大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  37

『法華玄義』現代語訳  37

 

第四節 正しく解釈する

(注:ここから、釈名の本論とも言うべき、天台大師の解釈が記されることとなる。それは「妙」「法」「蓮華」「経」の四項目である。前の「第二節 前後を定める」においては、「妙」よりも「法」を先に述べるべきであることが記されていたが、それはあくまでも詳細に述べられる際のことであって、概略的には、やはり「妙」が先にここで述べられる。なお、「蓮華」と「経」については、かなり後に述べられることになり、その二つは、こことは異なった流れの中での記述となる。そのため、ここでは「妙」と「法」について、概略的に、そしてそれに続いて詳細に記されることになる。このように「妙」については、ここでまず概略的に述べられるわけだが、それに続くべき「妙」についての詳細は、「法」の後、それもかなり後になって述べられることになる。しかしまたそこにも、まず「妙」について概略的に述べるという項目があり、そこでは、『法華玄義』の心臓部とも言える「絶待妙(ぜつだいみょう)」と「相待妙(そうだいみょう)」が説かれることになる)。

 

第一項 概略的に述べる

第一目 妙について

次に、『法華経』の名称について正しく解釈するにあたって、まず概略的に説き明かすことと、詳細に説き明かすことの大きく分けて二つの項目を立てる。まず、概略的に、光宅寺法雲の立てた「因」と「果」の「正体が広い」、「段階が高い」、「働きが優れている」というそれぞれ三つの項目によって、正しく妙の意義を明らかにする。

◎十法界を用いる(前の法雲の主張について述べられていた箇所と同様、ここでも因の三つと果の三つの合計六種となる)。

○因の正体が広い

十法界の一法界に他の九法界を具すことが、正しく「因の正体が広い」ということである。

(注:天台教学において、「具」「即」「互」「融」「円」という言葉は非常に重要である。真理は絶対的な次元のものなので、この世の相対的な言葉では表現できない。光宅寺法雲は、絶対的な「妙」ということを、「麁」という言葉と対立させることによって表現しようとしたが、それは根本的に誤りである。絶対的真理の次元においては、相対するものはない。そのため、天台大師は絶対的真理を、「具する」「即ち」「互いに」「円融(えんゆう)」「相即(そうそく)」という言葉によって、互いに含まれる、互いに同じことである、互いに具備している、互いに融合するなどの概念によって表現しているのである。

「十法界」は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の迷いの六つの世界と、そこから解脱した声聞、縁覚、菩薩、仏の四つの世界を加えた十種の世界のことである。これは、人間の法界そのものを指し、決して人間が犬に生まれ変わったり、阿修羅に生まれ変わったりすることをいうのではなく、それに象徴される霊的状態を表わしているのである。したがって、「一法界に九法界を具す」とは、一つの法界に他の九つの法界が互いにそのまま具備されているということであり、異なることはない。これを「十界互具(じゅっかいごぐ)」といい、天台教学の基礎をなす用語の一つである)。

○因の段階が高い

この九法界は即ち仏法界であることが、正しく「因の段階が高い」ということである。

(注:『法華経』の前半である「迹門(しゃくもん)」の主題は、誰でも仏になることができるという「一仏乗(いちぶつじょう)」である。ではなぜ、誰でも仏になることができるのか。その理由が、人間の霊的状態がどのような段階であろうとも、そこに「仏法界」がすでに具備されているからである。これがまさに「妙」なのである)。

○因の働きが優れている

この十法界は、空に他ならないので、即空(そくくう)であり、空という在り方によって明らかに存在しているので、即仮(そくけ)であり、究極的な姿は空という言葉でも仮という言葉でも限定できないものなので、即中(そくちゅう)である。このことが、正しく「因の働きが優れている」ということである。

(注:「空」「仮」「中」を「三諦(さんたい)」といい、究極的には、この三つは互いに一つであるということを「円融の三諦」という)。

一つをあげても、そこに他の三つが含まれており、三つをあげることによって一つについて説くこととなる。それぞれ異なるものではない。また並列的なものでもない。また単なる一つということでもないので、妙というのである。

次に果の「正体が広い」、「段階が高い」、「働きが優れている」という、妙についての三つの項目について述べる。

○果の正体が広い

悟り(=果)の正体はすべてのところに偏在することが、正しく「果の正体が広い」ということである。

○果の段階が高い

仏は、測ることもできないほど過去に悟りを開いて仏となり、これからも測ることのできないほどの歳月を仏として存在し続けることが、正しく「果の段階が高い」ということである。

○果の働きが優れている

このように、仏は永遠の昔から永遠の未来にかけて変わらず悟りを開いた仏として存在するのであるが、過去現在未来に縛られている人々を導くために、過去仏、現在仏、未来仏のあらゆる姿となって人々を導く。このことが、「果の働きが優れている」というのである。

以上が『法華経』の因と果の①~⑥の六つの意義が、他の経典とは異なっていることである。このために妙というのである。

◎五味の教えを用いる

次に、五味(ごみ)の教判を用いて因と果について述べる。

乳味に分類される経典は『華厳経』であるが、その中には、四教における円教と別教が含まれており、その円教の因と果は、その正体が広く、その段階は高く、その働きは優れている。しかし、別教の因と果は、その正体が狭く、その段階は低く、その働きは劣っているので、すなわち、一麁一妙である。

酪味に分類される経典は、四教における三蔵教であり、ただその因と果は、その正体が狭く、その段階は低く、その働きは劣っており、麁だけ(=但麁)であり妙はない。

生蘇味に分類される経典は、四教においては、四教すべてを兼ね備えているので、三蔵教と通教と別教に相当する経典の因と果は、その正体が狭く、その段階は低く、その働きは劣っており、円教に相当する経典の因と果は、その正体が広く、その段階は高く、その働きは優れている。すなわち、三麁一妙である。

熟蘇味に分類される経典は、四教においては、通教と別教と円教であり、通教と別教に相当する経典の因と果は、その正体が狭く、その段階は低く、その働きは劣っており、円教に相当する経典の因と果は、その正体が広く、その段階は高く、その働きは優れている。すなわち、二麁一妙である。

醍醐味に分類される経典は、四教においては円教であり、その経典の因と果は、その正体が広く、その段階は高く、その働きは優れている。すなわち、妙だけ(=但妙)であり麁はない。ただ、ここで注意したいことは、醍醐味に分類される経典で説く真理は絶対的な妙因妙果であり、麁と相対する妙ではない。その次元から見れば、他の経典にも妙因妙果があることになるので異なることはなく、それでこそ妙というのである。

◎観心を用いる

次に、観心(かんじん・心を観察する行)を用いて、正体の広狭、段階の高低、働きの優劣について述べる。

心に己心(こしん・自己の心)と衆生心(しゅじょうしん・自己の枠を外した一般的な人の心)と仏心(ぶっしん)の三つがある。もし、己心のみを観心し、衆生心と仏心を具備しない観心ならば、その観心の正体は狭く、具備するならば広い。もし、己心と仏心が等しくなければ、その観心の段階は低く、もし等しければ高い。もし己心が即空(そっくう)であると観心し、衆生心が即仮(そっけ・空という在り方においてあるということ)であると観心し、仏心が即中(そくちゅう・空でもなく仮でもないと観察すること)であると観心しないならば、その観心の働きは劣っており、そのように観心するならば優れている。

◎六即位を用いる

また次に、十法界の中の一つの法界において、六即位(ろくそくい・円教において説かれる悟りに向かう六つの段階)に通じるならば、その正体は広く、その段階は高く、その働きは優れているのである。

◎まとめ

最初に十法界を用いたことは、理が統一されていることであり、五味を用いたことは教が統一されていることであり、観心を用いたことは行が統一されていることである。次に六即位を用いたことは人が統一されていることである。

以上、妙の意義を概略して述べた。

概略的に述べたので、「妙」を先にしたが、詳細に説くならば、前に述べたように、先に「法」、後に「妙」としなければならない。

(注:後の「第三項 妙について述べる」の最初の「第一目」として、妙について「概略的に述べる」という箇所があり、表面的に見れば、重複しているようであるが、その箇所には、「Ⅰ.相待妙」「Ⅱ.絶待妙」の二つのことが記されている。この「相待妙」と「絶待妙」の教えは、『法華玄義』の最初から最後まで貫く、いわば思想的心臓部分である。本来ならもっと最初の箇所に述べて、各項目に具体的に言葉として用いられねばならないとも考えられるが、「妙」という言葉があるために、釈名の妙の段の最初に置いて、それ以降、用いるようにしたのであろう。したがって、これは単なる重複ではない。なお、この「相待妙」と「絶待妙」が説かれたことに続く「第二目 詳細に述べる」が、『法華玄義』で最も長い「迹門の十妙」の箇所となる)。