大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  41

『法華玄義』現代語訳  41

 

Ⅱ.法相

この十法界の一つの一法界に十如是が備わっているので、十法界全体では、百如是が備わっていることになる。さらに、一法界の一つ一つの法界に、他の九法界が備わっているので百法界となり、千如是となる。

(注:これは原文の順序のまま訳したので、わかりにくいが、現在の計算の順序にすれば、次の通りになる。「十法界」×「十如是」=「百如是」。「十法界」×「十法界」=「百法界」。「百法界」×「十如是」=「千如是」。つまり、「一法界」に「十如是」が備わっていることと、「一法界」に他の「九法界」が備わっていることを並列的に述べた上で、最終的に、「百法界」一つ一つに「十如是」が備わっているので、「百法界」全体では、「千如是」が備わっているのだ、というのである。絶対的真理に対する天台大師の表現方法は、以前にも述べたように、「備わっている」という表現を取るので、天台大師は、千種類の「如是」がある、ということを言おうとしているのではなく、それは無限に広がっている、限定されないのだ、ということなのである。つまり、絶対的真理は、相対的な人間の言葉や思考では表現できない、ということなのであり、互いに備わっているということを、人間の相対的な思考である数字に置き換えると、結局無限の数字になるのだ、ということである。特に仏教では「千」という数字は、それで「無限」「無数」という意味がある。つまり、無限の数字となるということがわかれば、それでいいのであり、それ以上の数字の思考は不必要なのである)。

この十法界を五つの段階に分けることができる。第一は悪であり、地獄・餓鬼・畜生の三つである。第二は善であり、修羅・人・天である。第三は二乗であり、声聞・縁覚である。第四は菩薩であり、第五は仏である。そしてこれを権と実によって判別して二法とする。第一から第四までは権法であり、第五は実法である。細かく論じるならば、それぞれに権実が備わっている。これ以降、しばらくは権実について述べる。

この権実は不思議であり、過去現在未来の三世(さんぜ)の諸仏の権実二智の悟りの次元である。この権実をもって悟りの次元に立つならば、そこで明らかにならない法はない。この悟りの次元において智慧を働かせるならば、そこで働かない智慧はない。そのために、『法華経』で「諸法(しょほう・あらゆる真理、事実という意味)」という。諸法とは、仏の智慧によって照らされる範囲は広いということを表わす。『法華経』に「ただ仏と仏だけが究める」とあることは、仏の照らす智慧は深く、平面的に言えば端から端まで、立体的に言えば底の底を尽くすということを明らかにするのである。また「この智慧の門は、理解しがたく入りがたい」ということは、その悟りの次元が妙であることを讃嘆することである。また「私(仏)が得た智慧は、微妙であり最も第一である」ということは、智慧とその照らす対象が寸分も違えることなく一致しているということを讃嘆することである。

(注:仏の智慧は不思議であり、人間の思考を越えている、ということは、これまでも繰り返し述べられていたことであり、『法華経』にもそのような文が大変多い。では、いわゆる悟りは人間の思考では得られないのであるから、結局、一般的な人間としては、ただ、仏の智慧は素晴らしいと讃嘆しているのみか、ということになるが、もちろんそれでは全く意味がない。そしてもちろんそのようなことはない。

「十法界」は、もともとはヒンズー教にある輪廻転生(りんねてんしょう)が大乗仏教に取り入れられて成立した考え方である。ヒンズー教の輪廻転生は、明らかに生前の行ないによって、次の生が決定し、悪いことをしていると、獣に生まれてしまい、最悪、地獄に堕ちる。また、良いことをすれば、天のような素晴らしいところに生まれる、というような素朴な考え方である。しかし、大乗仏教における輪廻転生は、一見、そのように説いている経典の文も多いが、天台大師が言うところはそうではなく、それはあくまでも、人間の精神的状態、さらに言うならば霊的状態を表現する方法として用いられているのである。

そしてそのひとつの霊的状態が、他のすべての霊的状態を備えているのだ、というものが、「百法界」という言葉で表現されている。上に述べたように、それは百とか千とかいうことではなく、数字にすれば無限に広がって行く、ということなのである。これは、たとえば、地獄のような最悪な精神状態、霊的な次元に陥ってしまったとしても、そこにも最高の仏の境地が備わっているということになる。そしてそれは無限に広がっているということは、どんな状態にあっても、他の霊的状態が備わっており、決してそこに陥ったら二度と出られないとか、他の状態、他の霊的次元に行くことは不可能だ、ということではなく、さらにまた、他の次元に行くためにはかなり特別なことが必要だ、ということでもない。ただ、その状態その次元に他の次元がすでにあるということに気づき、まずは上を見上げることなのだ、ということなのである。

また、仏の智慧は人間の思考では理解することができない、と繰り返されているが、それは、人間がその仏の智慧を求め、結果的にそれを得るようになるということは、すべて仏の次元からの導きを受けること以外にない、ということである。それを受けるためには、まず理解することであり、信じることである。

これからもまだまだ天台大師の教理は続くが、そもそも一つに他のすべてが備わっている、ということは、一つの教えに他のすべての教えが備わっている、ということである。その真理を受け入れるならば、複雑かつ大量の専門用語や教理を覚える必要はなく、その一つでも理解すれば、そこに他のすべての教理につながる道がすでに備えられている、ということなのであり、それが天台大師の教えに親しみをもって、それを追求する唯一の方法であり、心構えである。まさにそれは、『法華経』の一句でも保つ者は必ず仏になると、『法華経』の中で繰り返し記されていることそのものである)。

法華経』の「方便品」においては、散文の箇所では、この法について概略的に説かれており、後の箇所にある「開示悟入」の言葉によって詳しく説かれているのである。そして、「譬喩品」においては、「火宅の喩え」をもってこの法について譬喩で述べ、「信解品」ではこの法が理解されて、それがまさに「長者窮子の喩え」の通りに仏である「長者」は、弟子である子にこの法を与え、「薬草喩品」では、仏がこの法が理解されることを述べ、「化城喩品」では、まさにその喩えの通り、巧みに引率するようにしてこの法に入らせるのである。このように教えは多種あっても、ただ十如是における権実の法に集約できるのである。如来は優れた洞察によって、十法界の上から底まで、端から端まで明らかに究め、衆生の「どのような種か」、「どのように芽を出しているか」、「熟しているかいないか」、「収穫できるかできないか」ということを知るのである。如実にこれを知り、誤ることはない。殃掘摩羅(おうくつまら・殺人鬼だったが仏によって回心した人物)は悪人とはいえ、本来備わっている実が熟すれば、即時に悟りを得ることができるのである。四禅比丘(しぜんびく・ある程度悟りの境地を得ていたが、高慢心を起こしたため堕落してしまった僧侶)は善人であったが、備わっていた悪が熟して、悟りには至らなかった。まさに知るべきである。衆生法は不思議である。実であっても権、権であっても実である。実と権が相即(そうそく・この言葉も天台教学において重要な言葉である。これも互いに備わっているという意味)して、互いに妨げない。牛や羊のような眼をもって、衆生を見て観察すべきではない。一般人と同じ心をもって衆生を評価すべきではない。その智恵が如来智慧のようであってこそ、正しく評価することができるのである。なぜなら、衆生法は妙であるからである。