大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  42

『法華玄義』現代語訳  42

 

◎次に十如是の法について述べる。

初めに概略を述べ、次に詳細を述べる。

〇十如是の法について概略を述べる。

十如是の最初の如是相(にょぜそう)の相とは、いわゆる外見による言葉である。見てわかる事柄なので相、つまり姿や形というのである。次の如是性(にょぜしょう)の性とは、本来内にある事柄を指す。つまり本性のことであり、自ら改められるものではないので性というのである。如是体(にょぜたい)の体とは、正体ということである。如是力(にょぜりき)の力とは、能動を意味する。如是作(にょぜさ)の作とは、材料をもって作ることを意味する。如是因(にょぜいん)の因とは原因のことであり、如是縁(にょぜえん)の縁とは、因が果に向かうための条件のことであり、如是果(にょぜか)の果とは結果のことである。如是報(にょぜほう)の報とは、果による善悪の報いである。そして最後の如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)については、本は十如是の最初の相を指し、末は直前の報を指し、究竟等とは、その相から報までは究極的に等しいということである。

また、この究竟等ということについて、三転読を用いて述べるならば、次の通りである。「真実の相は如である」という意味に見るならば、十如是の最初から最後まで、空であるということで等しいということになる。そして、「真実の如くの相であり、真実の如くの本性である」という意味に見るならば、最初から最後まで存在しているということで等しいということになる。そして、「相は真実の如くであり、本性は真実の如くである」という中の意味で見るならば、最初から最後まで実相であることで等しいということになる。さらに、単なる等しいということではなく、空・仮・中が互いに備わっていることを究竟等とする。このように、究竟とは、中即究竟ということであり、実相においてすべて等しいとするのである。以上が概略である。

〇十如是の法について詳細に述べる

十法界のうち、近い性質の法界を合わせて、五つに分ける。最初は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の四趣(ししゅ・趣は道とも訳される言葉)、次に人・天であり、次は声聞・縁覚の二乗であり、次は菩薩と仏である。

(注:これより、「四趣」、「人、天」、「声聞、縁覚」、「菩薩」、「仏」における「十如是」について述べられるが、これは以前の注で述べたように、『法華経』には、「このような」という意味の「如是」に対応する具体的な事柄が記されていないために、天台大師は、各「如是」に対応する具体的な事柄を述べようとしているのである)。

〇初めに、四趣の十如是について述べる。

四趣における如是相とは、すなわち悪い人相のことであって、行きたいとは思わない場所という意味の不如意処(ふにょいしょ)に堕ちることを表わす。たとえば、すでに人間である時に、それは悪い顔つきとして表われ、占い師はそれを見抜いて凶と判断するようなものである。このような悪相が起これば、すでにそれは地獄に赴くことを表わしている。一般の人はそれを知らない。声聞と縁覚はおぼろげながらそれがわかり、菩薩は深くはなくてもそれを知り、仏はすべて知る。良い占い師が明らかにすべてを見抜くようなものである。このことを如是相というのである。

(注:このような天台大師の解釈から、輪廻転生に対する解釈は、あくまでこの世に今生きている人間における教えとして見ていることが明らかである。人間のこの世において、地獄に堕ちたらどうなるのか、畜生になったらどうなるのか、犬に生まれるか、馬に生まれるか、などということを考えるのではなく、悪い霊的状態で生きることは、決して次の生(しょう)に良い影響は与えない、ということを知ればじゅうぶんなのである)。

次に四趣における如是性とは、その本性は色で表わせば黒ということである。もっぱら黒い悪を積み重ね、改めることは難しい。木の中に火が備わっていて、条件がそろえばその火が現われるようなものである。『涅槃経』に「迷いの中の法は、それを生じさせる本性があるために、それによってそれにふさわしい生が生じる」とある通りである。この悪に四趣の生(しょう・その生きている間のことを指す)の本性があるために、条件がそろえばそれを生じさせるのである。泥や木で作られた仏像などは、外見は徳があるように見えるが、その中に仏の生の本性がないために、その生は生じることはない。しかし生きている人間の悪性はそうではないので、如是性というのである。

次に四趣における如是体とは、その醜く悪い外見とその心を指して、その正体の性質とするのである。またさらに、この世において自分自身の心を砕くことは、来世の体を砕くことだと言えるのである。また、この世で現われている悪い報いも、そのままではさらに来世の心と体を砕くために、砕かれる心と体を指して体というのである。

次に四趣における如是力とは、悪の働きがあるということである。たとえば、本来二つの物が対となって用いられる道具の片方だけを見ても、これはこのような働きのある道具であるというようなものである。『涅槃経』に「家を作るには、木を取って糸は取らない。布を作るには、糸を取って泥や木を取らない」とある通りである。地獄道には刀や剣に上らせる働きがある。餓鬼道には銅を飲ませ、鉄を食べさせる働きがある。畜生道には強い生き物が弱い生き物を征服し、魚は互いに食べ合い、家畜は車を引き、重い農具を引く。みなこれは悪の如是力の働きである。

次に四趣における如是作とは、ものを形作り、ものを変化させ、言葉や体の動きや心の動きによって、あらゆる悪を創作する。これを作(さ)というのである。『涅槃経』の第八に「たとえば、世間に悪行をする者を人でなしというようなものである」とある。すでに悪行を行なえば、それは地獄の如是作というのである。

次に四趣における如是因とは、悪の因習のことである。自ら悪を植えて悪を生じさせ、その繰り返しは絶えない。悪を習慣としているために、容易に悪を生じさせる。これを如是因と名付けるのである。

次に四趣における如是縁とは、縁とは因を助長させる条件のことである。あらゆる悪の自我意識、悪の所有、それに付随するものなどは、みな悪の習慣を助長させる。植えられた種を水が潤すようなものである。このように、因に応じてそれを助長させるので如是縁というのである。

次に四趣における如是報とは、報いとして現われたことである。欲望の多い人は、地獄において欲に走る時、それは銅の柱や鉄の床において苦しみを受けるようなものである。このために如是報と名付けるのである。

次に四趣における如是本末究竟等とは、空・仮・中の三つの意味がある。本が空ならば末も空である。そのために等しいという。また、悪の果報は本の本性の中にある。これは果報である末と本が等しいということである。本の本性は悪の果報の中にある。本と末は等しいということである。もし先に本性として後に起こることが備わっていなければ、占い師であってもそれを示すことはない。もし今現在のことを生じさせた過去のことがなければ、占い師もそのことを示すことはない。まさに知るべきである。最初のことがあって後のことがあるのである。以上は、具体的な事例をもって等ということを述べたのである。真理を悟った心は、仏の果と異ならない。真理の次元から見れば、一つの物、一つの香りも中道の真理でないことはない。これはすべては真理に帰一するということを述べたのである。この意味から本末究竟等という。この三つの意味が等しく備わっているので等というのである。