大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  25

『法華玄義』現代語訳  25

 

第五項 起観教(観心と教えを起こすことについて四悉檀を解釈する)

 

第一目 観心を起こす起観について

玄妙な理法は観心によらなければ明らかにすることはできない。その真理を明らかにする観心は、四悉檀によらなければ起こらないのである。三観(さんがん)の最初の観心である従仮入空観(じゅうけにっくうかん・相対的なこの世のものを通して空を観じること)を行なう時には、まず正しく因縁の真理を感じるのである。この観心は、その対象と内なる迷う心が複雑に対峙しているので、正しい因縁を観じることは難しい。そのため、熱心に行なおうとする意志を持たなければ、結果は現われない。必ず昼夜を問わず喜んで努めるべきである。これが、世界悉檀における初めの観心というのである。

従仮入空観を行なうとするならば、各各為人悉檀の方法を知らなければならない。観心は、止(し・乱れた心を収めること)と観(かん・心のうちに真理を観察すること)に分けられるが、観を行なうときは、七覚支(しちかくし・観心の際の心の働きを七つに分析したもの)の中の①択法(ちゃくほう・ふさわしい教えを選択すること)と②精進(しょうじん・努め励むこと)と③喜(き・悟りを求める喜び)の三覚分(さんかくぶん・七覚支の中の三つという意味)を用いるべきである。そして止を行なうときは、④除(じょ・心身の重さの感覚を取り除くこと。そうすれば軽い感覚になるので「軽安(けいあん)」ともいう)と⑤捨(しゃ・執着を捨てること)と⑥定(じょう・精神統一のこと)の三覚分を用いるべきである。そして、⑦念(ねん・心に次々と思い浮かぶことを観察すること)は、止と観の両方に通じる。このように行なえば、各人の状態に応じた観心を行なうことができるのである。

もし心が浮いたり沈んだりした場合は、対治悉檀を行なうべきである。心が沈む場合、⑦念と①択法と②精進と③喜をもってこれを修正する。逆に、もし心が浮つく場合は、⑦念と⑤捨と④除と⑥定をもってこれを修正する。このように、もしよく各各為人悉檀を行なえば、確実に修行の成果は上がり、もしよく対治悉檀を行なえば、煩悩は消えて行くのである。

この七覚支の各項目の中に自らを失い、観心を進めて行けば、真理の次元が開けるということが第一義悉檀であり、そうして第一義である真理を見るのである。

以上のことを、四悉檀を用いて三観の第一である従仮入空観を起こし、三智(さんち・悟りの智慧の段階を三つに分けたもの)の第一である一切智(いっさいち・すべての実在についての正しい智慧)を成就し、三眼の第一である慧眼(えげん・空を観じる智慧の眼)を開くのである。

また、三観の第二である従空入仮観(じゅうくうにっけかん・空観によって否定されたこの世のすべてに対して、空という在り方によってそれらの存在を認める観心)に対して、四悉檀を用いて行なえば、三智の第二である道種智(どうしゅち・すべての実在をそのまま真理の姿として知る智慧)を成就し、三眼の第二である法眼(ほうげん・人々を導くことのできる智慧の眼)を開くということは以上述べたことと同様である。

また、三観の第三である中道第一義観(ちゅうどうだいいちぎかん・前の二つの観心の両方にも偏らない観心)に対して、四悉檀を用いて行なえば、三智の第三である一切種智(いっさいしゅち・すべての実在を空でもなく存在として認めるのでもない智慧)を成就し、三眼の第三である仏眼(ぶつげん・悟りに基づく智慧の眼)を開くということは以上述べたことと同様である。

また、一心三観(いっしんさんがん・三観を順番に行なうのではなく、ひとつとして観じる天台教学における究極的観心)についても同様である。