぎることもなく、滅びるところもない。このために破るべきでも壊すべきでもない。これを妙という。

他の経典に中道第一義諦を説くところは、『法華経』と異なるところがない。ただ他の経典は、阿羅漢の得る悟りが混じっていて、第一義悉檀とするのみである。このために妙とはいわない。『法華経』は方便を捨てて、ただ円実の四悉檀があるのみである。このために妙とする。もし三悉檀と第一義悉檀がそろっていなければ、また麁とする。もし各悉檀に第一義悉檀が含まれるならば、妙とする。

五品弟子位は名字即の四悉檀であり、六根清浄位は相似即の四悉檀であり、初住から等覚までは分真即の四悉檀であり、妙覚は究竟即の四悉檀である。このために妙とする。

以上、境妙・智妙・行妙・位妙・三法妙の五項目において妙を明らかにした。因から果に至るまで、自らの行の妙を述べた。十妙のうち、半分が終わったことになる。

(注:以上までが『法華玄義』五巻であるので、ちょうどここで半分となる)。