大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  44

『法華玄義』現代語訳  44

 

〇あらゆる視点からまとめる

仏界について述べれば、九または十である。広く言えば、あらゆる所にさまざまな仏の働きがある。仏の福徳を因として、無明を縁として、それによる果と報果がある。十如是をすべて備えている。『法華経』に「無量の煩悩のない清らかな果報を得る」とあり、「最も優れた法の中に長く優れた行を修し、初めて今、その果報を得た」とあり、「長い間、行を修して得た」とある通りである。『涅槃経』には「私が今捧げる食物をもって、願わくはこの上ない報いを受けることを」とある。『仁王般若経』には、「その最終段階まで達した菩薩は果報に住む」とある。『摂大乗論』には、菩薩の最終段階に上れば、生死が減る果報について述べている。これらはみな、それぞれの果報を述べているのである。果報はすなわち生(しょう)が滅っていくことである。なぜなら、生死を生じさせている無明が次第に尽きていくため、生が減って行くのである。生においては真理の光はますます盛んになり、同時に無明がある。そのために生というのである。次第に惑が除かれていくことを滅というのである。『大智度論』に「一人は草を刈り、一人は種を蒔く」とある。すべての働きが成就することは蒔かれた種が成長するようであり、智慧が惑を滅ぼすことは、草を刈るようである。道を増して生を損なうという意味である。仏の位の前の菩薩にはみな十如是がある。

また、仏の位を成就すれば、九また十である。なぜなら、中道の智慧は生を損ない、生は滅び尽くされていないのであるから、あらゆる段階に生滅の不同がある。しかし、仏の妙覚(みょうがく・仏の最高の悟りを指す)は、生を滅ぼし尽くす。そうなれば、報はないと言わざるを得ない。したがって、『仁王般若経』には、「ただ仏だけが浄土にいる」とあるのである。すべての生が尽きて、大いなる悟りに達したのである。それ以上の生死がないのは、煩悩が滅ぼし尽くされているからである。智慧の徳が円満ならば、果を生じることはなく、それ以上の生死がないのであるから、報果はない。また、現世の報と来世の報と未来世の報において、九を述べ、十を述べることができる。

『涅槃経』の文をもって見るならば、「願わくは無上の報を得ることを」とは、すなわち仏界の報が無上であることを明らかにしているのである。仏の報は無上であるとするならば、仏の相・性などの九の法はことごとくみな無上である。なぜならば、六道の相・性は、煩悩がすべてそろっており、声聞と縁覚の二乗の相・性は、煩悩のうち、無明だけを残してすべて断っており、菩薩の相・性は次第に煩悩をすべて断ち切っていくのである。しかし、仏の相・性は、その最上の智慧は虚空のように清らかであり、最初から煩悩に染まらないことを表わすために、仏の十の法は最も無上であるというのである。

また次に、六道の相は生死の苦しみを表わし、二乗の相は涅槃の楽を表わし、仏界の相は生死でもなく涅槃でもない中道の常・楽・我・浄を表わす。(注:小乗仏教の「すべては無常である」「すべては苦しみである」「あらゆるものは無我である」「すべては汚れている」という見方に対して、大乗仏教では、大乗の悟りを得れば、それらがすべて逆になって、常であり、楽であり、永遠の我があり、すべてが清浄となるとする。それを常楽我浄という)。このために、仏界は最も無上であるというのである。

また四趣は悪を表わし、人、天は善を表わし、声聞と縁覚の二乗は煩悩から離れた善を表わし、菩薩と仏は、煩悩でもなく煩悩がないのでもないことを表わす。このために、仏界は最上というのである。

また次に、六道はあらゆる因縁によって生じることを表わし、二乗は即空を表わし、菩薩は即仮を表わし、仏は即空・即仮・即中を表わすために、仏界は最も無上というのである。

また次に、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の四趣はただ悪を表わすだけであり、善を表わすことはできない。人、天の相はただ善を表わすだけであり、また悪を表わすことはできない。二乗はただ煩悩から離れていることを表わすだけであり、善と悪を兼ねることはない。仏の相は、合わせてすべての相を表わす。もし仏の相を理解するならば、すなわち遍くすべての相を理解する。このために、仏界は最も無上であるとする。このために『賢聖集(けんじょうしゅう・具体的には不明)』に「地獄における中陰(ちゅういん・死後、次の生に行くまでの中間的次元)はただ地獄を見るだけであり、上の世界を見ることはできない。天の中陰は、天および下の世界を知る。その相はそれを表わすが、これは正遍智(しょうへんち・遍くすべてを照らす智慧)とはいわない」とある。仏の相はこの正編智を表わすのである。仏の智慧はすでに遍くあらゆる相を知るので、あらゆる経典の教えは広くこのことを説くのである。

この法について、五味をもって説けば、次の通りである。

乳味の教えは菩薩界と仏界の両方の相・性を説き、あるいは、即仮の等に入り、あるいは即中の等に入る。即中に入ることはすなわち無上であるが、一つの方便を帯びているので、完全に無上とは言えない。酪味の教えは、ただ二乗の相・性を明らかにし、析空(しゃっくう・段階的に空を観じること)の等に入ることを得るだけであり、なお即空の等に入ることを明らかにしない。ましてや、即仮・即中を明らかにするわけがない。このために、無上ではない。生蘇味の教えは蔵教・通教・別教・円教の四種類の相・性を明らかにし、あるいは析空、あるいは即空・即仮・即中の等に入る。ただ仏の相・性のみ即空・即仮・即中に入ることができるが、蔵教・通教・別教の方便を帯びているので、無上ではない。熟蘇味の教えは、通教・別教・円教の相・性を明らかにし、即空・即仮・即中に入ることができるが、通教・別教の方便を帯びているので、無上ではない。この『法華経』は、九種類の如是の相・性はみな即空・即仮・即中に入ることを明らかにする。「あなたは本当に私の子、私はあなたの本当の父である。ひとつの存在、ひとつの香りもすべて仏の教えであり、それ以外にない」とある通りである。このために、仏界は最も無上であるというのである。

(注:これ以降も、一つの段落の最後に「五味」の教えによって分類する箇所が多く記されている。しかしパターンは全く同じであるため、文章は長くても、内容は機械的に当てはめられている形となっている)。

また次に、『法華経』以外の経典に記されている九の如是の相・性は、仏の相・性の即空・即仮・即中に入ることができないので、『法華経』においてみな方便を開き、遍く入ることができるようにしている。また、『法華経』の相・性を見るに、そのままが即空・即仮・即中であり、あらためて入ることを説かない。そのために如来はこの『法華経』を讃嘆して、最も無上とする意味はここにある。

また次に、百法界・千如是など、上下並列共に多いが、経典や論書では詩偈を用いてわかりやすく結んでいる。『中論』の偈において、「因縁をもって生じるところの法は、私はすなわちこれ空と説き、また名付けて仮名(けみょう=仮)とし、また中道の義と名付ける」と記されている。六道の相・性は、すなわち「因縁をもって生じるところの法」である。二乗および通教の菩薩などの相・性は、「私はすなわちこれ空と説く」に相当する。蔵教の菩薩(=六度の菩薩)および別教の菩薩の相・性は、「また名付けて仮名とする」に相当する(注:二乗の教えと通教は空に重点が置かれるが、蔵教では存在が先ずあるという有による析空であり、また別教では円融しない仮を説くので、蔵教と別教の菩薩が有や仮という意義によって並列的に述べられていることは大変興味深い)。仏界の相・性は、「また中道の義と名付ける」に相当する。要点をまとめることは少ないが、前に述べたことを収めるのであり、意味は明らかであろう。

また『涅槃経』の偈に「あらゆるものごとは無常である。これは生滅の法である。生滅が滅し尽くされ、寂滅を楽という」とある。六道の相・性は、「あらゆるものごと」に相当する。二乗と通教の相・性は、「無常」に相当する。別教の菩薩の相・性は「生滅が滅し尽くされる」に相当する。仏界の相・性は、「寂滅を楽という」に相当する。また「生滅が滅し尽くされ、寂滅を楽という」とすれば、これはまだ別教の相・性なのである。なぜなら、生滅に即して静寂であるからである。しかし、生滅に相対しない寂滅を「楽」とするのは、円教の相・性である。

また、『七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ・過去の六仏と現在の釈迦仏が共通して教えた戒律を詩偈の形にしたもの)』に「あらゆる悪をするな。あらゆる善は謹んで行なえ。自らの心を清めよ。これは諸仏の教えである」とある。四趣の相・性は、「あらゆる悪」に相当する。人、天の相・性は、「あらゆる善」に相当する。「自らの心を清めよ」は、空に入ることであり、これは二乗の相・性である。仮に入って「自らの心を清める」のは、菩薩の相・性である。中に入って「自らの心を清める」のは、仏界の相・性である。

もし十如是の相・性が、あらゆる経典や論書や戒律の述べるところと一致していることを理解すれば、蔵教・通教・別教をよく理解でき、すべての法について知ることにおいて妨げがなくなる。

以上、衆生法について、十界と十如是を用いて説いた。