大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  22

『法華玄義』現代語訳  22

 

私、灌頂が十五の段落(①~⑮)を設けて、四悉檀についての理解の助けになることを目的として述べる。

(注:ここから、筆者の灌頂の記述となる)。

①事象的なことと理法的なことを説いて、聞く者を喜ばすのは、世界悉檀である。各人の能力が違うのは、過去世に積んだ精進の違いであるから、それぞれにその能力を引き出すのが各各為人悉檀である。その過去世からの積み重ねに、この世において悪を積まないようにさせるのが、対治悉檀である。真理を悟ることが第一義悉檀である。

②この世の常識に合わせて、仮の存在とその実体を並べて説くのが世界悉檀である。『大智度論』に「各部品が集まったのが車であり、五陰(ごおん)が集まったのが人である」とある通りである。また、人とは仮の存在であると説くのが各各為人悉檀である。同じく「あるいは人は存在すると説き、あるいは人は存在しないと説く」とある通りである。また、単に実体を説くのが、対治悉檀である。同じく「誤った考えに応じての教えは確かにあるが、その教えの実体には永遠の本性はない」とある通りである。また、仮の存在も実体も共に否定するのが第一義悉檀である。同じく「言葉は断たれ、心の動きも終わる」とある通りである。

③この世の常識に合わせて、因縁が合わさることによって、正しく悟りに向かっている者と、間違った道に進んでいる者とがいるとするのが世界悉檀である。各人の過去世に精進した良い因縁によって正しく悟りに向かわせるのが各各為人悉檀である。各人の過去世の悪しき因縁によって誤りが生じていることを説くのが対治悉檀である。正しく悟りに向かっている人も、間違った道に進んでいる人も、究極的真理においては存在しないと説くのが第一義悉檀である。

④認識作用である五陰(色・受・想・行・識)が人そのものであるが、世の常識に合わせて、その五陰それぞれが別々の要素だとするのが世界悉檀である。各人の正しい五陰によって正しい認識作用を生じるということが各各為人悉檀である。正しい五陰によって悪い認識作用を排除するのが対治悉檀である。悟って真理に立った五陰が第一義悉檀である。

⑤正しい事柄と悪い事柄を世の常識に合わせて分けるのが世界悉檀である。正しい事柄を説いて正しい事柄を生じさせるのが各各為人悉檀である。正しい事柄を説いて悪い事柄を排除するのが対治悉檀である。真理は正しくも悪くもないということが第一義悉檀である。

問う:人間というものは、正しいことにも間違ったことにも通じるものである。なぜ正しいことを生じさせることだけが、人のための各各為人悉檀であるのか。

答える:真理に対して正しい事柄を生じさせることが人としての生きる道である。この人としての生きる道に導くので各各為人悉檀というのである。

問う:人のための各各為人悉檀が、正しいことを説いているだけであるならば、なぜさらにまた、悪を断じることを説く対治悉檀を設けねばならないのか。

答える:各各為人悉檀で説かれる正しいことを説くということの中には、これから生じるであろう悪を生じさせないということも含まれる。しかし、各各為人悉檀では、正しいことを生じさせることを中心として説くので、悪を生じさせないということは説かれない。一方、対治悉檀では、すでに生じている悪を断じることを中心として説く。そこには、これから正しいことを生じさせるということも含まれるのである。

⑥過去の世・現在の世・未来の世の三世があると説くのが世界悉檀である。悟りに向かって進む未来の世について説くのが各各為人悉檀である。現在の世における誤りを正すのが対治悉檀である。真理においては、過去・現在・未来はないと説くのが第一義悉檀である。

⑦小乗の最初の位に、七賢位(しちけんい)がある(注:「七賢位」と「七聖位」については、後に述べられる「位妙」の中でも詳しく述べられる)。七賢位とは、第一に五停心(ごていしん・禅定に入る前の心を落ち着かせる段階の観法。欲望の対象の実体は汚れたものだと観じて欲望を消す「不浄観」、怒りの対象に対して慈悲の心を起こして怒りを消す「慈悲観」、自分を中心とした誤った思考を、因縁の法則を観じることによって正す「因縁観」、自分というものは、実はさまざまな要素が組み合わさっただけのものであり、実体のないものなのだと観じて我執を消す「念仏観」、呼吸を数えることによって心を集中させる「数息観(すそくかん)」の五つ)、第二に別相念処(べっそうねんじょ・身体、感覚、心、すべての実在を別々に観じ、身体は不浄であり、感覚は苦であり、心は無常であり、あらゆる存在は中心的実体がないと観じること)、第三に総相念処(そうそうねんじょ・身体、感覚、心、すべての実在の四つを総合的に観じること)、第四に煗法(なんぽう・煩悩を断ち切る働きが次第に生じて来た段階。煗は暖かいという意味)、第五に頂法(ちょうぼう・心の視界が開け、山の頂上から見渡すかのような境地になること)」、第六に忍法(にんほう・修行を忍び悟りの楽を求める境地)、第七に世第一法(せだいいちほう・迷いの満ちたこの世の次元では最高の教えを悟ったという意味)の七つである。

この七賢位の中の五停心・別相念処・総相念処の三つは、外界に真理を求める者なので外凡(げぼん)といい、煗法・頂法・忍法・世第一法の四つは、自らの内に真理を求める者なので内凡(ないぼん)という。共にまだ悟りに達していない凡夫(ぼんふ)であるので外凡・内凡と呼ぶ。世の常識に従って、この内凡と外凡が別々であるとするのが、世界悉檀である。煗法・頂法は、各人が修行に進む段階なので、各各為人悉檀である。別相念処・総相念処は、誤った心を正すので対治悉檀である。そして、世第一法は最も悟りに近い段階なので、第一義悉檀である。

⑧七賢位は、修行中の凡夫の段階であるが、その次の段階が、聖人の段階である七聖位(しちしょうい)となる。さらにこの位に三つある。第一に見道(けんどう・四諦の真理の教えを明瞭に見る位)、第二に修道(しゅどう・四諦の真理をあらゆる事例に当てはめて修す位)、第三に無学道(むがく・もはや学ぶべきものがなくなった位。これに対して見道と修道の二つは有学(うがく)という)の三つである。

この三つの位に対して、見道と修道が異なっているとするのが世界悉檀である。見道は、各人が悟りの境地を明瞭にしている状態なので各各為人悉檀である。修道は、真理に合致しないものに応じてこれを正し続けることなので対治悉檀である。そして、究極的段階である無学道は第一義悉檀である。

⑨有学でも無学でもない凡夫は世界悉檀であり、有学の見道は各各為人悉檀であり、有学の修道は対治悉檀であり、無学道は第一義悉檀である。