大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  45

『法華玄義』現代語訳  45

 

第二目 仏法について

詳しく仏法について述べると言っても、そもそも仏に別の法があるだろうか。先にあげた百法界・千如是は仏の境界である。ただ仏と仏だけがこの真理を究めるのである。箱が大きければ、その蓋も従って大きいようなものである。無辺の仏の智慧をもって、広大な仏の境界を照らして、その奥底まで見極めることを随自意(ずいじい)の法と名付けるのである。もし九の法界の相・性から本末まで照らして、塵も残さないならば、随他意(ずいたい)の法と名付けるのである。随自意・随他意の二法から十界の迹(しゃく)を垂れ、あるいは己身(こしん・自身の姿)を示し、あるいは他身(たしん・自分を他の姿として表わした姿)によって現われ、あるいは自意語(じいご・相手を想定しないで語る言葉)を説き、あるいは他意語(たいご・相手に合わせて語る言葉)を説く。この自意と他意は不可思議であり、己身と他身は微妙寂絶であり、みな権でもなく実でもないが、よく九の法界の権と仏界の実に応じ、それでも仏法においては何ら変化がない。諸仏の法はどうして妙でないわけがあろうか。このことを知るべきである。これ以上詳しく説く必要はないであろう。『法華経』の「方便品」の中に、このことについて説かれている。

 

第三目 心法について

詳しく心法について述べると言っても、今まで述べて来た法が、どうして心と異なるであろうか。ただし、衆生は非常に広く、仏法は非常に高いのである。初めて学ぶ者にとっては難しいと言わざるを得ない。しかし、心と仏と衆生の三つは異なることはないので、ただ自らの己心(こしん)を観察することは容易と言うことができる。『涅槃経』に「すべての衆生は、三定(さんじょう・上定、中定、下定の禅定のこと)をすべて備えている」とある。上定とは、仏性のことである。よく心性を観じるので上定とするのである。上は下を兼ねるので、仏法は衆生法を摂取(せっしゅ・包み込むこと)するのである。『華厳経』に「心を法界に遊ばせて、虚空のようであれば、すなわち諸仏の境界を知る」とある。この「法界」とは、すなわち中である。そして「虚空」は空である。「心」「仏」という具体的名称は仮である。これらの中・空・仮をすべて備えているのが、仏の境界である。したがって、心を観察することに仏法が備わっているのである。

またこの『華厳経』の「心を法界に遊ばせる」とは、感覚器官とその対象が相対して一念の心が起こることであるが、それを観察する時、必ず十界の中の一つの法界にその一念は属している。そのひとつの法界に百法界・千如是が備わっている。したがって、一念の中において、すべてみな備わっているということになる。この魔術師のような心は、一日中、常にあらゆる衆生のあらゆる五陰(ごおん・五蘊ともいう。人の認識が生じる段階を五つに分けたもの。このためここでは、認識そのものを指す言葉として用いられている)」と、あらゆる国土(注:これもあくまでもその人の認識による場所的概念)を作っているのである。いわゆる地獄から仏界に至るまでの、衆生の認識によって作り出された国土である。修行者は自ら、どの道に従うか選択すべきである。

また『華厳経』の「虚空のようだ」という言葉の意味は次の通りである。心を観察する時、何ら縁(えん・条件のこと)なしに自ら心が生じていることがわかる。もし縁がなければ心が生じないなら、心に自ら生じる力がないことになる。しかし、その縁も自ら生じることはないのである。心も縁も、もともとないものならば、その二つが相対しても何があるのだろうか。相対してもなお得ることはない。もちろん離れれば何も生じない。なお一つの生すらない。ましてや百法界・千如是があるだろうか。心は空であるから、心によって生じるところは、すべてみな空である。そしてこの空もまた空である。もし空は空でないならば、空に印をつけて仮として設けられたのである(注:「印をつけて」と原文にあるが、意味は「認識の対象とする」という意味と解釈できる。空は認識の対象とならないから空なのである)。その仮も仮ではない。仮なく空なく、つまり究極的には清浄なのである。

また、衆生の境界とは、上は仏法に等しく、下は衆生法に等しい。また心法とは、心と衆生と仏に区別がないことを心法というのである。

問う:一念の心にどのようにして百法界・千如是があるか。

答える:『摩訶止観(まかしかん・『法華玄義』と同様、天台大師講説、灌頂筆録の「天台三大部」の一つで、止観の実践について記された書物)』の中で、三種類の喩えをもって説いている通りである。

(注:一念の心にすべてが備わっているということは、『摩訶止観』に「一念三千(いちねんさんぜん)」という用語をもって述べられている。しかし、天台大師の講述の中では、「一念三千」という用語はこの『摩訶止観』の中に一箇所しか記されていない。この「一念三千」という用語を、天台教学の中心だと強調したのが、唐の時代の天台宗中興の祖といわれる湛然(たんねん・711~782。荊渓湛然(けいけいたんねん)と呼ばれる)である。そのため、「一念三千」の教理は、むしろ湛然が提唱したとさえ言われる。しかし、ここまでの『法華玄義』の記述の中でも、その単語さえないものの、意味的には、「一念三千」と同じ内容のことを、天台大師は繰り返し述べている。一念の心の中にすべてが備わっているということは、観心の基本であるからである。決して、荊渓湛然によって掘り起こされたような教理ではない)。