大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  46

『法華玄義』現代語訳  46

 

第三項 妙について述べる

第一章第二節で述べられた通り、先に「法」について述べたので、次に「妙」について述べる。

(注:ここまでは「妙法」の「法」について先に述べられてきたが、ここからは「妙」の解釈となる)。

妙について述べるにあたって、概略的に述べ、次に詳細に述べる。

第一目 概略的に述べる

(注:第一章・第四節・第一項・第一目(37)の中の「注」でも述べたように、一度、「妙」について概略的に述べられたが、ここで再び、「概略的に述べる」という箇所があらわれる。もちろん、内容は前の箇所とは全く異なっており、天台教学の心臓部とも言うべき「絶待妙」と「相待妙」についてである)。

妙について概略的に述べるにあたって、「相待(そうだい・妙の対立概念である麁(そ)と相対する妙)」と「絶待(ぜつだい・相対関係を越えている絶対的妙)」の二つがある。『法華経』はこの二つの妙を明らかにしているのであって、その他に絶待でもなく相待でもないという文はない。絶待と相待を述べれば、さらに何の煩悩を断じ、何の真理を表わす必要があるだろうか。そのために、これ以外に述べる必要はないのである。光宅寺法雲は『法華経』の妙を用いて、他の経典の麁に相対させた。これは大いなる誤りであり、前に述べた通りである。

(注:原文では「対する」に相当する言葉を「待する」としているが、現代語に合わせて「対する」あるいは「相対する」とする。しかし用語としては、そのまま「相待」「絶待」とする)。

Ⅰ.相待妙

相待妙とは、麁に相対する妙のことである。半字(はんじ・不完全な教えという意味)を麁として、満字(まんじ・完全な教えという意味)を妙とした場合の妙が相待妙である。またこれは、無常と常、小乗と大乗の相対は、麁と妙の相対であり、この場合の妙が相待妙である。『維摩経』に「どんな教えであっても、それは有でもなく無でもない。因縁によってあらゆる存在が生じるのである」とある。すなわち、これは満字を明らかにすることである。また「最初、仏は木の下に座り、魔と戦って勝ち、甘露のような涅槃を得て悟りを開いた」とある。すなわち、昔が半字であったことをもって、それに相対させることによって、満字を出すのである。『般若経』に「この地上において第二の教えを説くことを見る」とある。これは、釈迦が最初に教えを説いた場所である鹿野苑(ろくやおん)を第一として、それに相対させて、『般若経』が説かれたことを第二とするのである。『涅槃経』に「昔、サルナートにある鹿野苑において、初めて教えを説き、今、クシナガラ(注:釈迦入滅の地)において、また教えを説く」とある。あらゆる経典は、鹿野苑において説かれた教えを半字あるいは小乗とし麁とし、それに相対させて、満字、大乗、妙を明らかにするのである。これらの意味はみな同じである。『法華経』には「昔、サルナートで四諦の教え、五陰の生滅について説き、今、また最妙無上の教えを説く」とある。これもまた、鹿野苑を麁とすることに相対して、『法華経』を妙とするのである。ここにおける妙の意味はみな同じである。麁に相対することもまた同じである。経文の意味はここにあるのである。

問う:五時八教で見るならば、第三時の方等教に至れば、完全な教えである満字を余すところなく説いているわけであるから、方等時以降の教えをすべてみな妙とするべきではないか。

答える:教えの区別もせず、時も定まりを設けるべきではない。なぜ方等時という時に限るのであろうか。たとい方等時という時を設けたとしても、そこには別に理由があるのである。なぜなら、次の通りである。能力の優れた大乗仏教の求道者である菩薩は、方等教において妙に入ることができ、それは『法華経』において妙に入ることと異なることはない。一方、能力の劣った菩薩および声聞と縁覚の二乗の人は、なお方便の教えによって、あらゆる段階において整えられていく必要がある。方等教は、五味の教えの区分で言うなら、生蘇味の教えにおいて妙を論じて麁に相対している。『般若経』は、熟蘇味の教えによって妙を論じて麁に相対している。『法華経』は、生蘇味と熟蘇味の二味の方便の教えなしに、純真の醍醐味において妙を論じて、これによって麁に相対する。この二つの妙を論じることにおける妙自体に、異なることはないが、ただ、方便の教えを帯びているのと帯びていないことの違いはある。

また次に、三蔵教はただ半字の生滅の教えであって、完全な満字の理法に通じていないので、麁と名付ける。満字は不生不滅の教えであり、よく完全な満字の理法に通じるために、妙と名付ける。この完全な満字の理法に通じることにおいて、二種ある。一つは方便を帯びて理法に通じる教えで、もう一つは直ちに満字の理法を表わす教えである。方等教と『般若経』は、方便を帯びて満字の理法に通じる教えである。『法華経』は直ちに満字の理法を顕わす教えである。このために『中論』の偈に「能力の劣った弟子のために、因縁の生滅の教えを説き、能力の優れた弟子のために、因縁の不生不滅の教えを説く」とある。

もし即空を説かないならば、これは真理に通じる方便の教えである。このためにそれは麁である(注:蔵教のこと)。もし即空を説くならば、これは中(ちゅう)に通じる方便の教えである(注:通教のこと)。中に通じる方便であり、さらに即空・即仮を帯びて中に通じるならば、これは麁である(注:別教のこと)。空・仮を帯びずに、直ちに中に通じれば、それは妙である(注:円教のこと)。

問う:結局、最初の乳味から最後の醍醐味に至るまで、同じく満字となるなら、これはどのようなことに喩えられるのか。

答える:今、喩えをもって五味の喩えを解釈しよう。川を渡す船に、公共機関の船に大中小の三つがあり、個人の私船がひとつあるとする。こちら岸からあちら岸に人を渡す時、乳味の教えは、公共の大と中の二つの船をもって共に人をあちらの岸に渡すようなものである。酪味の教えは、私船であるため、向こう岸まで渡せず、川の真ん中の中州まで渡すようなものである。生蘇味の教えは、公共の小さな船と私船をもって、一度、人を中洲まで渡して、それから公共の大と中の二つの船をもって人をあちらの岸に渡すようなものであり、公共の三つの船と一つの私船のすべてを用いる。熟蘇味の教えは、公共の小さな船をもって中洲まで渡して、公共の大と中の二つの船をもって人をあちらの岸に渡すようなものである。しかし、醍醐味の教えは、最初から大きな船をもって人をあちらの岸に渡すようなものである。大中小の三つの船は共に公共のものなので、満字を指す。私船は公共のものではないので半字を指す。公共の船の中に、中と小は大きくないので、収容人数に限りがある。しかし、大きな船は壮麗であって、収容人数は非常に多い。この大きな船をただ一つの妙とするのである。智者はこの譬喩をもって理解することができるであろう。この喩えの意味は以上の通りである。