大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  40

『法華玄義』現代語訳  40

 

次に、十如是について権実を判断する。

光宅寺法雲は、十如是の前の五つの如是を権として、凡夫に属することだとしている。そして、次の四つの如是を実として、悟りを開いた聖人に属することだとしている。最後の一つの如是が権と実を結ぶものとしている。『法華経』の「方便品」の詩偈の箇所にある「このように仏が悟り得た大いなる果報によって明らかにされたあらゆる本性や姿の意義」という言葉を引用している。つまり「このような大いなる果報」であるために、実だというのである。そして、「あらゆる本性や姿」であるために、権だとするのである。

しかし、それはおそらく正しくないであろう。「大いなる」という言葉の意味には「大」と「多」と「勝(しょう)」の三つの意味がある。もし「大」が実ならば、同じく「多」も「勝」も実としなければならないだろう。「あらゆる」という言葉は、当然「多」という意味ではないか。もし権は凡夫に属することだとするならば、凡夫にはなぜ実がないのか。もし実は聖人に属するものだとするならば、聖人にはなぜ権がないのか。このように制限を加えることは、真理の意義を明らかにすることはではない。

また河北の論師(誰を指すかは不明)は、前の五つ如是を権とし、後の五つの如是」実としている。これはただの人間的な思いからの解釈である。

ここで正しく権実を述べるならば、十如是をもって十法界(じっぽうかい)を解釈するのである。十法界は、迷いの六道(ろくどう)と、悟りの次元である四聖(ししょう)のことである。これらをすべて法界と名付ける理由は三つ(①~③)ある。

①十の数をもって、すべての法界を収めるのであり、法界の範囲外に法はない。主体とその対象を合わせて名付けるので、十法界というのである。

②また、この十種の法は、それぞれ違っている。因と果も異なっており、聖人とそれ以外の人々の区別があるので、界という言葉を用いるのである。

③さらにこの十種は法界として、すべての法を収めている。すべての法であるから、それは地獄界にまで及び、地獄という範囲を越えない。すべての法の本体は理法であり、事象的な対象世界に限定されることがないので、法界というのである。地獄界ばかりではなく、仏界もまた同様である。十法界のそれぞれを、法界という在り方で見るならば、その主体は、その対象を通して表わされるので、空としての法界である。また十法界がそれぞれ異なっていると見れば、それは仮(け)としての法界である。そして十法界がそのまま法界であると見れば、それは中(ちゅう)としての法界である。わかりやすくするために、以上のように区別して述べた。一言でまとめるならば、空はそのままで仮であり中であり、この一、二、三の区別がない、ということは以前述べた通りである。