大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  47

『法華玄義』現代語訳  47

 

Ⅱ.絶待妙

絶待妙について述べるにあたって、蔵教・通教・別教・円教に応じて四つの項目を立てる。

第一に、人の能力の性質に応じて、さまざまに生じる仮(け)の教えは、そのような教えをもって真諦(しんたい・真理の境地を指す)に入るならば、そのような相対的な仮の教えは相対ではなくなる。このために、『維摩経』の中で舎利弗が「私は解脱の中には言葉がないと聞いている」と述べている。これは三蔵教の経典の絶待妙の意味である。

第二に、さまざまな理法に応じて生じる仮の教えについて述べるならば、そもそも、この世のすべては、魔術師が作り出す幻のようなものであって、それぞれの事象そのものが真理であり、一つの事象であっても、真理でないものはない。したがって、何を指して真理ではないとするのだろうか。ここから見れば、あらためて悟りを得るという三蔵教の絶待妙も絶対ではなくなり、悟りとは関係なく、事象がそのまま真理であるということこそ、すなわち絶待妙である。これは通教の絶待妙である。

第三に、別教の教えから見るならば、通教の、すべての事象がそのまま真理であるという絶待妙も、かえって世諦(せたい・この世の次元の真理)となる。なぜならば、それは大いなる涅槃でなく、なお生死の世諦だからである。したがって、その絶待妙はかえって相対的なものとなる。もし別教の中道に入るならば、相対は消える。

第四に、円教の教えは、無分別の教えを説く。端から端まですべて中(ちゅう)であり、すべて仏法でないものはなく、区別なく清浄である。これ以外にどうして仏法があって、仏法に相対するであろうか。すべてが如来の法界であって、その法界を出て、その外にまた法のような姿があるようなものはない。何に対して麁とし、何に比べて妙というのだろうか。相対するところなく、また相対を絶するところもない。どのような言葉で表現したらよいかわからないので、強いて絶待妙という。

『涅槃経』には「大という言葉は、量ることができない不可思議な対象を大とするのである。たとえば、虚空という言葉は、小空というものがあって、それに相対して名付けられた言葉ではないようなものである。涅槃もまた同様である。小さな涅槃があって大涅槃というのではない」とある。妙もまたこのようなことである。妙は不可思議という意味で名付けるのである。麁に相対して妙というのではない。法界を指して広大独絶と表現するなら、それは正しい表現である。しかし、この絶という言葉は、何に相対して絶というのだろうか。そもそも法界はすべてを超絶して清浄であり、見聞覚知する対象ではない。言葉にすることはできないのである。

法華経』に「やめよ、やめよ。説くべきではない。私の教えは妙であって思慮の及ぶものではない」とある。「やめよ、やめよ。説くべきではない」とは、すなわち言葉を超絶しているということである。「私の教えは妙であって思慮の及ぶものではない」とは、思慮を超絶していることである。また「この教えは示すべきではない。言葉では表現できない」とある。これもまた超絶していることを讃嘆する文である。相対的なものをもって示すことはできない。また、絶対的という言葉をもっても示すことはできない。相対的、絶対的ということを滅しているために、「寂滅(じゃくめつ)」というのである。また「すべての実在は、常に寂滅の姿であって、最後は空に帰す」とある。この「空」という言葉や概念もまた空であるので、すなわちまた相対的、絶対的ということがない。『中論』に「もし真理が相対的なものをもって成り立っているならば、この真理はかえって相対的ということになる」とある。真理はすなわち相対的なものによることなく、また相対的に成り立っている真理などない。『華首経(けしゅきょう)』には「すでにすべてのものは無生であるという無生法忍(むしょうぼうにん)の悟りを得た、といことは、また無生を生じさせないことである。無生は即ち無生である」とある。これをまさに絶待妙と名付ける。

これ以外に、何を絶してどのような理法を明らかにするというのだろうか。とりとめのないことになって、意味のない戯論(けろん)に陥るだけである。すなわちこのようなことは、悟りのない感情によるものに過ぎず、「絶対」は「絶対ではないこと」に相対し、「絶対ではなく相対でもないこと」は、「絶対であって相対でもある」に相対し、言葉は次々と出て来るが、きりがないのである。なぜならば、言葉というものは、思慮感覚から生じるものであり、心の中の慮りはやむことがないので、どうして言葉が自然と出て来ないようになろうか。愚かな犬が自分の影を追って、いたずらに自ら疲労するだけで、終わりがないようなものである。正しく絶対的な理法を悟れば、思慮感覚の風はやみ、心は澄んだ水のように清らかとなり、言葉や思いはみな絶える。賢い獅子は、影を追うことなく、人を目標とするようなものである。影の本がなくなれば、影もなくなる。悟る時、法界の他に法がないことを知って、絶対を論じるのは、有門(うもん・すべての実在があるということを前提とする小乗の教え)において絶対を明かすことである。さらにこの絶対をもまた絶するのは、空門(くうもん・すべての実在は実体がないということを前提とする大乗の教え)において絶対を明かすことである。優れた馬が、鞭を入れられる前に、鞭を見ただけで騎手の思い通りに走るようなものである。これを絶待妙と名付けるのである。

この相待妙と絶待妙の二つの妙を用いて述べるならば、これまで述べて来た衆生法・仏法・心法はすべて、この二つの妙を備えているのである。

また、先に述べた蔵教・通教・別教・円教の四つの絶待妙を用いて五味の教えを述べれば、次の通りである。乳味は別教と円教の二つの絶待妙があり、酪味は蔵教の絶待妙があり、生蘇味は蔵教・通教・別教・円教の四つの絶待妙があり、熟蘇味は通教・別教・円教の三つの絶待妙があり、この『法華経』は、ただ円教の絶待妙があるのみである。方便である権を開いて、実を顕わす絶待妙は、この円教の絶待妙のみである。

問う:なぜ絶対ということを用いて妙を解釈するのか。

答える:ただ妙を絶対と呼ぶのみである。絶対は妙の異名である。世の人が「絶する」と動詞として用いる意味の絶対である。さらに言うならば、妙は能動的絶対であり、麁は受動的絶対である。この妙に麁を絶する働きがあるために、絶対ということを妙と名付けるのである。

迹門の中に方便の教えだけがあるならば、そこに自然とさらに優れた教えは起こらない。また、優れた教えが起こるならば、先にあった方便の教えは絶せられる。この場合、優れた教えが他の教えを絶するという意味で、妙と名付けるのみである。また、迹門の中で優れた教えがすでに起こるならば、絶対的次元での優れた教えは自然と起こらない。そこに、絶対的次元での優れた教えが起こるならば、相対的次元での優れた教えは絶せられる。相対的次元での優れた教えを絶するのは、絶対的次元での優れた教えの働きによる。相対的次元を絶する優れた教えを、絶対的次元での優れた教えと名付けるのである。このために、絶対というのである。

また、絶対的次元での優れた教えが起こるならば、観心の妙は起こらない。観心に入り、相対的なあらゆる条件が滅びれば、言葉も生ぜず、絶対的次元の教えは絶する。絶対ということは観心によるのである。この絶対ということを観心の絶待妙と名付ける。この義を顕わすために、絶対を妙とするのである。「相対的次元での絶待妙」をもって、先にあげた衆生法を妙とする。「絶対的次元の絶待妙」をもって、先にあげた仏法を妙とする。「観心の絶待妙」をもって、先にあげ心法を妙とする。

以上、このように、前の四つの絶待妙は並列的に蔵教・通教・別教・円教の四つの教えに当てはめた。

この「相対的次元での絶待妙」「絶対的次元の絶待妙」「観心の絶待妙」の三つの絶待妙は、段階的関係において円教に当てはめた。