大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  24

『法華玄義』現代語訳  24

 

(注:これより再び天台大師の講述となる)。

 

第三項 釈成(四随によって四悉檀の解釈を深める)

四悉檀は龍樹の『大智度論』の所説であり、四随(しずい)は『禅の経典』に記されている仏の教えである。ここで、この仏の教えをもって『大智度論』の四悉檀を解釈すれば、さらにその意味が明らかになるのである。四随とは、随楽欲(ずいぎょうよく)・随便宜(ずいべんぎ)・随対治(ずいたいじ)・随第一義(ずいだいいちぎ)の四つである。

随楽欲の楽欲とは、因に従ってつけられた名称であり、世界悉檀の世界とは果に従ってつけられた名称である。『大智度論』には「すべての善悪は欲をその本としている」とあり、『維摩経』には「先に欲を鉤(かぎ)として引き、その後、仏の道に入らせる」とある。『禅の経典』は、修行である因を行じる相を挙げているのであり、『大智度論』はその修行の果を得る相を挙げているのである。このように、随楽欲と世界悉檀は対応する。

(注:『禅の経典』とあるが、どの経典であるかは不明である。また、「楽欲」の「楽」は、安楽という意味ではなく、「願う」という意味である。つまり、「楽欲」は「願って欲する」という意味である。ここにおいては、修行して悟りを得たいという願いと意欲を指す)。

随便宜の便宜とは、「適した方法」という意味であり、したがって随便宜は、修行する者の状態に適した方法のことである。四悉檀の各各為人悉檀は、仏の教化の対象である修行者の能力を判断する方法のことである。『大智度論』に「同じ教えでも聴いて理解する者と理解できない者がいる」とある通りである。その方法が適していれば聴いて理解でき、適していなければ理解できないのである。たとえば、鍛冶を職業とする者は、金づちなどで回数をいつも打っているので、もし観心を教えるならば、息を数える数息観(すそくかん)が適しており、洗濯を職業としている者にもし観心を教えるならば、欲望の対象の実体はすべて汚れているという不浄観(ふじょうかん)が適している。仏の教えである経典では、その教化の対象である修行者の能力に応じた方法があげられ、教化される側である経典解釈者の記した論書では、教主である仏の智慧の働きがあげられるのである。その他の対治悉檀・第一義悉檀における経典と論書の意味も同じである。

 

第四項 対諦(四諦によって四悉檀の解釈を深める)

四諦と四悉檀を比較することにおいては、すでに灌頂の解釈の十五項目ある中の十五番目の項で、一つ一つの四諦の四つの項目に、四悉檀を対応させることによって述べた。さらに四種類の四諦ある。それは、生滅(しょうめつ)の四諦・無生(むしょう)の四諦・無量(むりょう)の四諦・無作(むさ)の四諦の四つである。

生滅の四諦とは、人間を含めたすべてのものは生滅を繰り返しており、生滅するものに執着しないことを説くものであり、無生の四諦とは、本来すべてのものは生まれもせず滅びることもないことを説くものであり、無量の四諦とは、すべての実在はもともと生じることのない真理から生じたものであり、数のない真理から生じたので、その教えも数限りなく無量であるということであり、無作の四諦とは、すべての実在はそのままで真理そのものであり、究極的な悟りに立つならば、迷いもなく悟りもなく、教えもなく修行もないということである。そして、前で述べられたように、この四つの四諦の中の各四つの項目に、四悉檀を対応させることができる。また、総論的に見るならば、生滅の四諦は世界悉檀に対応し、無生の四諦は各各為人悉檀に対応し、無量の四諦は対治悉檀に対応し、無作の四諦は第一義悉檀に対応する。

(注:「四諦」は歴史的釈迦の実際に説いた教えであり、大乗仏教以前の基本的な教えである。しかし、実際の「四諦」は一つであり、天台大師のあげる四種類の「四諦」は実際に釈迦は説いていない。この四種類の中で言うならば、「生滅の四諦」だけが実際に歴史的釈迦の説いた「四諦」となり、他の三つは大乗仏教における創作的教義となる)。