大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  39

『法華玄義』現代語訳  39

 

第二項 法について詳細に述べる

(注:法について概略的に述べられたので、それに続いて、法について詳細に述べられる)。

第一目 衆生法について

さらに詳しく衆生法・仏法・心法の三法について述べる。まず衆生法について述べる。衆生法は、あらゆる修行と悟り、およびすべての教えに共通することであり、仏法は悟りについてのことであり、心法は修行の本体のこととなる。

まず、衆生法を述べるにあたって、まず、Ⅰ.法数(ほっすう・法について数箇条に分析して述べられたもの)をあげる。次に、Ⅱ.法相(ほっそう・法の内容)を述べる。

 

Ⅰ.法数

法について数箇条に分析して論じることは、あらゆる経典や論書に多い。たとえば「一」といえば、法がその一つに集約されるということである。それは「心(しん)」である。「すべての法は、ただ心が作り出すのであり、その他のことはない」とある通りである(注:「七番共解」の「観心」の箇所でもこの言葉が引用されており、そこでは『大智度論』にあると記されているが、実際、『大智度論』には、似た内容の言葉はあるが、これと同じ言葉はない。また『華厳経』にも大変良く似た言葉がある)。そして「二」といえば、法がその二つに集約されるということである。それは「名(みょう)」と「色(しき)」のことである。名とは名称のことであり、色とはその名称の対象となるものであり、いわゆるすべての法はこの名と色以外にないことになる。また「三」といえば、すべての法がその三つに集約されるということである。それは「命(めい)」と「識(しき)」と「煖(なん)」である。これは人間の身体を構成する三つの要素の「生命」と「心」と「体温」のことである。このように、次第に増えて法数をあげれば百にも千にもなる。

法華経』における法数は、「十」をもってすべての実在を集約する。それは「方便品」に、「それ(仏が見極めていること)は、あらゆる存在の如是相(にょぜそう)、如是性(にょぜしょう)、如是体(にょぜたい)、如是力(にょぜりき)、如是作(にょぜさ)、如是因(にょぜいん)、如是縁(にょぜえん)、如是果(にょぜか)、如是報(にょぜほう)、如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)である」とある通りである。南嶽慧思は、この文にみな「如」という言葉があるので、「十如(じゅうにょ)」と名付け、天台大師は「この文の意味によって読めば、この十如を三通りに読むことができる」という。

(注:ここから、天台教学の重要な教理である「十如是(じゅうにょぜ)の三転読(さんてんどく)」の箇所となるが、それに先立って、そもそも『法華経』におけるこの「十如是」の意味について見てみたい。

法華経』のサンスクリット原本から直接日本語訳した「岩波文庫」の『法華経』上巻69頁には、上に引用された「方便品」の「十如是」の箇所は次のようにある。「すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つのか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ」。ここには確かに十種類の「いかなる」という言葉が見られるが、この後、一つ一つの「いかなるもの」についての説明は『法華経』にはない。言い換えるならば、この箇所は、たとえば、「私はあの人について、どのような家の出身であるのか、どのような学歴を持っているのか、どのような性格なのか、どのような所に住んでいるのか、どのような仕事をしているのか、どのような趣味を持っているのか、などについてよく知っているのだ」という「どのような」と全く同じである。つまり、この箇所は、仏はすべての実在について、そのあらゆる面についてよく知っているのだ、ということを記しているだけで、それ以上の意味は全くない。しかし、そのような箇所の言葉に、天台大師はその漢文を三種類に読み替えてまで深い意味を読み取れるとしている。これは、『法華経』の言葉の解説の範囲を越えて、その言葉を用いて、自分の思想を述べているわけである。喩えるならば、『法華経』の言葉を器として用いて、その器に自分の悟りの体験からの思想を盛っているのである。仏教学では、「十如是」は、訳者である鳩摩羅什の創作だと言うが、鳩摩羅什も、天台大師ほどの意味をここに見出しているわけではないはずである)。

その「三転」とは、一つめは、「是相如、是性如、そして是報如」という読み方であり、二つめは、「如是相、如是性、そして如是報」という読み方であり、三つめは、「相如是、性如是、そして報如是」という読み方である。

一つめの「是相如、是性如」という読み方は、「真実の相は如(にょ)であり、真実の本性は如である」と読み、真実の相や性などは、みな如であるということになって、不異という意味を持つ。これは、すべては真実において同じく空である、つまり即空(そっくう)という意味である。

二つめの「如是相・如是性」という読み方は、「真実の如くの相であり、真実の如くの本性である」と読み、もともと空であっても、それが「如くの」と言い表せる形として表われたものに名称をつけたものを指すことになる。これはそれぞれが異なるものとなり、そのまま仮(け)である、つまり即仮(そっけ)という意味である。

三つめの「相如是・性如是」という読み方は、「相は真実の如くであり、本性は真実の如くである」と読み、すべては、空にも仮にも偏らない中道(ちゅうどう)の実相の真実のようであるということであり、即中(そくちゅう)という意味である。

この空・仮・中は、本来分けることのできないものであるが、わかりやすくするために分けて述べる。意味をそのまま言葉にすれば、空は即仮、即中である。「如(にょ)」という言葉を用いて空について述べれば、一つの空はすべての十如是の空である。「如くの」という言葉のように、具体的なものを指し示す言葉として表現すれば、一つの仮はすべての十如是の仮である。「是(ぜ・真実の)」という言葉を用いて中を述べれば、一つの中はすべての十如是の中である。

一つ二つ三つではないが、同時に一つ二つ三つであり、順番に生じたものでもなく、並列的に存在するものでもない。これを実相と名付ける。これはただ仏と仏だけがこの事実を見極めるのである。真実を表わす十種にすべてが収まっているのである。このように、意味を明らかにするために、三種類の読み方を設けて分析した。また、『法華経』の言葉によるならば、この「方便品」の詩偈の部分に、「真実の如くの大果報によって明らかにされた種々の本性や相の意義」とあるのを見るとよい。